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2011年06月29日

『ザ・ママの研究』信田さよ子(理論社)

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 先日観た映画〈ブラック・スワン〉は、「白鳥の湖」の主役に抜擢されたバレリーナが、そのプレッシャーに絶えかねて破滅してゆくさまを描いたスリラー。世代交代の波に押しやられた前・プリマの絶望、配役をめぐってのバレエ団員同士の争いなど、女たちの嫉妬が渦巻くなか、ヒロインはしだいに追い詰められ自分を見失ってゆくが、彼女がなにより怖れ苦しんでいるのは、母親の猛烈な干渉だ。
 自身もかつては踊り子で、妊娠を機にそのキャリアから降りた母。女ひとりで娘をバレリーナに育て上げ、レッスンを全面的にサポートし、うるさいくらいに世話をやき、その実、娘が一人前になって成功することに我慢がならない。

 真面目で練習熱心な娘は、踊りのテクニックは正確そのものだが、純粋可憐なホワイト・スワンはともかく、悪の化身である妖艶なブラック・スワンを演じるには表現力が追いつかない。仕方あるまい、彼女は母親の言うなりのよい子で、その上、成熟した女になることを母に阻まれているのだもの。

 だから、母親のチョイスでしつらえられた娘の部屋は、少女時代から変わらず、ぬいぐるみや人形がひしめいているし、おそらくこれも母親にあてがわれたのであろう外出用のコートは、成人女性には不釣り合いな、ベビーピンクの子どもっぽいデザインなのだ。

 めでたく主役に選ばれた娘を母親が祝うシーン。母娘ふたりではとうてい食べきれないような大きなケーキ(それも、白とピンクのクリームに彩られた上でバレリーナ人形が踊っているという特注品)を買って帰ってきた母は、それをフォークにこんもりと乗せて娘の口元に差し出す、と、カロリーを気にした娘が一瞬、「少しだけね」とことわりを入れるや否や、それまで娘の幸運を喜んでいたはずの母親の満面の笑みは剥がれおち、鬼の形相でケーキをまるごとゴミ箱へ。あわてて詫びる娘……。

 本書は、〈ブラック・スワン〉のように、娘が究極の母離れという悲劇を演じないよう、なるべく早く母親というものを「対象化」せよと娘たちを導く。すべての娘にとって、「ママ」といったらほかでもない、「うちのママ」「私のママ」であるその女性に「ザ」をつけて、すこし距離をおいて眺めてみよう! というわけだ。

 ママを「対象化」するための手がかりして、まず、自分のママのタイプを割り出すチャートからこの本ははじまる。
 ママのタイプは七つに分類されていて、「プライドめちゃ高 超ウザママタイプ」(ブラック・スワン母はこのタイプ)、「明るさスゴ盛り スーパーポジティヴ・パーフェクトママタイプ」(あんまり元気すぎてこっちが疲れる、弱音を吐けない、甘えられない)、「一生「姫」のおしゃれセレブ 夢みるプチお嬢様タイプ」(近年とみに増加している模様、子どもはアクセサリーくらいにしか思ってない)、「意味不(明)でまじてホラーです 恐怖の謎ママタイプ」(ひらたく言うなら虐待する母、「ホラー」と言うが、映画にするのもキツイ)などなど。

 母親という立場にいない私は、娘の眼でそれらのママのタイプをつい眺めてしまう。これによると、「どちらかというと家にいるより外が好き」ではなく、「毎日ごはんを作ってくれ」て、「パパとはまあうまくやって」おり、「あなたの話やグチを聞いてくれる」我が母は、「ちょいダサ、退屈、ちょー平凡! フツ~すぎママ」となる。
 一昔前の母親というのは、たいていこのタイプだったのではと、自分の子ども時代を振り返り思ってしまう。当時の感覚をもってすると、「お母さん」というのは、専業主婦か共働きか、教育ママか放任主義か、肝っ玉おっかさん風かハイソなママ風か、くらいのちがいしか思い浮かばないのだ。
 しかし、この本にあるママたちのタイプを大人の眼で眺めてようやく気づくのだ。そうか、母親の、トータルな人としての個性ではない「母親としてのタイプ」を見極められるのは、当の子どもによってしかできないことなのだと。
 カウンセラーである著者は娘たちに語りかける。

