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2011年04月30日

『名著再会 「絵のある」岩波文庫への招待』坂崎重盛(芸術新聞社)

名著再会 「絵のある」岩波文庫への招待 →bookwebで購入

 本好きの友人にきくと、たいていみな、うんと小さな子どもころお気に入りだった思い出の絵本があって、自分から欲しいと申し出るまで、親から本を与えられた記憶のない私にはうらやましい話である。
 しかし、そもそも私は絵本にあまり興味を示さない子どもだったのかもしれず、絵本に親しむことのなかった子ども時代を親のせいにばかりはできないのかもしれなかった。
 こう書くと、ますます自分が絵本に疎い子どもだったような気がしてきた。思えば、本を欲しがりはじめたころの私の興味はもっぱら文字にあった。

 子ども向けの文庫などにはよく、対象年齢が記されており、低学年から高学年にあがるにしたがって漢字が増え、活字も小さくなってくる。私は実年齢向けのものではもの足らず、自分よりも上級向きのものを読みたがった。小さな文字がページにたくさんならんでいる本のほうがありがたみがあった。
 また、色刷りの挿絵がふんだんに入った児童文学の本もあるが、モノクロの挿絵のほうが大人っぽくて好きだった。同じ墨で刷られた活字と絵とは、元素は同じでも構造がちがえばまったく別物になる同素体みたいなものだと思う。もちろん、別丁で美しいカラー図版が挟まれているのは楽しいものだけれど、私は活字のならびのなかに絵が入っているほうがわくわくするという質である。

 そんなページの風景はまさに、本書にずらりと紹介された「絵のある」岩波文庫にぴたりと重なる。
 著者が、「絵のある」という括りで集めた岩波文庫はおよそ120タイトル。教養主義的な印象のつよい岩波文庫だけれど、挿絵や図版が充実しているとは、本好きならばきっと思い当たるだろう。ページをめくれば、どこかにかならずそんな本がみつかるはず。たとえば、いちばん最初に紹介されている『ホフマン短篇集』。

 ペラペラとページをめくり、挿入されているイラストレーションをチェックする。その絵は、ボロ糸くずというか、天井裏のおびただしい蜘蛛の巣のような線。ペン画だろうか。不吉で不安な雰囲気。惨事の予感もある。いや予感ではなかった。これは凶々しい惨事そのものだ。「砂男」に添えられたイラストレーション。

 ここにあるように、「ボロ糸くず」のように錯綜した線の集合によって描かれた挿絵は、ホフマンの作品から発するまがまがしさとともに、私のなかに忘れられない印象を残している。これは私がはじめて買った岩波文庫でもあるので、余計に思い出ぶかい。
 ほかには、正岡子規『仰臥漫筆』、『摘録 劉生日記』、木村荘八『新編 東京繁昌記』、『小出楢重随筆集』、鏑木清方『明治の東京』などが私にとっての「絵のある」岩波文庫。なるほどじつに、岩波文庫は「多彩で充実した貴重な挿絵の展示館」だ。
 もちろん、未知の本との出会いも。「絵のある」というテーマが設定されてはじめて、手にとることも、読むこともなかったであろう本との出会いが、著者にもたくさんあるという。自分が興味のある本にしか興味がない、という状態に倦んでいる身には、爽快な読書案内。書店サイトが教えてくれる「おすすめ」とはちがった書物の連関に誘い出してくれる。



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2011年04月09日

『おとなの味』平松洋子(新潮文庫)

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 大人の味といえば、苦みや辛みやえぐみ。大人になってはじめて知るおいしさは、誰にでも思い当たるはず。ここにも、子どものころはむしろ遠ざけていた山菜を切実に欲する人がいる。
 春先に野山の苦み、えぐみを味わう。すると、にわかにからだの奧で蠢動が起こる。眠りこけていたものが、ぶるりと身を震わせて起き上がる。  かんがえてみれば不思議なことだ。舌先から伝わった味が五臓六腑に響き渡り、おおきな伸びをひとつ、からだを覚醒させる。そして、冬のあいだに溜まっていた澱がすうーっと下り始める。

