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2011年05月31日

『きれいな風貌 西村伊作伝』黒川創(新潮社)

きれいな風貌 西村伊作伝 →bookwebで購入

 カバーをみてまず驚いた。日露戦争の徴兵を逃れるようにして、シンガポールに滞在していたときの写真の彼は21歳である。日本人離れした面立ち、民族衣装に身をつつんだすらりとした立ち姿はなるほど「きれいな風貌」だ。
 2002年に開催された「『生活』を『芸術』として 西村伊作の世界」展には、この写真が展示されていて、それを私は見ているはずなのだが、記憶にのこっていない。西村伊作という人が、このように目立ってハンサムであることを意識することはなかった。

 そのときの展示で印象的に残っていることといえば、たとえば彼の理想の生活の場として設計した家や、そこに置かれた家具。自らデザインして妻に縫わせたという子ども服、アメリカから取り寄せて読み、参考にしていたという家庭雑誌などである。
 アメリカ帰りの叔父・大石誠之助とともに開いた洋食店「太平洋食堂」の写真も目についた。陸の孤島ともいうべき新宮の町に出現したレストランは、町の人の目には、さぞ新奇なものにうつっただろうとそのとき思った。本書によると、その店名は「近くに広がる大海と、自分たちがPacifist(平和主義者)だという意思表明を、掛けあわせ」たものだとか。

……山地が海近くまで迫り、平野部をほとんど持たない紀州の海岸地方は、かたや、眼前に広く太平洋が開けている。まだ、大阪や名古屋に行くにも船の便に頼るしかなかった時代である。どうせなら、この海をまっすぐに越えていき、外国で働いたり勉強したりするのも、悪くなかろう――。そんな具合に、明治の早くから、必要とあらば北米や豪州へとためらわずに渡って働く独立と先取の気骨が、この地に広く行き渡っていたのも確かである。

 クリスチャンの両親の間に彼は生まれた。外海にさらされた町で、まさに「独立と先取の気骨」に富んだ父・大石余平はこの地に初めてのキリスト教会を建て、幼稚園を作り、パン食や牛乳をひろめた。また、当時とても珍しかった洋服を息子に着せた。
 7歳のとき、父の仕事のために移り住んだ名古屋で、濃尾地震に遭い、両親を失う。その後、奈良の山林地主である母方の西村家の養子となり、莫大な財産を相続した。

……彼には、金持ちである意味をいやおうなく考えさせられながら成長したふしがあり、金持ちには金持ちとして果たすべきところがあると考え、革命の時代が迫ってくる自罰の意識のようなものにも負けずに、その道を歩こうとした。

 そこで伊作がしたのが学校建設だった。文化学院は、彼の相続した広大な山林から伐採した材木を売った金によって運営されたのである。経営に口出しされるからといって、寄付も募らなかった。
 逆に、財産家の彼のもとには、さまざまな援助をこう人が絶えなかったが、それに答えることはなかったという。

 地元・新宮の名士として、さまざまな寄付や助力を求められる機会が多かったが、伊作は、金銭の求めにはほとんど応じなかった。町の情実に浸かって生きることを、みずから恥じるべきこととして、戒めるところがあったのだろう。

 1919(大正8)年、武者小路実篤の「新しき村」設立の翌年のこと、新宮からそう遠くない三重県牟婁郡木本町にも、「黎明ヶ丘」という〝理想郷〟を建設しようとした牧師がいた。その人からの資金援助の申し出を伊作は断り、キリスト教系の雑誌にその「黎明ヶ丘」の人々に向けた詩を寄せたという。

 ここには、端的に、彼のキリスト教観、また、彼が正規のキリスト教徒となることを選ばなかった理由が、よく出ている。  人はみな(牧師も)〝心貧しき者〟であることにおいては、同じである。だからこそ、「我が罪」をさらす以外に、「人を教ふる」道はなく、内省、つまり懺悔だけが「真の説教」に足るものだ――と、そう言っている。

 ……

 大逆事件の結果から学んだことで、彼は、こうした極端を嫌う態度に至ったわけではないだろう。そうではなく、むしろ、これは、――過度の「正しさ」の主張というのはたまらない……、もしも、人が生きるべき道筋が、あらかじめそのように定められているならば、自分が自分である余地がなくなってしまう――という、生来の彼の勝手さ、その独立した気性の表れである。それが知らず知らずに働いて、彼を、大逆事件の犠牲者たちと違った道を歩ませた。この世に正義などはない、と思っているのではない。むしろ、「正義」への陶酔が、じきに自己欺瞞へと結びつくことを、若いうちから彼は敏感に感じ取り、それへの疑念が続いてきた。かつて自転車で社会主義の本を行商したりしたことを、悔いるところはない。だが、それが繰り返しに陥ると、平板なイデオロギーの支配に変わっていく、と。

