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2011年11月30日

『ラーメンと愛国』速水健朗(講談社現代新書)

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 ラーメン屋でラーメンを食べることがない私にとっても、昨今のラーメン屋店主にみられるあの妙な職人気質は、メディアを通して知られるところである。
 『ラーメンと愛国』、このタイトルから直ちに頭に浮かんだのは、本書において〝作務衣系〟と呼ばれるあの手の店だった。
 「ラーメン」ではなく「麺屋・麺処」などと称し、画数の多い漢字を多用した屋号や、それを記した作務衣や黒Tシャツといったユニフォーム、相田みつを風手書き文字で掲げられたメニュー、もちろん肝心のラーメンも、スープ・麺・具材・食べ方にいたるまでがこだわりぬかれた入魂の一品……。
 あの妙にナショナリスティックな装い、かねてから気になっていたのだ。ラーメンにも、ラーメン屋にもまったくかかわり合いのない私が本書を手に取ったゆえんである。

 脱サラしたおじさんが町の片隅で細々と営む……といったラーメン屋のイメージはもはや遠い過去のもの。就職難のこの世の中で、一から店を築きあげようとする若者がああしたスタイルをとるのは、いわゆるヤンキー文化の傍流なのだろう、くらいに認識していたのだが、本書はその〝作務衣系〟出現のカラクリを解き明かしてくれている。
 日本にラーメンがもたらされてから、〝作務衣系〟にいたるまでの、日本人とラーメンのたどった道には、都市問題や国土開発、産業構造の移りかわり、メディア戦略の加速化等々が、複雑に絡み合い横たわっていたのだ。

 戦後の闇市の支那そば屋台に連なる行列から、家で手軽に作れる支那そば、というアイデアを得た日清食品創業者・安藤百福の「チキンラーメン」開発のエピソードから本書ははじまる。都市部で増加した単身者の食生活を支えたラーメン。ドラマ『渡る世間は鬼ばかり』の舞台であるラーメン屋「幸楽」にみられる親子三世代の幸福像の変遷。横浜のラーメン博物館が採用した古き良き時代・昭和三〇年代への郷愁と結びつく食べ物としてのラーメン。地方の観光資源として開発されたご当地ラーメン。九〇年代のフード番組やリアリティーショーがとりあげたラーメンとラーメン店……。
 さまざまな視点によって、ラーメンが日本の国民食となっていった経緯が読み解かれてゆく、ラーメンをめぐる日本戦後史というべき一冊である。

 その冒頭、私が惹きつけられたのは、片岡義男の「スパゲティナポリタン体験」についての記述である。片岡がはじめてスパゲティナポリタンを食べたのは彼が中学生のとき、日本が進駐軍の占領下から解放された頃のことだった。

 片岡は、この食べものから奇妙な時代が到来したことを感じとっている。それは、「オキュパイド・ジャパン(占領下の日本)」が終わったあとにやってきた、アメリカと日本が奇妙に交わった感覚だったという。これは単に、日本がアメリカ化したことを示しているわけではない。由来はアメリカでも、それを日本流に、正統派ではない形で独自の変化を加えてしまう。そんな時代の到来を感じとったのだ。いまの感覚で言えば、グローバリゼーションの日本的解釈、グローバリゼーションのローカライゼーションといった感覚に違いない。

 「ラーメン」をめぐる戦後史に「スパゲティナポリタン」が持ち出されるのは唐突だし、片岡義男という人も「ラーメン」のイメージからはほど遠い。しかし本書が、片岡義男がスパゲティナポリタンを通じて見いだそうとしたアメリカへの興味をめぐる論考『ナポリへの道』の「ラーメン版であると言ってよい」と著者が書くように、このふたつの料理(ともに戦後、子どもに人気のあるメニューの代表だった)の普及には、アメリカの小麦戦略が深く関わっていた。
 戦後、「栄養改善」の名のもとにパン食が過剰に奨励されたが、その原料たる小麦は、これを大量にもてあましていたアメリカから買ったものだった。アメリカの「余剰農産物処理法」によって、日本政府は買い入れた農産物を民間に売って得た金を復興資金として使うことができたのである。

 これまで、ラーメンやスパゲティナポリタンが、マクドナルドに代表される、食における文化帝国主義の産物であるとみなされることはあまりなかったとして、著者はこうつづける。