 そのとき食べたいものは、「私」の好みや理屈をこえて、身体がもとめているのだと気づくことがある。ときどきたまらなく食べたくなるものがあり、お腹におさめてはじめて、ああそうだったのか、と自分の身体の調子に合点がいくのだが、次のときには忘れていて、ああそうだった、とおなじことをくりかえす。理屈でもって、あれもこれも必要だからと先回りして口に入れるよりは、自然なありかたなのかとも思う。

 読む、という場合にも、おなじようなことをしているな、と思うことがある。何か目新しいことを知りたいのでもなく、むずかしい理屈をたどるのも、話の筋を追うのも億劫で、するとエッセイ、ということになるが、選びかたを間違えると後悔しそうで怖い……などと、ないものねだりしているつもりは決してないのだが。ただ、読みたいのだけはたしかで、ああこれだと読みはじめ、とまらなくなると、本を手にするまでのあのちょっとした屈託が何だったのかに思い至るのである。

 読んだり書いたり、のくりかえしのなかで、読みたいという気持ちとはいったい何なのだろうと、どこかでいつも考えている。その、何なんだろうの気持ちをあらためて強くさせられる本というのがときどきあって、つまり、本書はそのような本であった。

 食べもののことが書かれてある。エッセイとよばれるたぐいの文章である。著者には「エッセイスト」のほかに「フードジャーナリスト」という肩書きもあるから、その書くものにはもちろん、ジャーナリスティックな視点もある。雑誌・新聞に初出のあるものは、特定のお店や食べものという明白な主題があるが、本書のために書き下ろされたものは、味覚という実態のないものを、さまざまなスタイルで、さまざまな方向から照らし出す。なかには短編小説のような一文もある。

 じっくり天日に干したずいきは、これぞひなびた味わいといいたい。すっかり水分を失ってふかい皺の刻まれた濃茶の表面には、あきらめとしぶとさ、その両方が見てとれる。来る日も来る日も太陽と風になだめすかされて、なすがまま、あるがまま、あとはどうにでもしてくれい。もはや愛想のかけらもないが、拗ねてもいない。それが、ひなびた味の正体だ。
 ひざをすりむいて、つばを塗りつけたとき指さきに感じた血の味。海水浴の砂浜でくちびるを舐めたときの磯の味。落っことした飴がもったいなくて、ごみを払ってもう一度舌のうえにのせたときのほこりの味。運動会のときクラス対抗の徒競走で、アンカーだというのにつんのめって転び、口のなかにまみれた砂の味。古くなった食パンを知らずに囓ったときのかびの味。たとえばそのような味でさえ、おしまいになってしまった歳月のなかにあってはたまらなくきれいで、すきとおっている。

 こういう文章に触れると、腹の底から読むうれしさがわきあがってくる。味を知るとは、なにも舌の表面の味蕾への刺激だけを指すのでない。自分にはまだまだ味わったことのない「おとなの味」というものがあるだろうと思う。

 このうれしさはまた、ことばと触れあうよろこびによるものかもしれない。それは著者の、これまでのことばとの触れあい、著者が読んできたことによって培われてきたものを譲り受けるよろこびだ。

 旅の荷物に入れるのは、獅子文六、小島政二郎、子母沢寛。高校生のときは金子信雄、荻昌弘、伊丹十三、檀一雄が愛読書。惹かれるのは男性の書き手ばかりだったと本書にはあり、彼等から受け継がれたことばが、著者のなかに生きているのだろうが、私は向田邦子のことを思い出した。

