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2011年08月29日

『Made by Hand ポンコツDIYで自分を取り戻す』マーク・フラウエンフェルダー 金井哲夫・訳(オライリー・ジャパン)

Made by Hand ポンコツDIYで自分を取り戻す →bookwebで購入

 これは、庭で野菜を育て、愛用のエスプレッソ・マシンを改造し、ニワトリを飼い、シガーケースでギターを作り、木でスプーンを掘り、紅茶キノコを仕込み、養蜂に挑戦する男の勇猛果敢かつユーモアにあふれた活動の記録である。
 著者は、雑誌『Make』(日本版もあり)の編集長。『Make』は、「テクノロジーを自由な発想で使いこなす」ユニークな物作りや、DIY愛好家たちに役立つ記事を集めた情報誌である。
 雑誌作りを通じて、彼は多くのDIY愛好家、特に「アルファ・メイカー」(Alpha Maker')と呼ばれる「クールな物を設計して作る研究と実践を重ねている物作りの第一人者たち」と出会う。それをきっかけに彼は、過去にした失敗ゆえに敬遠し、苦手意識すら感じていた物作りの世界に足を踏み入れることになるのだ。
 彼らの生き方は、新鮮であり刺激的だ。DIY愛好家たちは、自分自身や家族が使ったり、食べたり、着たり、遊んだりする品々を、堂々とした自己責任において、作り、管理している。彼らはむしろ、自分たちを取り巻く物理環境を、創造し、維持し、改良するという困難を楽しんでいるのだ。  そんなDIYの世界を出会うことで、DIY活動が、より豊かで意味深い人生、周囲の世界と深く関わり合える人生にとって、中心的とは言わないまでも、とても重要な役割を果たすことに、私はようやく気がついた。この雑誌を通して知り合ったアルファ・メイカーたちから、できるだけ多くの事を学びたいと私は思った。彼らの教えを自分の人生に役立てたいと思った。

 彼がこうした境地に辿り着くまでには、あるひとつの経緯があった。ITバブルのあおりで、フリーライターの仕事が激減してしまった彼は、生活環境を変えようと、妻とふたりの子どもと共に、二〇〇三年、南大西洋のラロトンガ島に移住する。収入が減ったことによって考えなくてはならないのは、お金の使い方ではなく、時間の使い方についての問題ではないかと彼は考えたのだ。

 既製品の娯楽や、遊園地の乗り物や、ショッピングモールでの買い物や、高速道路の渋滞や、絶え間なく届く電子メールといった環境で、本当に子どもを育てたいのか。どこかもっとましな生き方が、私たちのことを待っているのではないだろうか。

 こうして、家や車を売り払い、家族四人で島暮らしをはじめるのだが、四か月半で挫折。ふたたびロサンゼルスへ舞い戻る。

 私たちの問題は、ロサンゼルスでの生活に起因しており、それが飛行機に乗って一緒に来てしまったことだと考えた。つまるところ、私たち自身が問題だったのだ。いわゆる楽園に移り住んだところで、何も変えられない。

 この苦い経験と、雑誌の仕事のなかで出会うDIY愛好家たちの生き方を通じ、彼は発見する、DIYこそが「 私がスローダウンでき、自分の手を使い、周囲の世界と意義深い形で深く関われるようになる」人生を創り出すのだと。
 
 家庭菜園を作るため、庭の芝生を根絶すべく四苦八苦したり、ニワトリをコヨーテから守るために苦労したり、ミツバチを飼うのに妻の反対にあったり、彼のDIY生活には何かと困難がおおい。特に器用でも、創意工夫のアイデアに満ちてもいない人間が、たどたどしい手つきで奮闘する姿にはほほえみを誘われる。ただし、彼が敬愛し、各章で紹介される、それぞれの道に精通した物作りの達人たちも、最初からすべてに精通していた人ばかりではないらしい。