 あなたよりずっと年上の女性たちが、大勢カウンセリングに訪れる。あなたのお姉さんやママほどの、ときにはおばあちゃんくらいの年齢の女性たちが、自分のママとの関係で困れ果てているからだ。ときには死にそうになってカウンセリングにやってくる女性もいるほどだ。

 そう、娘と母のやっかいな関係はいまにはじまったことではない。女友達の抱える困難のおおもとに、彼女の母親の存在が重苦しく影を落としているのを、これまでどれだけ見てきたことか。たとえ大人になって、母親を対象化できているように見えても、母との関係が長く尾をひきずって、彼女たちにつまらぬ思いをさせることはいくらでもある。だから、なるべく早い時期に対処することが大事なのだろう。私たちがまだ少女だったときに、こういう本があったらよかったのに。

 また、大人として読んでこその反省もあった。どんなに理不尽で不可解に思えることでも、いずれは納得し、謎が解けるときがくる(もちろん、いくつになってもわからないことも沢山ある)と、つい考えてしまうもの。けれども、その感覚を子どもに対して採用してはならないということだ。大人である他人に対しては当たり前ともいえることを、子どもに対しては忘れてしまう。そのことは、しかと心にとめておかなくては。これは、この本が子どもに向けて、なるべくかみ砕かれたことばで書かれてあるからこそ、気づけたことだろうと思う。


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2011年06月15日

『ふたすじ道・馬 他三編』長谷川如是閑(岩波文庫)

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 明治二九年、二十一歳の如是閑が初めて書いたという小説「ふたすじ道」をはじめ、「お猿の番人になるまで」「馬」「象やの粂さん」「叔母さん」の五編を収録。
 スリの少年、元軍人、露天商の男など、市井の人々を描いた四編とは異なり、最後の「叔母さん」だけが、自らの幼年時代を綴った自伝的な文章である。
 〈私〉と叔母さんはいつも一緒、離ればなれになるのは叔母さんが「便所へ行く時だけ」なので、母親は〈私〉を「叔母さん所の子」と呼ぶほどである。
 叔母さんは、結婚適齢期、とでもいった年頃だろうか、アンニュイで、どこか虚無的なところのある女性である。薄暗い廊下の先の離れにある叔母さんの部屋には、〈私〉には理解しがたい色々なものが並べてあって、それをあれこれといじくりまわしては、
 「Mちゃん、これ好いでしょう」  と、私に云いました。けれども、叔母さんは、そうして骨を折って排列した自分の座敷の光景【ありさま】を、その時だけでも眺めでもするかというと、そうでなく、そうした複雑な排列を済ますと、スグと私を、自分の膝の上に乗せて、接吻【キッス】をして、さも忌やな仕事に疲れたような嘆息をつきます。

 父は「自分勝手にことばかり云って、怒ったり笑ったりしている、ただの男の人」、母は「弱々しい、臆病な、親切な女の人」。両親に馴染むことのない〈私〉が、父や母と顔を合わせるのは食事のときくらいである。
 そんな幼い〈私〉にとって、叔母さんの部屋で過ごす時間が生活のすべてといってもいいほど、ふたりは密着している。この時の〈私〉はまだ少年と呼ぶにも早い歳だったろうが、叔母さんの溺愛を一身に浴びているときの以下のような表現はじつに生々しい。

 叔母さんは髪を結わなかったのか、或るいはそういう風の髪に結っていたのか、何時も、私に接吻【キッス】する時に、房々とした毛が、私の額にかぶさって、私の眼に入りそうなので、私は片手で、叔母さんの頸筋に抱きつきながら片手で叔母さんの額から下がる髪の毛を抑え抑えしました。真白な顔と、黒い眉毛と、笑っているようですが少し怖い大きい眼とは、私の顔に掩い被ぶさって、まるで何処からか、私の上に落ちかかって来て、私の小さい掌に抑えられた、不思議な宝のように、私に思われました。

