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2011年07月26日

『英国メイドの日常』村上リコ(河出書房新社)

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 小学校中・高学年のとき、「演劇」と称するごっこ遊びが流行っていて、それはたいてい、シンデレラをはじめとするお姫様もののおとぎ話や、『小公女』や『嵐が丘』や、それを下敷きにしたような少女マンガや昼メロドラマがまぜこぜになったお話なのだった。

 舞台は西洋風のお屋敷。奥様、お嬢様(やさしいお嬢様と意地悪なお嬢様がいる)、そして召使いがおきまりのキャスト。脚本があるわけではなく、やっているうちに何となく話が進んでいくもので、たいていはなんの創造性もないベタな筋書きだが、たまに、誰かの不意の台詞やアクションが思いもよらない展開を呼んだりもする。しかし、あそこで皆がしたかったのは、「意地悪な金持ち奥様・お嬢様VS貧しいメイド」の図そのもの、俗に言う「プレイ」みたいなものだったのだと思う。

 そしてみな、いじめられる側のメイド役をやりたがるのだった。これに抜擢された子は、黒いワンピースを着て、胸当てのあるエプロンをし、頭にはあの、フリルの飾りをつけた「つもり」になって、奥様やお嬢様にこき使われ、いじめられるのである。かねてから、あの頭の飾りは何というものなのだろうと思っていたが、装飾機能だけを残して小さくなった、もとはといえば帽子なのだと本書によって知った。

 本場英国のメイド達にとって、メイドキャップはいやがおうにも自らの階級を思い知らされる「隷属の証」として忌むべきものだったと本書にはある。

 「ひとたびメイドのキャップとエプロンをつけたら、自分は卑しい召し使いになるのだということはわかっていた。誰でもない人間、立場をよくわきまえた。一番下の棚の売れ残りみたいな存在だ」

 これは、「一九一四年に生まれ、コッツウォルズのコテージでジェネラルメイドとして働いたウィニフレッド・フォリー」の手記である。

 十九世紀から二十世紀にかけてのイングランドとウェールズでは、職業を持つ女性の最多数がメイドだったという。彼女たちは、どのようにして仕事に就き、どんなところで寝起きし、どんなものを食べていたのか、どんな買い物をし、どんな休日を過ごし、どんな恋愛をしたのか、そしてその未来は? 本書は、歴史の表舞台にあらわれることもなく、文学のなかでは脇役に過ぎない「いちばんふつうの女の子たち」に光をあて、その仕事と生活を紹介する。

 メイドが描かれた風俗画やポストカード、雑誌の図版や広告、主人によって撮られた集合写真やチープや名詞写真など、さまざまな図像が豊富におさめられていて見飽きることがないが、文中のそこかしこに引用される、メイド経験者たちの自伝や回想録での、「証言」も興味深い。

 自伝だけでなく、料理書や小説もものして人気作家となったマーガレット・パウエルの『階段の下(Bellow Stairs)』(1968)。各地の大邸宅に勤めたアイリーン・ボルターソンの『カントリーハウスの裏階段の生活(Backstairs Life in a Country House)』(1982)。ロジーナ・ハリソンの『ローズ:使用人としての私の人生(Rose:My LIfe in Service)』(1975)。ジーン・レニーの『1週おきの日曜日(Every Other Sunday)』(1955)。バーナード・ショウやチャーチルにも仕え、ロバート・アルトマン監督のカントリーハウスが舞台の映画『ゴスフォード・パーク』では使用人生活のアドバイザーを勤めたというヴァイオレット・リドルの『善き方、偉大な方に使えて(Serving the Good and Great)』(2004)等々。

 英国では元メイドが綴った当時の話がこうして出版されているらしい。本書にとりあげたものの中では、ウィニフレッド・グレースという元メイドが語った当時の生活をまとめた『イギリスのある女中の生涯』(シルヴィア・マーロウ編、徳岡孝夫訳、草思社、1994)が邦訳されているくらいで、どれも日本語で読めないのが残念だ。