 彼らの秘密は、彼らが何か特別なものを持っているというよりは、むしろ何かを持っていないことにある。それは、失敗する恐怖感だ。ほとんどの人間は失敗を恐れる。そのため、自分の力量を超える技術を要することには手を出そうとしない。

 彼の出会ったDIY愛好家には、高等教育を受けていない人の割合が多いという。彼曰く「彼らは教育システムから脱出できたラッキーな人たち」であり、数値化された成績で評価されることがなかったからこそ、失敗を恐れず、むしろ失敗を糧にして、物を作りだしてゆけるのだと。
 なるほど。それだけで説明はできない気もするが、たしかに教育システムにどっぷりはまって、なるべく無駄のないルートで人生を歩んできた人よりは、そうでない人のほうが自らの頭と手を使う術には長けているかもしれない。スピードや効率が尊ばれる社会では、失敗をくり返してまで自分の手を煩わせるのは無駄なこと。専門家にまかせたり、必要なものは買ってすませればいい。

 過去にした失敗に懲りて、DIYすることを放棄してきたこれまでの生活から脱却し、果てしのない消費とスケジュールに追い立てられる生活をダウンシフトすべく、著者はDIY生活にとり組むわけだが、彼の動機には、ごくシンプルなチャレンジ精神や、達成感や充実感、DIYする自分への他者からの尊敬、その成果を共有することで得られる人とのつながりや癒し、などへの欲求ももちろんある。消費の否定や環境への配慮といった大儀にかたよらず、それを隠していないところがいい。

 DIYは、日本では日曜大工的なものを指すことが多いが、その守備範囲は生活のあらゆる場面におよぶ。ガーデニングや家庭菜園、養鶏、養蜂、保存食作り、家電や生活用品の修理・修繕、編物や木工といったクラフトなど、その内容は幅広い。
 ただし、先にあげたアルファ・メイカーと呼ばれる人たちは、工学技術を駆使して、機械いじったり、何ものかを発明・製作する人のことを指している。米語の「ティンカー」(tinker)とは、アメリカのメイカーたちがよく使う言葉で、機械をいじくりまわしたり、何かの仕掛けを発明するという意味だというが、それに相当する日本語がみつからない、と訳者のあとがきにはあった。
 日本にも、機械いじりが好きだったり、「町の発明家」といわれるような人はいるけれど、アメリカほど一般的ではないのだろう。このDIY文化は、その愛好家の大多数を占める中間層の人たちが、さまざまな電動工具を所有したり、作業をするためのガレージや地下室というスペースをあたりまえに持てるアメリカならではのものだろう。

 『Make』は、一九四〇年代から六〇年代の、アメリカのDIY黎明期のDIY雑誌をモデルとしているという。だから、「ティンカー」することによろこびを感じるアルファ・メイカーは、アメリカの郊外化が進んだ時代に出現した人たちだ。そしてその担い手のほとんどは男性だろう。
 本書の帯に、「「Makerムーブメント」を主導する雑誌『Make』編集長」とあるように、DIY文化は、かつての隆盛ののち、消費することにのみ忙しい人々によって忘れられ、いったんは低迷し、近年ふたたび注目されるようになったのだ。
 『Make』には一時期、『Craft』という姉妹誌があった(現在はウェブマガジンになっている)。おなじDIYでも、こちらは裁縫や編物などの技術を使った物作り、手芸や工芸といった分野を扱う雑誌だ。編集長は著者の妻。本書のなかで、この妻はつねに夫のいちばんの批評者としての存在感を放っていたが、夫の作る『Make』誌がリードするムーブメントに対し、妻の『Craft』から発する、女によるDIYの現状も気になるところである。

 




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2011年08月19日

『もしもノンフィクション作家がお化けに出会ったら』工藤美代子(メディアファクトリー)