 幼い頃に両親を亡くした伊作は、父方の叔父、のちに大逆事件で処刑されることになる大石誠之助を、父のかわりのようにして過ごし、多くを学んだ。そんななか、彼は二十歳のとき、新宮から弟たちの住む京都に自転車で行きがてら、平民社の平民文庫を行商して歩く。その様子は「平民新聞」にもレポートされた。
 彼はまた、大石とともに平民社へ出資もしている。しかし、大石を慕い、支援を求めてやってくる人たちと彼との間には、ある距離があった。芸者遊びや酒を飲むことを好まず、釣りやスポーツや狩猟も嫌いな伊作は、ひとりで好きなことをしているのがいいので、大石との「交際は続いていたが、そこに、いくばくかの趣味の違いはあった。そのことが……きわどく、知らず知らずのうちに、その命を救ってくれていたのかもしれない」。

 西村伊作という人を私が知ったのは、彼の書いた『装飾の遠慮』という本がきっかけだった。ちょっと変わった、しかしすてきなタイトルで、大正期の衣食住について書かれてあるらしく、興味を惹かれたのだ。読んでみると、装飾というのは人が物事を工夫せず、また物を見る目がないと過剰になり、身の回りから装飾というものをそぎおとすほど、人の暮らしは豊かになる、といったようなことが書かれてある。なんと独善的な。内容よりも、書き手のヘンクツさのほうに目がいってしまう本だった。
 また彼は、子どもの服だけでなく、西洋料理の作り方や子どものしつけの方法など、生活にまつわるあらゆることを妻に指導したというが、奧さんはよくそれに付き従ったものだと感心した。

 さて、そのようにして私のなかで西村伊作という人に付箋が貼られてから知ったところでは、彼は、建築をし、絵を描き、陶芸にもとり組んでいるが、「文化学院の創立者」というのがもっとも通りのよい看板とされているようだった。
 また、彼に少しでも興味を持つ人にとっては、父親からのキリスト教と、叔父・大石誠之助からの社会主義とに影響を受けつつ、そのどちらのイズムにも自分を沿わせることなく、独自のやり方で自らが良しとする「生活」と「芸術」の融合をはかろうとした人、というふうに見られていることもわかってきた。

 この評伝は、そうしたさまざまな肩書きやレッテルをはぎ取ったところから、西村伊作という人と、その生きた道すじをたどっていこうとしている。
 冒頭、「西村伊作という人物の語り口は、感傷に流されず、いつもいたって明朗である。だが、はたしてそれが、わずか七歳で両親を目の前で突然失った人物による回想として、自然なものと言えようか」とある。
 彼の明朗につきまとうある不自然さ。それは、食べるための仕事をしなくてもよく、特定の主義を持たない彼が、いったい何に拠って立っているのかが、外側からはよくわかりにくい、ということからくる不自然さなのかもしれない。
 著者の筆は、その不自然さやわかりにくさを、ゆっくりと解きほぐすようにして進む。あとがきにはこうある。

 きれいな風貌を、西村伊作は持っていた。子どものときから、そのように人にも言われて彼は育った。だが、彼みたいに、いつも何かに夢中な人間は、それを鼻にかけている余裕はない。むしろ、これは、どこか周囲に打ち解けきらない彼の態度と、表裏をなすものとなっていた。  彼の風貌は、どこか日本人離れしていて、目についた。異人さんみたいだと、よく言われた。自分は、ふつうの日本人ではない。この観念は、彼の内部に固着してきて、ときに、行き場のない物狂おしさとなり、吹き上げてくることもあった。

 「きれいな風貌」という、見てのとおりの、動かすことのできない彼の資質をタイトルに掲げたのは、そのためではないだろうか。


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2011年05月28日

『臍の緒は妙薬』河野多惠子(新潮文庫)

臍の緒は妙薬 →bookwebで購入

 四つの短編が収められている。
 表題ほか二編はそれぞれ、一風変わった物事にとらわれ、それを追求しようとするあまり、少々常軌を逸した行動にでる女性を描いた物語だが、巻頭の「月光の曲」だけは他とはかなり趣がことなる。 

 「月光の曲」とはベートーヴェンのピアノソナタ第14番のこと。この曲にまつわるエピソードとはこうである。

 ある夜、ベートーヴェンが友人と散歩をしていると、ある家から自分の曲を弾くピアノがきこえた。弾いているのは盲目の少女だった。少女はかたわらの兄に、演奏会に行きたいと訴えるが、貧しいふたりにとてもかわなぬ望みである。それをききおよんだベートーヴェンは、兄妹の家に入っていき、名乗ることもなくピアノを弾く。そのときに生まれたのがのちに「月光の曲」と呼ばれるソナタだった。

 この物語は、尋常小学校六年生の「小学國語讀本」に載っていたもので、作品中にはそれがまるまる引用されている。

 先生が、感想を問われた。男子のひとりだけが手を挙げて、「この挿絵が色刷りであったらと思います」と言った。――その学年が入学する年から改訂になった国定の國語讀本は挿絵が初めて色刷りになったことでも当時話題になったものだが、僅かの間に時代が変わって色刷りは二学年用の本までで中止となったのだ。