 子どものころのこと。寿司折の「おみや」をぶら下げて父親が帰った晩、ねぼけまなこで妹とふたり、座敷に座る。

 どれから食べよう。箸を握っていると、コップの冷たい水を飲みながら父が言う。  「ようこさんはいか。けいこさんはえび」

 娘に「さん」をつけて呼ぶ、ほろ酔いで上機嫌のお父さん。この夜遅くのお寿司で、彼女はわさびの味を知る。あるいは夏休みの午後、昼寝から覚めてまず飲む麦茶。姉の役目である夕飯前のかつおぶし削り。平松洋子という人も、「昭和の長女」という呼び名がよく似合う。そのことばを受け継いで、自分のなかに生かしていきたいなあ、と思わさせる書き手である。


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2011年04月01日

『歌う国民 唱歌、校歌、うたごえ』渡辺裕(中公新書)

歌う国民 唱歌、校歌、うたごえ →bookwebで購入

 小学校の入学式の日、教室で「みんなのうた」という新書本ほどのサイズのオレンジ色の本を配られた。それまでには手にしたことのない、小ぶりで文字も小さな本だったので、とても大人っぽいものに思えてうれしかったのをおぼえている。

 なかには歌詞つきの楽譜がずらり、おぼえているのは、「朧月夜」「隅田川」「我は海の子」「ちいさい秋みつけた」「ペチカ」「雪のふる町を」など四季おりおりの歌や、「野ばら」「すいかの名産地」「ドナドナ」など。それから「ゆけゆけ飛雄馬」などアニメの主題歌も収録されてあった。この本は小学校の六年間ずっと使いつづけた。

 毎週水曜日は「歌の朝礼」といって、この「みんなのうた」をもって体育館に集まり、みんなして歌うのだった。一学年六クラスという時代だったので、さすがに全校生徒全員が一緒ではなかったと思うが、学年全員が集っていたのはたしかだ。壇上で、年配(小学生だったから、そうみえただけかも)の男の音楽の先生が、いたく熱心に指揮棒を振っている姿に吹き出しそうになるのを、必死にこらえて歌っていた。

 明治政府が発足してわずか十二年後に「音楽取調掛」を組織し、さらにはそれを発展させて「東京音楽学校」を設立して西洋音楽を導入しようとしたのは、これが近代国家における「国民」確立のためにぜひとも必要だと考えられたためだという。西洋音楽の方法によって、これまで日本にあった既存の音楽とはべつの「国民音楽」を作りあげることが、近代国家を整備するための急務であったのだ。

 そんな、明治政府による「国民音楽」のなかでもとくに重要とされたのが、「国民」を啓蒙するためのさまざまな情報が盛り込まれた「唱歌」だった。これをみんなで声をそろえて歌うことは、「国民」たるにふさわしい健やかな身体と精神を育み、「国民」としての連帯意識を高めるのに役立つ。「唱歌」とは、明治政府によって作り出された「国民づくり」のためのツールだったのである。

 昭和四十年代から五十年代にかけて小学生だった私の「みんなのうた」には、唱歌や童謡からポピュラー音楽、アニメの主題歌まで、いろいろな歌が詰め込まれてあったし、それをみんなで歌う(歌わされていた、ともいえるが)ことに明治時代ほどの政治性はないかもしれない。それでもあの朝の体育館での合唱は、明治以来の「唱歌」の伝統を受け継ぐものとしてあるのだということを、本書は教えてくれる。

 と、ここであわてて付け加えるのだが、本書はなにも「唱歌」が上からの「国民づくり」のためのものであったという、その政治性を糾弾しようとしているのでは決してない。音楽にせよ美術にせよ、近代におけるその受容と制度の成立には、国家の思惑が深く絡んでいる。けれども、文化というものはすべてお上のイデオロギーのもとに創出されるわけではなく、「多くの人々が様々な形で関与することを通して形作られ、変容されてゆくもの」なのだ。

 文化というものは、継承と断絶とのはざまの、つながっているようないないような、微妙な空間をさまよいながら形作られてゆくものです。唱歌やその周辺にある「唱歌的なるもの」をめぐるそのような動きに注目しながら明治以後の文化のうつりゆきをもう一度捉え返してみたいのです。