もしもノンフィクション作家がお化けに出会ったら →bookwebで購入

 お盆の時期になるとよくTVで、怪談や心霊話を扱った番組が放送される。そういうものが苦手で、子どものころは、その手の話で盛り上がりそうになると、嫌がって耳をふさいだり歌をうたったりといった幼稚な行為にでてその場をしらけさせる、いわゆる「空気の読めない」タイプの私だったが、そういう場面に出くわすこと自体もうなくなった。

 この本は「幽ブックス」というシリーズの一冊で、「日本唯一の怪談専門誌」である『幽』という雑誌に掲載された、著者の不思議な体験が集められたものだ。そういう雑誌があるということは、その手の話が好きな人は、いるところにはいるのである。

 怪談嫌いの私がなぜこの本を手にとったのか。本全体にそれっぽいたたずまいがなかったから、というのもあるかもしれないし、まえがきを読んでみて、その先のページを繰る気になったというのもあるが、どちらも後付けの理由という気がしないでもない。

 まえがきには、著者がノンフィクションライターとして仕事をはじめようというとき、友人からされた助言についてが記されてある。「嘘を書かないこと」と「盗作はしないこと」。友人に言われたこのふたつを守ることが、ノンフィクションの作家としての基本と信じ、著者は仕事をしてきたのだという。

 エンターテインメントとしての怪談話が脚色されるのは当然のことだ。聞き手がそれに何を求めるかにもよるけれど、怖い話から得られる恐怖心という刺激が私は苦手なので、著者が、作家としての基本を守り、自らの奇妙な体験を書いているというこの本なら、徒らに恐怖心を煽られる心配はない。けれど、怖いのは嫌だが、理屈では説明のつかない不思議な話に惹かれたのもたしかなのだ。このあたりの心理を掘り下げて、人の説明するのはむずかしい。

 ところで、不思議な話というものを信じるか否かといえば、「霊は存在するか」と聞かれると答えに窮するが、怖い話は嫌いでも、世の中にはそういう出来事もあるだろうとは思っている。
 それとは別に、不思議だなあと思うのは、著者の、いわゆる心霊現象とか、幽霊とかいうものに対するスタンスである。自分には霊感はない、むしろ鈍感だと書く著者だが、死期の近い人がわかったり、他の人には見えていない人が見えるのである。それが世に言う「霊感がある」ということだろうに、著者はかたくななまでに自分は鈍感、と言いはる。

 ノンフィクションの作家としての矜持からくる、「霊感がある」という表現への違和感もあるのかもしれない。しかし、彼女はどうやら、子どもの頃から、身辺でおこる不思議な出来事に対して、さしたる注意を払ってもいないし、怖いとも感じてはいないのだ。ここに集められたエピソードの不思議さよりも、著者のその感覚の不思議さのほうが際だっていると思う。
 それぞれの話について説明する必要はないと思うのでしないが、よくよく考えると、怖いなあ、と感じたところがひとつあった。著者はまえがきでこんなことを言っている。

 私の勝手な想像では、忙しい現代社会に生きている人の八割以上が、なんらかの形で彼らと出逢った経験があるのではないだろうか。

 彼ら、というのはつまりもうこの世のものではない人たちのことである。どういう根拠から知らぬが、「八割以上」という具体的な数字が書かれてあるのも怖い。私ももしかすると、彼らとどこかであったことがあるのに、気づいていないだけなのだろうか。けれどもそれでは「経験がある」とはいえないだろうし……。
 そのように書いてしまうくらい、著者にとっては、彼らはごくあたりまえに、いろいろなところに存在しているものだということなのだろう。読み終わって、思わず仏壇に手を合わせた。


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2011年08月06日

『正しいパンツのたたみ方 新しい家庭科勉強法』南野忠晴(岩波ジュニア新書)