 数日後から、お昼の時間に校内放送で「月光の曲」が流れるようになった。

 お弁当をすませた子供たちが殖える。騒々しい運動場や雨天体操場で、「月光の曲」は健気に鳴っている。そんな中でも、三日目ともなると、その曲をいくらかでも聞き馴染んだ子たちがいるようだった。盤がひっくり返されるのではない曲の小さな途切れ目で、ボールを投げつけざま「ここから好きなんだ」と言う子がある。もう一度ひっくり返されてからの曲に合わせて「わたし、妖精」と妙な踊りをしてみせて友だちを笑わせている子もあったりする。

 「月光の曲」にえかがれるのは、日中戦争開戦時の尋常小学校の子どもたちである。1926年(大正15)生まれの作者はこのとき小学五年生だった。
 街中の学校の校舎の様子、教室の机のならび順、朝の朝礼を知らせるサイレン、小使の小母さんの鳴らす鐘の音。

 運動場には、すでに全校の子供たちが整列しています。遅刻しそうになって教室へランドセルを置くなり階段を駆け降りてきたり、おしっこに一っ走りしてきたりした子も、うまい具合に列のなかに納まっています。各学級の列の前には、それぞれ担任の先生。列をはずれたところに、唱歌の先生、図画の先生、お裁縫の女の先生。鐘の響きが消えると、正面の壇の近くにおられる教頭先生の「気をつけ!」の号令で、列の子供たちがしゃんとする。校長先生がとんとん壇を踏んで、壇上に立たれると、「礼!」の号令が子供たち全員がお辞儀。そして「休め!」の号令が左脚を斜めに開いて、休めの姿勢になったところで、校長先生がその時々の訓話をされます。

 五年生のなかには、校長の山村先生のことを、小学校にあがる前から知っている子がいる。山村先生は市立の幼稚園にも時々お話をしにきていたからだ。

 今の五年生がそこの幼稚園の最年長組だった都市の夏休みまえにも、山村校長が見えたことがあった。集められた園児に話しをされたのは、花房はすっかり萎え縮んでしまい、蔓葉の繁った藤棚の下だった。お話には〈まんしゅう〉とか〈まんしゅうこく〉とかいう言葉が幾度かあった。

 「今の五年生」とは、この物語のはじまる時点、つまり、日中戦争がはじまった昭和12年の作者の学年である。その「今の五年生」が小学校に入学したのは昭和8年。先述の国定教科書、「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」や「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」でおなじみの「小学國語讀本」が改訂され、色刷りに変わった年である。
 この年は、皇太子殿下が誕生した年でもある。翌年昭和9年の春には、小学校の創立六十周年の記念行事があるが、書方の展示場に貼り出された条幅の言葉はすべて〈皇太子殿下〉で、学芸会ではプログラムの最初に皇太子殿下御誕生の奉祝歌をみんなで合唱するのだった。
 また、この年の秋にやってきた台風は大暴風雨となり、早めに登校してきた一部の子たちは教室に取り残され、小学校の隣の幼稚園の校舎がつぶれてしまった、室戸台風である。

 山村校長は、朝の話で満州へ行った兵隊さんの話をよくするようになり、そうこうするうちに日中戦争が開戦、小学生たちの暮らしも変わる。
 学年毎に、交代で神社に武運長久祈願のお参りに行くことになる。同級生の家から戦死者がでる。子どもたちは「少国民」と呼ばれ、その体位向上のために休み時間に「肝油」を飲まされたりする。綴り方の時間には戦地の兵隊さんに慰問文を書く宿題がでる。五年生ともなれば、上の学校に進むために受験勉強にいそしむべきだが、その頃は、勉強よりも体力で、受験勉強はほどほどでいい、という雰囲気になり、受験シーズンを考慮して、6月に設定されていた修学旅行も秋に変更となる。
 物語の最後は、六年生になった作者たちが修学旅行へ出発する場面である。行き先は伊勢神宮である。伊勢行きの電車の出発駅まではバスで行くのが通例だったが、戦争の影響で、バスの調達ができなくなっていた。

 作者は、あるときは小学五年生の目で校内の様子や校長先生の話を描きだし、あるときは現在の目で当時を回想しているようで、それが文体にもあらわれている。
 「~でした。」「~ます。」とされる前者では、当時の小学生の学校生活が生き生きとうつしとられているが、「~だった。」とされる敗戦後60年の大人の目は、子どもたちの生活が差し迫る時局に応じて移り変わってゆくさまを追っている。
 文体の切り替わりには厳密な法則はない。また、文体の違いを方法として意識的に採用してようにも見えない。しかし、どちらか一方に統一することのできなさというものが、この回想にリアリティを与えているのだと思う。

 「月光の曲」が校内放送されたのは、わずか三日間だった。

 四日目、お弁当を開く時間が来たが、スピーカーはもう鳴らない。一組で、男の子が「今日は何だか変な気がするなあ」と言った。その舌足らずの一言には、大まかに推測しても、「淋しくなった」というほどの気持ちが想われる。平林・松永の両訓導にお伝えしたく思います。

 平林訓導とは担任の先生、松永訓導とは音楽の先生。ふたりによって、「月光の曲」の校内放送はなされたのである。作者は、敗戦後60年の目で、校内放送のない四日目の昼休みとふたりの先生の心づかいを思っているのだ。それが、最後の一文にあらわれている。


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