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2011年09月30日

『くうねるところにすむところ:家を伝える本シリーズ26 おひとりハウス』篠原聡子(平凡社)

くうねるところにすむところ:家を伝える本シリーズ26  おひとりハウス →bookwebで購入

 建築家が、子どもたちに向けて、さまざまな切り口から「家」を伝える絵本のシリーズ。
 1994年、著者がはじめて設計した集合住宅「コルテ」は、ワンルームマンションだが、同じ部屋が一列にならぶだけの味気ないプランでは寂しいと、中庭を挟んで二つの棟を向かい合わせた。中庭の空間で住人たちがコミュニケーションをとれたら、との思いからである。
 しかし、設計者の期待に反して、住人たちが中庭へ出てくることはなかった。社員寮として使われていたが、やがてその契約が切れ、誰も住まなくなってしまった「コルテ」。これは、その再生の物語である。

 20㎡もないスペースに、生活のすべてを組み込んだワンルームマンションは、かつての下宿のような煩わしさのない快適な住まい。しかし、「煩わしくない家は寂しい家」だと著者は言う。住人のいなくなった「コルテ」を改修して作るのは、寂しくない「ひとりのイエ」の集合体である。
 まずは、かつての長屋の井戸端のように、一階の三戸ぶんをコモン・スペースとした。「ポストルーム」にはその名のとおりポストと、住人たちが読み終えた雑誌や本を置いておける本棚と、ベニヤで作ったピンポン台。「なべルーム」には、流しとテーブルとソファ。各住戸のキッチンは狭いので、友人を呼んで鍋、というときには、ここを使って食事ができる。もともと洗濯機置き場のなかったコルテ。三つ目の部屋には洗濯機と乾燥機を二台備え付け、「ランドリー・コモン」とした。どの部屋も、最低限の設え。至れり尽くせりではない、その緩さがかえって、この共有空間を開放的なものにしているようだ。

 ふたつの棟を繋ぐ廊下の手すりと向かい合った窓辺には、「棚ガーデン」なる鉢植えのおける穴のついた棚を取りつけた。これは、著者が調査してまわったアジアの集合住宅からヒントを得ている。住人達のそれぞれの生活の様子をその外部に漂わせ、しかし雑然とはならず、建物全体がひとつの景色としてあらわれる――著者が「集まる景色」と呼ぶ町や路地のありよう。そんなふうに、住人それぞれ個人で育てた植物の集合が、中庭の景色を彩ってくれるようにとの仕掛けである。そうしてあらわれた「集まる景色」は、住人達に自分たちの共有空間を意識させ、やがて中庭はみんなのリビングのようになる。天井のない「青空リビング」である。
 住人同士がそれぞれの住居で生活のすべてを完結させるのではなく、「ひとり」の集まりが何かを生み出す。著者の「コルテ」再生とはつまり、その〝きっかけ〟を作るための工夫であった。

 それとはべつに、「コルテ」の「番人」である「ハタヤマさん」の存在も見のがせない。「コルテ」が社員寮だった頃から、ここの掃除を担当していたという「ハタヤマさん」のすすめによって、「ユーコさん」という住人が「なべルーム」が個展を開くことになるのだ。それは、「コルテ」の住人たちと、マンションの外の人たちとの出会いのきっかけにもなったことだろう。「ハタヤマさん」は、「コルテ」の住人たちよりもうんと上の世代の人のようである。同じ条件の下にいる「コルテ」の住人達とは異質の、しかも世代のちがう「ハタヤマさん」がいることによって、住人達の関係性も変わるだろう。同じ世代、均一な空間、そういうものをばらけさせる存在や仕組みは大切だ。

 近年注目されているシェア物件。ワンルームやアパートが圧倒的に多いひとり住まいの選択肢のなかでは、例外的な存在だが、住み手のなくなった一軒家を、ルームシェア向けに改修して貸し出すという業者もでてきた。リビングと台所・トイレ・お風呂が共有となるから、住人同士の関わりは、「おひとりハウス」よりいっそう密になる。
 ひとりの空間はきっちりと確保しつつ、共有スペースもあるという「コルテ」は、シェアハウスとワンルームの中間的な存在。そこでは、ワンルームという完結した個人の空間ではない住まいをもとめた人たちの集まるシェア物件に住むよりいっそう、コミュニケーション能力が問われるかもしれない。

 家族のための住まいであっても、戸建ての家であっても、家族だけで閉じられることのない共用のスペースや、私と公の空間を繋ぐスペースがあったら素敵だ。そうすれば、家族という枠から逃れてひとりになるための「ヘヤ」とは別の「個人」の空間が立ちあらわれてくるのではないか。オフィスビルに囲まれた都心のマンションにこもりがちの私にとっては夢のような話だが、「コルテ」のような「おひとりハウス」の提案にてらし、たとえば公共施設や地元の商店など、住まいに付随していなくても、「ひとり」の空間をより充実させてくれるようなコモン・スペースを探しに行かなくてはと思う。
 


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2011年09月24日

『つぶれた帽子―佐藤忠良自伝』佐藤忠良(中公文庫)