正しいパンツのたたみ方 新しい家庭科勉強法 →bookwebで購入

 妻のパンツを上手くたためない夫・Aさんの話から本書ははじまる。「たてに三つ折り→さらに三つ折り→先を穿き口にはさむ」という妻のたたみ方ができずに悩むAさん。妻からダメだしを食らうことしばしばなので、洗濯物の山をみると気持ちが沈んでしまう。
 Aさんについて、せっかくたたんだのに小言をいわれて気の毒、とも、そのくらいのこともできないの?、とも、だったら妻のパンツをたたむのはやめたらいいのに、とも思う。外側からだと、夫のいいぶん、妻のいいぶん、どちらも客観的に眺められるが、我がこととなるとそういかない、というのが世の常というもの。

 ひとたび家庭の外にでれば、「できない」ではすまされないこと、「できない」のであれば、それ相応の評価なり待遇なりを受けなくてはならないことばかり。その縛りがもうすこし緩くなれば、こういう家庭内での悩みはむしろ改善されるようになるのでは、と思わなくもないが、ともかくは家庭内での歩み寄りが大切、とするのが大人の対応というものなのだろう。

 これは、家庭科の教員が十代の若い人に向けた、「自分の暮らしを自分で整える力」=「生活力」を身につけてもらうための家庭科教本である。
 朝食やお弁当から食生活を、そこから発展し、高校生なりの自立とは何かを考える。あるいは、さまざまな家族のありかたから、人間関係についてを考える。そのほか、働くことの意味、お金の使い方、DVについて等、いずれ社会の一員として、他者と共に生きてゆくために必要な基本的な知識が説かれる。

 著者は、はじめは高校で英語を教えていたが、思うところあって家庭科の教職免許を取り直し、家庭科の教員となった。
 家庭科が男女共修となったのは九〇年代に入ってからのことである。それまでながらく、男性には家庭科の授業を受ける機会がなかった。著者は、学生時代のひとり暮らし、あるいは、結婚をして子育てをするなかで、家庭科で教わるような基礎的な知識を身につけていたら、と思うことがしばしばあったという。

 著者が、家庭科の教師に、との思いをさらに強くしたのは、学校での生徒たちの様子が気にかかったためだった。朝から居眠りする、いつもだるそう、無気力、不機嫌、保健室通いが常習。そんな生徒たちの生活面に寄り添い、共に考えるには、家庭科という授業を通じて生徒たちに接するのがよいのではないかと。

 本書を読んでいて、よく親から、「そんなだらしのないことで、世の中にでてどうする!」と叱られていたのを思い出してしまった。本書が説教臭いといっているのではない。著者は学校の先生であるから、親の説教のようなそんな言い方は決してせず、生徒たちが自ら考えることができるよう、授業のしかたも工夫する。

 もうひとつ思い出したのは、高校生の頃の家庭科の授業である。そこでは、調理や裁縫の実習と、学期末のテストのための知識を教わるだけで、結局は、できる人とできない人の序列をあきらかにしていくばかりだったような気がする。こんにちの自分の家事労働に役に立っているようなことを教わったおぼえもない。

 自分の家事能力が何によって培われたかといえば、それは、自分以外の人間を思う気持ちにほかならない。自らを律するのが苦手で、ひとりでいれば果てしなくだらしなくなれるという私のような人間はことにそうだ。もっといえば、家事は、自分のため、誰かのためというより、自分と誰かのあいだにあるもののためにある。関係や時間や空間といった、放っておいたらどうにでもなってしまい、それでいて私たちの生活を大きく左右するものに、自分なりに秩序を与える作業である。
 という、日常はつい忘れてしまいがちなことが、本書にあたって思い出されたので、冒頭のAさんのエピソードのような、人ごとではすまされぬ家事の問題もつつがなく乗り越え、忙しさにかまけてたるみがちだった生活力も取り戻せそうな気がしている。

 ところで先ほど、本書には説教臭いところがない、と書いたが、それがむしろ、この本の対象読者である高校生の親世代に対する無言の説教になっているような気がしないでもない。


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