 その「唱歌的なるもの」として、卒業式で歌われる歌や校歌、都道府県歌、社歌、労働者の歌といったコミュニティ・ソングが取り上げられている。本書の前半では明治時代の「唱歌」を切り口として、日本人が西洋音楽をどのように受け入れ、どのように扱ったのかが、後半では、「唱歌」の伝統を受け継ぎつつ、日本人が作り出したさまざまな歌とそれをめぐる状況が紹介される。

 いわゆる「芸術としての音楽」の受容とはべつの、みんなで声を合わせて歌う歌における音楽の受けいれられかた、またそこからひろがり発展した文化のありようを追っていく本書は、もう一つの日本近代音楽史である。

 明治以後の日本の音楽文化がたどってきた歴史はしばしば、西洋に「追いつけ追い越せ」を合い言葉に、少しでも西洋の「本格的」な芸術音楽に近いコピーを追い求めてきた歴史であるかのように描かれてきました。そのために、唱歌のようなものはその位置を確保することができず、受容の幼稚な段階の中途半端な産物として片づけられるようなことになりがちでした。

 たとえば、こんにちの私たちが思い浮かべることのできる「唱歌」と名のつく歌のなかでもっとも有名な、「きーてきいっせいしーんばしをー♪」というあの「鉄道唱歌」は、なんと歌詞が66番まであるのだそうだ。そこには、新橋を出発した汽車が走る「東海道線沿線の景観や産業の様子が延々と歌われて」いる。そんな、近代的な知識を学ばせるための歌は、「芸術としての音楽」とはいい難い代物、と私たちは思ってしまうが、それは私たちが西洋近代的な芸術観に拠っているせいなのである。そもそも、明治の人たちにとってはまだ、音楽は「芸術」ではなかったのだ。

 日本の独特の「唱歌」文化は、「本格的」な芸術音楽にいたらない中途半端なものなどではなく、それとは別の「コミュニティ・ソング」の系列の文化というコンテクストの中で、それが西洋から世界に向けて広がっていったグローバル・ヒストリーの一部をなすものとして捉えられるべきなのです。そして重要なのは、この「コミュニティ・ソング」の文化にみられる独特の「日本化」のありようです。

 その、独特の「日本化」のされかたは、「換骨奪胎と流用」とも表現されている。たとえば、初期の唱歌には、西洋の歌曲の歌詞を日本語にしたもの(原曲とはほど遠い内容だったりする)があるが、そうした歌詞の改変は日本の民謡などでは伝統的に行われていたことなのだった。日本語という言語のなりたちのためもあるだろうが、私たちはいまだに替え歌が好きである。

 この「替え歌の伝統」などは文字通りの換骨奪胎というか、とてもわかりやすい例えだが、それに限らず、日本人はお家芸ともいえる「換骨奪胎と流用」とを、さまざまな場面で駆使しながら文化を作りあげてきたのだろうと思う。ことに、西洋の文物が押し寄せた明治という時代、人々はじつに一生懸命に、そして大まじめにそれらを日本独特の仕方で受容しようとしただろう。

 明治人たちの残した「唱歌」が滑稽で非芸術的なものにみえたとしても、彼らの「やりかた」は、すっかり近代化された私たちのなかにもきっとまだ残っている。そういえば「歌の朝礼」のとき、みんなで声を合わせるなか、退屈な朝礼に飽き飽きし、どの歌でもいちいち替え歌にして歌わなくては気がすまない男子がいたものだ。

 日本は西洋の音楽文化をそのまま輸入して猿まねしてきたかのようなイメージで語られることがよくありますが、こうしてみると、当時の人々は西洋の最先端の動きを、自分たちの社会状況に合わせて臨機応変に「最適化」して取り組んでいるように思われます。それを単純な「西洋化」として語ってしまうのは、タテマエだけでものを考えるエリートの視点であって、実際には文化が大衆的な局面になればなるほど、時にはそのタテマエをも有名無実にしてしまうような仕方での「土俗化」が行われているのです。

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