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 北海道での幼年期、画学生時代、新制作協会の設立、シベリアでの抑留生活、戦後の再出発。粘土と静かに格闘し、理屈でなく体で表現し続けた彫刻家の自伝の文庫化である。一九一二年(明治四五)の生まれ、今年の春、九十八歳で亡くなった。

 西洋の影響を受けた日本の近代彫刻が、どうしても西洋風に整った姿を写しがちであったところに、扁平で無骨なありのままの日本人のかたちをとらえた彼の彫刻は、「佐藤のきたな作り好み」などと言われたのだったが、それをことさら狙いましたという風な作為が彼の彫刻にはない。文章もそうで、抽象的なところがなく、感傷にも陥らず、淡々として平明、しかも人柄がにじみ出ている。

 この本のなかで私が何度でも読みかえしたくなるのが、中学生時代の岩瀬さんという人との共同生活の話だ。佐藤忠良は宮城県に生まれたが、はやくに父を亡くし、その後母の郷里である北海道夕張町に移る。そこで小学校を卒業し、中学校進学のため、一人札幌へでて下宿生活をはじめる。

 札幌へ出て間もなく、植物園に遊びに行っていたとき、偶然に群馬の農家出の岩瀬久雄さんという二十三歳の人と出会った。岩瀬さんは北大の畜産科に勤務しており、話をしているうちに、どうだ、下宿をやめて一緒にやってみないかということになり、夕張の母に手紙を書いてくれた。まもなく母が札幌へ出てきて岩瀬さんにお願いし、岩瀬さんと私は、市内に家を一軒借りて自炊生活を始めたのである。いま考えてみても、一人の青年が十三歳の少年を相手に、どうしてそういう気になれたのか、私には不思議な気さえする。クリスチャンだったせいかもしれないが、それにしても大変な勇気だったはずである。

 巻末にある年譜でたしかめると、それは大正末から昭和のはじめにかけてのことである。
 二人住まいには広すぎる一軒家で、掃除・洗濯・炊事は完全分担制、少年にとってはすべてが初めてのことで、失敗もしたが、毎日のことで次第に慣れた。岩瀬さんは引っ越し好きで、一緒に暮らす間に何度も住処を移った。夕食のときは賛美歌とお祈りがあった。アヒルやウサギを飼ったり、パンを作ったり、冬山にスキーへ行ったりもした。岩瀬さんの出張のときは少年もたびたび同行、行き先はたいてい田舎の農場だったので、二十キロも歩くことがあったが、そういうとき、岩瀬さんは出張費の半分を少年にくれたのだそうだ。夜はテントをはってふたりで野宿をした。
 岩瀬さんが結婚をしても、共同生活はしばらく続いた。岩瀬さんの妻を少年は「姉さん」と呼び、赤ちゃんが生まれると、銭湯へ連れてゆくのは少年の役目になった。岩瀬さんも一緒だが、彼は恥ずかしがっているのか、赤ちゃんを抱かないので、番台のおばさんから、少年が赤ん坊の父親と思われた。
 忠良少年は岩瀬家の書生ではない。この十三歳と二十三歳の立場は対等なものだ。今なら、十三歳の息子が縁もゆかりもない他人と一緒に住むことを許す母親はいないだろう。個人と個人の出会いからはじまった共同生活。

 ……それが私の人生にどのような重みを持つものであったのか、その頃の私にはまだ解っていなかったはずである。
 昭和二十七年に制作した「群馬の人」という小さな頭像は、直接のモデルは別の人だが、岩瀬さんとの生活の中で培われたものをはっきりと形にした、私の心の記念塔である。

 この「群馬の人」をはじめとする、日本人の顔を題材とした彫刻こそ、「きたな作り好み」と批評をされた最初の作品だった。
 地位や肩書きが削ぎ落とされ、「シベリアという大地に投げ出された一人の人間」である男たちと共に生きた三年間の抑留生活が、こうした作品づくりのきっかけだったという。「群馬の人」のモデルは『歴程』の詩人で、群馬出身の岡本喬、彼は岩瀬さんと感じがよく似ていた。また、軍隊にも群馬の人が多くいた。

 群馬とは何となく縁があり、私の中でずーっとこだわりになっていたのである。作家が長い間、題材をあたためていたというが、私の場合はあたたまっていたと言う方が実感に近い。

 シベリアでの生活は彼の作品づくりに大きな影響を与えたが、岩瀬さんとの共同生活は、彼が彫刻家になったとことそのものにかかわる経験だったかもしれない。「家事仕事とスポーツばかりしていたことだけが妙に印象に残っている」という中学時代、失敗を繰り返して料理をおぼえたり、スキーを背負って雪山をのぼったり、赤ん坊を風呂へ入れたりと、彼の生活は手とからだを使う具体的なことで占められていた。最初は画家を目指していた彼が彫刻をはじめたのは、「絵から逃げた」からだと書いているが、少年時代の暮らしによって培われたものが、キャンバスという平面の上でなく、立体という三次元でのものづくりに彼を向かわせたのではないかと思う。


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