 それはともかく、名ばかりでその実体を知ることのなかったメイドの事細かな日常を詰め込んだ本書の〝盛りのよさ〟はすばらしい。当時の文学を読むときの一助にもなるだろう。時代背景や階級制度、女子教育についてなどのコラムも充実している。私がうれしく読んだのは第6章「メイドの制服」のなかにあった「モスリンってどんな布?」というコラム。ここには、モスリンをはじめサージ、サテン、タフタといった、かつてどこかで読んだり聞いたりしたことはあるが、正確には知ることのなかった生地の素材や織り方や用途が記されていて、長年の胸のつかえがとれた。「タフタのドレス」なんて、その西洋的な語感を感じるだけで、素通りしていたのだ。

 思えば、子どもの頃のごっこ遊びの、「つもり」のメイドスタイルは、西洋へのあこがれのなせる業だった。現実には、メイドは最下層の労働者で、現在の常識からすれば不当ともいえる低い賃金で過酷な労働を強いられていた歴史があったとしても、戦後昭和の日本の女の子たちの目には、それは西洋風のすてきな衣装に映っていた。
 著者は、ヴィクトリアン時代を舞台にしたアニメーションの時代考証の仕事もしているという。本書もまた、昨今おなじみとなった、「つもり」ではない実際のメイドスタイルに影響を及ぼすのかもしれない。


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2011年07月17日

『ミドリさんとカラクリ屋敷』鈴木遥(集英社)

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 食道楽、あるいは着道楽と呼べる人になら、いまもお目にかかることはあるだろうが、普請道楽といったらどうか。家を建てたい人のための本は書店にたくさん並んでいるし、自慢のお宅拝見、といったテレビ番組もよくあるけれど、そうしたメディアで謳われる「よい家」や「快適な住まい」を建てることを、誰も道楽とは言わないだろう。道楽とは、それで身を持ち崩しても構わぬくらいにのめり込める趣味なり遊びなのだから。
 この本のヒロイン、屋根の真ん中からにょっきりと電信柱がそそり立つ不思議な家、「カラクリ屋敷」の主、大正生まれの木村ミドリさんは、それで身代をつぶしているわけではないにしても、いまの世にはめずらしい、立派な普請道楽といえそうだ。

 良い家に住みたいとは誰しもが思うことだが、ミドリさんの家と、それを建てることへの思い入れは、常人の域を超えている。独自の住居哲学によって、自ら設計をし、よい材料を買いそろえることに何年もの歳月を費やす。その仕事ぶりを確かめ、お眼鏡にかなった腕利きの大工をスカウトする。ミドリさんは、しかるべき建築家に設計をお願いして理想の住まいを実現させたいというこだわり派とも、自らの創意工夫によって一から家をつくり上げたいというセルフビルド派ともちがう。

 カラクリ屋敷は、ミドリさんの住居スペースと三世帯ぶんのアパートのある棟と、一階と二階とで一世帯ずつが住める棟とによってなる集合住宅である。そんなユニークな構造にもかかわらず、全体としてはひとつの家としての統一感があって、独特の風格を醸し出しているという。その構造、間取り、内部の装飾、建具ひとつひとつの意匠にいたるまで、すべてがオリジナルなミドリさんの屋敷は、ほかのどんな家にも似ていない。さらに、この家には特別な仕掛け、一見しただけではわからないドアや、ミドリさんだけにしか入ることのできない部屋や、ひみつの通路があるという。著者がこの家を「カラクリ屋敷」と呼ぶ所以である。
 著者は高校生のとき、地元の平塚市で偶然この家を〝発見〟した。

 青い瓦屋根に黄色い扇模様の棟飾り、クリーム色とこげ茶色を基調とした二階に連なる大胆でシンプルな木の欄干、すべて模様の違う木製の戸袋や松竹梅の装飾を施した窓の鉄柵……。大きな日本家屋であることといい、洗練された美しい外観といい、どこに目をやっても見る者をあっといわせる独特の存在感が漂っていた。
 しかし、このときの衝撃は、屋根のど真ん中からコンクリートの電信柱が天に向かって突き出ていることを抜きには語れない。
 ――どうして、屋根から電信柱が突き出ているのだろう。
 この家は、私の考える常識からあまりにも逸脱していた。伝統を重んじているように見えるのに、どこか自由気ままでとてつもなく斬新なことをさらりとやってのけているような独特のセンス。それでいて全体を見渡すと、日本庭園のような庭とその背後の建物が見事なまでに溶け込み、一つの世として絶妙に成り立っている。