 そもそも、それぞれイタリア、中国を連想させる食べ物として偽装されているので、誰もアメリカ化とそれらが結びついているとは考えられないのである。だが、このふたつの料理の普及が、アメリカの小麦輸出政策を背景に持ったものであり、「イタリア」「中国」といったナショナルイメージを偽装して日本の食文化を浸食してきたものと考えると、直接的にアメリカのイメージを帯たハンバーガーやコカ・コーラやジーンズやハリウッド映画以上に、よほど巧妙なアメリカ化をもたらしていると言えるのではないか。

 イタリア料理が浸透するにつれて、昔ながらの喫茶店や洋食屋で食される懐かしいものとなってしまったナポリタン。一方ラーメンは進化し続け、食という概念では包括しきれない一大ジャンルを形成した。そんななか、グローバル化の波にさらされた九〇年代末に出現した〝作務衣系〟は、「グローバリゼーションのローカライゼーション」の、もっとも端的な表出なのである。


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2011年11月18日

『洋画家たちの東京』近藤祐(彩流社)

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「彼等は食う為でなく、実に飢える為、渇するために画布に向う様なものである。」


 帯にあるのは、漱石が朝日新聞に発表した文展評「文展と芸術」からの一文である。青木繁、村山槐多、中村彝、関根正二、長谷川利行……漱石のいうように、食うや食わずの暮らしのなかで、その画業を貫こうとした洋画家たちの足取りを、東京という都市の移り変わりとともに追ってゆく。

 文展(文部省美術展覧会)が創設されたのは明治四十年のこと。西洋画ははじめ、その写実性ゆえ、芸術というよりは、日本が近代国家たるためにぜひとも獲得すべき技術としてもたらされた。明治初期、殖産興業をめざす国家の祭典・博覧会の美術部門における西洋画は、「ほんものそっくり」であることや、その手業の妙によって人々の関心を集めていたのだ。それが、今日いう芸術、つまり画家という個人の〝表現〟として認識され、流通してゆくのは、明治も後半になってからのことである。

 その渦中、同時代の画家たちのなかでも飛びぬけた想像力と創造力によって、表現者としての煌めきをいち早く瞬かせながらも、こころざし半ばで短い生涯を終えたのが青木繁であった。

 今年、青木の没後百年を記念した回顧展「没後100年 青木繁展 よみがえる神話と芸術」が各地を巡回していたが、本書を読み、これを見逃してしまったことを深く後悔した。

 美術の教科書でおなじみの《海の幸》や、《わだつみのいろこの宮》など、神話を題材としたロマン主義的な作風で知られる青木の作品のなかでも、印象的なのは《黄泉比良坂》だ。輪郭線のぼやけた人影の浮かぶ青い画面は、当時の洋画檀を二分していた白馬会と明治美術会、どちらの画風とも異質で、一見して抽象画のようにもみえる。

 さて、本書はその青木繁が東京へ足を踏み入れたところからはじまる。

 明治三十二年六月、身なりも手荷物も簡素ながら、丸眼鏡の奥から不敵な眼光を放つ十七歳の若者が、東京汐留の旧新橋停車場に降り立った。過剰なまでの夢と野心を胸に、故郷久留米より単身上京した青木繁(一八八二~一九一一)である。明治末期の日本洋画界に忽然と現れ、そして瞬く間に燃えつきて消えた不世出の洋画家の東京滞在は、東京美術学校在学の四年間に前後する八年におよぶが、たびたびの帰郷や房総布良などへの旅行を除くと、実質五年十カ月になる。その短期間に、なかば伝説となった数々のドラマが紡がれることになるが、この東京滞在にあって青木は、たいていは経済的な理由から数箇処もの住所に移転を繰り返す。その詳細は後述するとして、青木繁にとって東京にあることは、洋画家として世に出るための必須の条件であるのとは裏腹に、みずからの生き血を絞り、泥水を啜る貧窮との闘いであった。

 青木の「夢と野心」とはもちろん洋画家としての成功だが、十七歳の彼は、このときすでに一人の〝芸術家〟だったろう。
 前述の回顧展にあわせて青木を取りあげていた『日曜美術館』や『芸術新潮』では、作家の破天荒なキャラクターがクローズアップされていたが、そう、青木繁という人は、世の常識からの逸脱ぶり、それがあたかも〝表現する者〟ゆえの属性のようにみなされている芸術家キャラを、日本の洋画史史上でいち早く発揮した人でもあったようだ。

