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2011年03月25日

『二つの星 横井玉子と佐藤志津 女子美術大学建学への道』山崎光夫(講談社)

二つの星 横井玉子と佐藤志津 女子美術大学建学への道 →bookwebで購入

 私立女子美術学校(現・女子美術大学)の創立者・横井玉子は嘉永7年(1854年)、江戸築地鉄砲州にある肥後藩細川若狭守邸内で、肥後藩の支藩新田藩家老の原尹胤(まさたね)の次女として生まれた。維新に際して熊本へ帰還し、そこで横田小楠の甥・左平太によって創設された熊本洋学校に学んだ。のち左平太と結婚するが、早くに夫に先立たれ、叔母にあたる矢嶋楫子のもとで諸芸を学びながら、楫子が教職をつとめる築地居留地の新栄女学校で裁縫や礼式などを教えた。

 また、絵画にも興味を持ち、本多錦吉郎の画塾で絵を学び、そこで浅井忠を紹介されて明治美術会に、さらには黒田清輝の白馬会にも入会している。新栄女学校が桜井女学校と合併し女子学院となると、ひきつづき教師としてつとめ、裁縫や割烹だけでなく洋画も教えた。当時、女性の絵画教師というのは珍しい存在だったという。

 玉子が女子のための美術大学を、と思い立ったのは、明治二十二年に開校した東京美術学校が女子に門戸を開いていないためだった。男女平等の気風の濃い熊本洋学校で学んだことや、婦人運動にも力を注いだ教育者である矢嶋楫子の影響もあった。また、渡米経験のあった亡き夫から、アメリカには女性の通う美術大学があるときかされた思い出も、玉子にとって大きな励みとなっていた。

 また、矢嶋楫子に紹介された『女学雑誌』の巌本善治の思想も玉子にとって決定的であった。巌本の女学思想によれば、家庭の充実こそ国を豊かにするとし、さらには「家庭内の美術が重要」と玉子に説いたのだった。とくに、巌本の「美術には絵画や彫刻のみならず、音楽や演劇や詩歌など、生活を楽しく豊かにするものはすべてふくまれる」という美術観に強く影響を受けた。

 「美術」なる語は、明治六年、ウィーン万国博覧会参加のさい、ドイツ語の出品分類からの訳語として日本語にはじめて登場したといわれるが、この時の「美術」の定義には音楽や詩もふくまれる、つまりここでの「美術」は今でいう「芸術」にあたいするもので、この用法は明治の初めから半ばまでつづいたのだという(北澤憲昭『眼の神殿』美術出版社)。

 玉子が巌本に出会ったのは、おそらく明治二十二年頃のことだから、その頃はまだ「美術」が今でいう「芸術」全般をあらわしていたのだろう。玉子が女子美術大学設立にいたるのはそれから十年あまりの先のことであるが、玉子はこの美術観を自らの信念としつづけたようだ。

 著者は物語のなかで、玉子にこんなことをいわせている。明治22年、第一回明治美術会の展覧会でのこと。玉子と、その後女子美術学校を引き継ぐことになる佐藤志津がはじめて出会う大事な場面である。志津は幼い頃から面識のあった浅井忠に玉子を紹介される。

 「絵の先生を……」
 志津はおどろいた。画家は男の仕事であり、女の絵画教師は想像できなかった。
 「絵ばかりでなく、美術も教えられればと思っています」
 玉子はいった。
 「えっ、美術は絵を指すのではないのですか」
 志津はききかえした。
 「美術は絵ばかり指すのではありません。音楽、彫刻、詩歌、小説、演劇、建築など、生活を充実させるものはすべてふくまれます。さらに、裁縫や手芸、編物、料理なども包含します」

 巌本の美術観に共鳴した玉子はここで、裁縫や手芸、はては料理までをも「美術」であると考えるようになっている。巌本は「家庭の充実」「家庭内の美術」と「家庭」を強調したが、結婚してわずか二年で夫に先立たれた玉子はいわゆる「家庭婦人」とはちがう立場にいた女性である。そのことがむしろ、玉子に裁縫や手芸や料理も「美術」であると認識させたのかもしれない。妻や母という立場からではなく、裁縫や料理、さらには絵画までも教えるようになった玉子の教育者としての生き方が、女性の自立のための美術学校建設という仕事へとつながっていく。