 その魅力に取り憑かれ、くり返しカラクリ屋敷を観に通っていた著者は、街並みの研究をするべく京都の大学に進むことになった。そして、地元を離れるのを機に、ついに屋敷の門を叩く。以来十年にわたって、ミドリさんのもとに通い詰め、その家の〝ひみつ〟を探るべく、ミドリさんに聞き取りをつづけた。それだけにとどまらず、「家を建てることが好き」なDNAのルーツを求めて、ミドリさんが生まれ育った北海道・新潟村(現・江別市)にまで足をのばす。

 屋敷も個性的なら、それを建てたミドリさんも、負けず劣らぬキャラクターの持ち主である。著者が出会ったとき、すでに八十を超していたミドリさんだが、そうとは見えぬキビキビとした動き、手作りの個性的な服に身を包み、頭の回転が速く、明るくて、楽天的、もちろんよくしゃべり、よく笑う。このミドリさんと、不思議な家と、その両方ともがこの本の主人公である。

 ミドリさんは、明治時代に新潟から北海道へ入植した開拓移民の二世として、現在の北海道江別市で生まれ育った。木村家と、母方の実家である武田家とは、新潟からこの地へわたった人々のなかでもとりわけ実力者で、村では一目置かれる存在だったという。そして、その両家ともが、村の中でもとりわけ大きく、また個性的な家を建てて住み、また一族の誰かが結婚をするたびに新しく家を建てるという、普請好きの一族だったのだ。
 両家は農業にとどまらず、近くの国有林である野幌原生林と、そこに設置された、北海道を代表する林業試験場に関わり、林業に携わった。ミドリさん曰く、官林の仕事をしていた木村家と武田家は「原生林の木を自由に伐ることができた」らしく、豊富な木材に恵まれていたことも、建築に熱心な家風、「家を建てることが好き」なDNAの源となっているのではないかと著者はいう。

 ミドリさんの育った木村家にもまた、カラクリが存在した。それだけではない、本州のせせこましい住宅街しかしらない者にとっては、とてつもなくスケールの大きな家なのだ。ミドリさんの父親は、家の敷地内に、一家の暮らす大きな家のほか、唐紙屋、漆喰屋、大工などの職人を住まわせ、さらには木工所や精米所なども建てた。一軒の家の敷地がまるでひとつの小さな集落のようだったというのだ。ミドリさんは子どもの頃から、その「職人テーマパーク」のような敷地で、木村家の従業員である職人たちの仕事ぶりを熱心に観察していた。建築の才能があったという父の血と、子ども時代の環境が、ミドリさんにカラクリ屋敷を建てさせたのだ。
 その上、ミドリさんが結婚した人もまた建築好きだったので、カラクリ屋敷建設にあたっては、夫婦共に情熱を注ぎ込んで挑んだ。夫は近くの村に住む、同じ新潟の佐渡出身だが、一族とは関係のない人である。類は友を呼ぶというべきか、ミドリさんがカラクリ屋敷を建てることは、もはや宿命だったとしかいいようがない気がしてくる。

 木村家や武田家がなぜかくも建築にこだわったのか。北海道という新天地で、過酷な自然と闘いながら土地を切り拓いてきた者にとって、暮らしを守る器である家は、堅牢であるほどよいだろうし、それを建てることに特別の思い入れを持つであろうとは想像がつく。しかし、そうした理由では説明しきれないものが、木村家の屋敷にも、ミドリさんのカラクリ屋敷にもある。
 「逃げ道はたくさんつくっておくに越したことはない」というのが、ミドリさん特有の建築哲学である。というか、これはもう彼女の人生哲学といってもよいのかもしれない。それってどういうこと? と、カラクリ屋敷のカラクリの、その秘密の秘密といういうべき究極の謎に迫る著者だが、ミドリさんにいつもあっけらかんとはぐらかされてばかり。著者の熱意が通じて、屋敷そのもののカラクリの秘密は明かされるけれど、しかし、「逃げ道」って、いったい何から逃げるというのだろうか。いぜんとして謎は残るのだが、その腑に落ちないかんじが、ミドリさんという人の最大の魅力だし、そのミドリさんの持つムードが家という実体となってあらわれているのがカラクリ屋敷なのである。


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