 明治四十年に東京を去った青木とバトンタッチするようにして東京へやってきた村山槐多や関根正二にしてもしかり。自我の塊のような彼らのエピソードの数々は本書にもさまざまに紹介されているが、著者の筆はあくまでニュートラルである。

 読んでいるあいだも、そして読後にも、強くこころに残るのは、東京で夢を追い、破れ、貧しさと苦悩のうちにその命を燃やし尽くした画家たちへ向けられた著者のまなざしである。

 著者は、彼らに寄りそい過ぎることもなく、東京という大都市のなかのひとつのパーツとして彼らを突き放すこともしない。それは、時を経ていかに様変わりしようとも、東京という同じ空間に生きる者としての、著者なりの距離のとりかたではないか。

 本書にとりあげられた画家の多くは地方出身者だが、著者自身は東京生まれの東京育ちである。郷里から夢をもって東京を目指す、その、東京という都市の求心力は、もともと東京にいる者にとってはわかり得ないものだろう。

 ここで著者は、本業の建築家の眼によって都市の変遷を見据えつつ、彼らの消息をたどることを通じて東京を眺めようとしている。その視線は、明治・大正・昭和戦前から戦後という、過ぎし日の東京だけでなく、著者が今まさに生きている現在の東京にまで注がれているのだ。それは、本書を執筆するあたり、著者が画家たちゆかりの地をその足で歩き、撮影した写真にもあらわれている。

 そうした中立的な視線によって綴られる若き画家たちと東京という都市との格闘は、それでいながら、著者の彼らへの思いにあふれている。それが証拠に、本書を読んでいると、無性に彼らの絵が観たくなるのだ。私は本書を読み終えると、竹橋の国立近代美術館へ走った。日本の近代洋画に関する本は多々あるが、実際に絵を観たいという気持ちに、これほどさせる本はそうはないと思う。

 明治三十二年の青木繁の上京からはじまった本書は、戦後すぐの昭和二十三年、松本俊介の死をもっておわる。亡くなる前年の松本に会った画家・佐田勝の回想を引いたあと、著者はこうつづける。

 すでに繰り返し触れてきたように、青木繁が東京を去ったのは明治四十年である。昭和二十二年はそれから数えて、ちょうど四十年にあたる。仮に青木が生きていたなら六十五歳であり、日本近代洋画史のほとんどが、意外にも人間ひとりの生涯の長さにおさまることになる。自他共に認める圧倒的な画才をもち、洋画家として大成するべく東京の洋画界に徒手空拳で挑んだ青木繁は、その驕慢な正確もあって失意のうちに孤独な死を迎えた。またその残像を追うように二十歳そこそこで逝った村山槐多や関根正二にしても、その死因の何がしかは、社会通念を無視するかのような個人主義信仰や芸術至上主義であったろう。比較するに松本俊介は勤勉な努力家であり、性格破綻の欠片もない良識人であった。(略)しかしその松本さえも画業で食べてゆくことはできず、実収入を得るための生業に身を削り、限られた残り時間で絵を描いていたのである。

 本書の余韻のなかで訪ねた美術館で、日本の洋画の数々に触れながら、それが〝芸術〟として立ち現れるまでの年月を思わずにはいられなかった。

 塩味もダシもきいていないスープのような黒田清輝の婦人像、いったいどうしてこんな画題を?と首を傾げたくなる原田直次郎の《騎竜観音》。このあたりまではまだ、明治の人たちが必死で西洋画をものにしようとしていたのだなあ、という思いで眺められる。けれども、漱石の言葉にあるように、渇し、飢えてまでもキャンバスに向おうとした画家たちがぞくぞくと東京の地を踏むようになってからの日本の洋画の、次から次へとあらたな表現様式が現れてゆく、その慌ただしさにあらためて驚かされる。

 明治のはじめはひたすらその写実性が追求され、その後には、「何を描くべきか」が議論の的とされていた洋画。その〝表現〟の問題が取り沙汰され、画家たちが己の表現としてこれを描くようになったとき、本場ヨーロッパのあたらしいイズムの輸入とあいまって、あたらしい〝表現〟が次から次へと生みだされてゆくのだ。著者は、この近代日本洋画史の大きな転換点を、画家たちと東京への、ニュートラルかつ愛あるまなざしによって、繊細に、そして丹念に描ききっている。


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