 このふたりを結びつけているものは、叔母さんの「美しさ」であった。たとえば、叔母さんの所にたまに遊びに来る友人の「谷の姉さん」は、誰もが認める美女で、その人のことも〈私〉は「綺麗だ」と思うが、〈私〉の求める「美」とはほかでもない、叔母さんの「美」なのである。

 この「叔母さんの綺麗さ」は外の人の「綺麗さ」がこれを凌駕することは出来たかも知れませんが、これを代理することは出来ませんでした。
 が、それは「綺麗さ」ということを離れて成り立たない心情【こころもち】である点に於て、私の小さい美意識の要求でした。私の叔母さんに対する最初の知覚は、ただ彼女の美しさであったのです。叔母さんも、私に第一に知覚させたかったのは、自分の美しさであったのに相違ありません。

 〈私〉が生まれた時に、すでにこの叔母さんは〈私〉の目の前にいて、物心つくより前に、まず〈私〉はこの叔母さんの美しさを感知して、「美」というものを知ったのである。そして叔母さんも、「〈私〉の小さい意識」に、自分の美しさを映そうと意識していたというのである。

 この叔母さんはまもなく〈私〉の前から消えるのだが、その理由は、叔母さん自身が書いた手紙によって明かにされる。それは、先述の「谷の姉さん」に宛てたもので、この美貌の友人の、複数の男に求婚されて困っているという相談に答えるかたちで書かれたものだ。

 「私が貴女のことを、Mちゃんに「谷の姉さんは綺麗だこと」っていうと、Mちゃんはきっと「叔母さんのほうが綺麗だ」といいます。なぜMちゃんは、あべこべのことを主張しているのでしょう、誰れだって貴方より私の方が綺麗だというものはありませんのに。
 ……
 「ですけれど、これはMちゃんの見方が、お嫁を探している男の人たちの見方と違っているからです。そうした貴女の美しさは、お嫁を探している男の人達の条件を充たしているし、私の美しさはMちゃんの要求している条件を充たしているのです。
 ……
 「それで、貴方が、多くの男の方達から、結婚の申し込みを受けるのは、貴方が、女という種族の採点標準に十分に適っている百点の婦人だからです。
 ……
 「私のは、少しそれと違います。他の人の定めた美しさでなく、私自身の美しさです。いんえ、ただ私自身なのです。其処へ出た私自身を、人が美しいと云っているばかりです。私は「女の美しいの」ではありません。「私の美しいの」です。
 ……
 「谷の姉さん。私のことを御心配下さいますな。私にはMちゃんがあります。私は「美しい女」を求めないで「美しい私」を求めているMちゃんと二人切りで、私というものがここに在るのが無駄でなかったと感じています。
 ……

 自伝的な物語といっても、この叔母さんの手紙は創作である。「女の美しさ」ではなく「私の美しさ」を自負する叔母さんの〝新しさ〟は、この文章の書かれた1918年当時の女性のものだろう。1875年生まれの如是閑の幼少時が明治10年代だとすると、この叔母さんは当時としては進みすぎている気がする(とはいえ、叔母さんが加齢を怖れているところをみると、その新しさはいまひとつといわねばならない)。

 それはともかく、自伝的文章と呼ばれるこの物語も、他の四編同様、ある存在を強く求め、それが叶わないことへの苦しみが描かれている点では同じである。
 たとえば「馬」は、傍目にも異様にうつるほど軍馬の「アカツキ」に惚れ込んでいた失職軍人が、時を経て、曲馬団でその〈アカツキ〉と再会して逆上してしまうという話だし、「象やの粂さん」の粂さんは、全国を巡業してまわる道中で命を落とした象の〈善八〉を思うと、身も世もなく号泣してしまう。
 また、「叔母さん」同様、「ふたすじ道」と「お猿の番人になるまで」は、姉か母のように慕う女性と引き裂かれる運命にある少年が描かれている。

 五編の物語の主人公はみな孤独である。〈私〉が幼いうちは、叔母さんは〈私〉だけのヴィーナスだったし、ふたりは蜜月を過ごせたが、叔母さんは、ふたりの関係が壊れることを恐れて、自分から先回りしてそれを絶ってしまう。
 飯田泰三氏の解説によると、如是閑が生涯独身を貫き、「集団実践活動への「参加」を拒み、「ひとりもの」としての認識者・批判者の位置にとどまりつづけようとした」のは、如是閑が早くから抱えていた「「よそもの」意識」「環境への疎外感」によるものとされている。「叔母さん」のモデルは、如是閑の自叙伝によっても同定できず、このエピソードが実話かどうかもわからないが、これにあたいするような幼い頃の経験が、彼が生涯持ち続けた拭いがたい疎外感のもとになっているのだろう。