 玉子の熱意と、矢嶋楫子や巌本善治らの援助によって、明治34年(1901年)、私立女子美術学校は開校された。この時、「日本画科」「西洋画科」「彫塑科」「蒔絵科」といった学科だけでなく、「裁縫科」「刺繍科」「造花科」「編物科」が設けられたのは、玉子の美術観を反映してのことであろうし、またそれらの科が、絵画や彫刻を学ぶよりも女性の自立に直結する考えられたためではないか。

 前々稿、『近代日本の「手芸」とジェンダー』では、「手芸」概念の成立の歴史は、それが「芸術」の分野から排除されてゆく歴史であるとされている。明治期の女子の教育機関において「裁縫」や「手芸」は重要な科目とされ、それは中間層以上の女子のための女学校においては良妻賢母養成のためであり、職業訓練校ともいうべき中間層以下の女子のための学校においては、自営の道を開かせるためのものであった。

 女子美術学校ではどうか。ここで裁縫や編物は、授業科目ではなく、日本画や西洋画とならぶ学科のひとつである。玉子はそれらの科を、良妻賢母のたしなみでもなく、また女中として働くさいに困らない程度のひととおりの技術でもない、より高度で専門的な技術習得の場として考えていただろう。玉子による「女子美術学校設立ノ趣旨」にはこうある。

 ……而して其の目的とする所は先づ女子の向て美術教育を施し彼等をして其学習せし所を以て彼等の手工手芸其の他日常の業務上に適応せしめ因て以て彼等が自活の道を講じ得るに資し従て彼等の社会に於ける位置を漸次高進せしめ次には女子師範学校其の他の女学校に於ける美術教師を養成して今日の不足に応ぜしめんとするにあり……

 裁縫や料理、絵画の教師として生きてきた玉子は、自分と同じような教師を養成することが、なにより女性の自立につながると考えていたのだろう。しかし、女子に美術を教え、美術教師を育てるという趣旨は当時先駆的すぎたのか、生徒があまり集まらず、創立してまもなく学校は経営不振に陥ってしまう。この時、玉子は明治美術会の展覧会で一度であったきりの志津を訪ね、学校の窮状を訴えた。

 佐藤志津は、江戸末期の医学者で順天堂を設立した佐藤泰然の養子・尚中の長女である。志津は、夫や親戚の猛反対にも関わらず、玉子の願いを受け入れ、学校経営を援助、学校を引き継ぎ、玉子の死後は校主に就任した。

 薙刀を得意とし、郷里の下総国・佐倉の言葉で「あばらっ娘(おてんば)」と呼ばれ、気丈で聡明な娘だった志津はかつて、父親のように医師になりたいと願ったこともあった。しかし女が医者になるなどまだ考えられない時代、両親のいうまま婿をとり、順天堂を影で支えてきたが、夫の成功と順天堂の繁栄にもかかわらず、満たされない思いを持ちつづけていた。そんなところへ、彼女のなかに忘れられない印象を残していた玉子という女性があらわれ、救いを求めてきたのである。玉子のひたむきさに打たれたのはもちろん、女子を自立へと導く学校を存続させたい、という思いが志津を動かした。玉子の情熱と努力、そして志津の力なくしては、今日の女子美は存在しなかった。

 今日、女子美の学科構成を見てみると、「美術学科」「デザイン・工芸学科」「アート・デザイン表現学科」という三つの科があり、それぞれが四つの専攻にわかれている。女子美術学校創設当時の「裁縫科」や「編物科」は、1949年の学制改革のさい「服飾学科」とされた。さらに1950年に短期大学部に「服飾科」が、1952年には付属の洋裁学校が開設されている。その後も各学科もろもろの改変があり、2001年芸術学部に「ファッション造形学科」が設置、2002年には短期大学部の「服飾科」が廃止され、現在、服飾関係の学科は「アート・デザイン表現学科」のなかにある「ファッションテキスタイル表現領域」となっている。

 「本学では1900年の開校以来一貫して服飾教育を行い、確固とした技術を次の世代へと伝えてきました。109年の歴史のなかで表現手段や形態は変わっても、社会との繋がりを重視した教育を目指してきました。」と女子美のHPにはある。かつては「裁縫」や「手芸」とよばれたものが、百年あまりのあいだに「表現手段や形態」を変え、もはやファッションがアートの一ジャンルであると誰もが疑わない。



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