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2011年06月13日

『AQUIRAX CONTACT ぼくが誘惑された表現者たち』宇野亞喜良(ワイズ出版)

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 文庫本大の箱のなかに、リアルな極小の世界を作り出す桑原弘明。正確さの極みが、薔薇という対象への特別な愛を醸し出す豊永ゆきの植物画。シュルレアリスムというイズムを超えて、軽やかな即物性と偶然性を放つ勝本みつるのオブジェ。今では廃れてしまったスクラッチボードの技法を使ってイラストレーションを描く丸子博史。家にある端切れや毛糸で不思議ないきおいを持つオブジェを作る南タカ子。ラシャ紙に針で穴を開けて点描したものに光をあてる翳り絵を描く金井一郎……

 いまも、『イラストレーション』(玄光社)で継続中の連載「AQUIRAX CONTACT」は、宇野亜喜良が惹かれた表現者たちの作品世界を取材するというもの。それをまとめた本書には39人の作家がならぶ。

 ここにとりあげられている作り手たちは、画家、現代美術家、イラストレーター、グラフィックデザイナー、造形作家、写真家のほか、漫画家、劇作家、ピアニスト、演出家、お笑い芸人などさまざまな肩書きを持つ。また、平面の作品はイラストレーションから日本画、植物画、マンガ、ポスター、版画と多様だし、立体の作品も彫刻、人形、バッグ、フィギュア、コラージュなどさまざま。
 あとがきのインタビューで編者はこう語る。

 イラストレーションというのは要求する側のテーマやコンセプトを理解して、ノーマルな正しい表現をやっていくものだけど、それだけじゃつまらない。なにかもっと不思議なものを見る方がイラストレーションの世界が豊かになるんじゃないか。そんな気持ちがあって、専門誌における、かすかな「悪魔のささやき」みたいなページを作りたかったんです。

 半生記にわたって、コマーシャリズムのなかで仕事をしてきた宇野亞喜良だからこそそう発想されるのだろうが、かといって、彼がコンタクトをとっている作り手たちが、〝商業美術〟のもう一方にある〝純粋美術〟の系譜に属する人ばかりではないところに、宇野亜喜良の創作に対する哲学が透けてみえる。

 ここに紹介された作家について、「変則的なことをやっている。そういう気質の人たち」と言う彼自身が、イラストレーター、芸術家、アーティスト、なんでもいいが、そういう大文字の肩書きにとらわれることのない、変則的なありかたをつねに志向してきたのではないか。

 本書のならぶ作品の特質をことばにするなら、幻想的、詩的、文学的、マニエリスティック、マニアック、メルヘンチック、キモカワイイ、といった具合。これにはもちろん、選者の好みも反映されているのだろうが、彼が同じ作り手として特に関心を寄せるのは、その技法や、作品が出来上がっていくまでのプロセスにあるようだ。
 そしてもうひとつ、作家が作家としてどのようにふるまうかというところにも、宇野亞喜良の興味は働いている。

作ってる人たちの心情が可愛いって言うか。他人が自分の作品をどう思うかとか、きっとあまり考えてないでしょう。

 そう彼は言うが、これは、なによりも表現への欲求を第一とする、いわゆる天然な「芸術家」のステロタイプを指しているわけではない。

 作品からは変わってる感覚がするんだけど、取材で実際に会うとみなさんノーマルで、理性的。それも面白いですよね。あんまり難解なことを言う人もいなかった。今のような時代にこういうものを作っているという特殊性もある程度みんな客観的にわかっているんですね。でもそれが好きでどうしてもやってしまう。

 あるイメージを欲望する。そして、それをかたちにしていくとき、作家自身のこだわりに誠実であるほど、既存のジャンルやシステムからははずれてしまう。それこそ、創作することにおける正統なのかもしれない。


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