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2011年03月29日

『裁縫女子』ワタナベ・コウ(リトルモア)

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 細かい手順を大胆に省略し、初心者でも手早く簡単にできる「クイック・ソーイング」をあみだし、裁縫教室やテレビ番組で講師をつとめてきた著者。イラストレーターでもある彼女が、これまで教室で出会った生徒たちとのエピソードをつづったコミックエッセイ。

 自分の実際のサイズを無視してMサイズの服を作ろうとする。スカート丈80センチに固執する。チャコペンシル(布に印をつけるための裁縫用のペン、消えるものと消えないものがある)で布の表側に線を引いてしまう。初心者なのに縫いにくい生地をわざわざ選んでくるなど、大人げない生徒たちと、教室のスタッフ(教室を主宰するミシン会社の関係者)との板挟みにあいながら、ソーイングの道を説いてゆくコウ先生。

 1960年代までは、服を買うということはまだ一般的でなく、既製服は「ツルシ」とよばれ、質の悪い安物扱いだった。1970年に創刊された「アンアン」が、型紙を載せないはじめてのファッション雑誌であったとは本書にも紹介されているが、それまでのファッション誌には、グラビアでモデルが着ている服の型紙が必ず巻末についていた。洋服は自分で服地をもとめて縫うか、あるいは誂えてもらうものだったのだ。

 少女のころ裁縫に目ざめ、裁縫の得意な祖母に訓練されたという著者は、着ている服はほぼ自分で縫うという、筋金入りの裁縫家である。いっぽう母親は、「裁縫をする女など古い、これからの女の子は勉強ができなくてはいけない」という戦後民主主義を信奉する女性であった。そんな母と祖母の間で、著者は裁縫と同じく勉強もよくしたのであろう、東京外語大に入学するも、中退、その後ソーイング教室でアルバイトをはじめ、それをきっかけに裁縫の道へ。

 独自のメソッドによって、誰にでもできる初心者向けのソーイングをうたっている著者だが、教室をはじめた当初は、自分よりも年上の、はるかに裁縫歴の長いであろう「ソーイング・マニア」の人たちから、そんなやり方は邪道だと叱られたという。
 このエピソードは、もはや裁縫が女性にとって必須項目でなくなった今日の「女と裁縫」の関係の一面が表れているようだ。誰もがしなくなったからこそ、裁縫ができることは特別なことになる。手間ひまかけて磨いた技をそう簡単に他人に習得されては困る、というのが「ソーイング・マニア」のいいぶんだ。その技術を人に認めてもらうことこそが、彼女たちの欲望なのである。

 服は買うのが当たり前の今日、それでも裁縫をマスターして自分で服を作りたいというとき、その動機はどこにあるのだろう。ものづくりが好きだからか、自分に合ったサイズやデザインのものができるからか、買うよりも作ったほうが経済的だからか。女にとって裁縫とは何か、それが本書の隠れたテーマでもある。

 著者が裁縫を教えるまでになったのは、やはり裁縫そのものが好きだったためだろう。そんな彼女のもとに集まった生徒たちは、教えられたことのうわべだけをなぞり、自分で考えることをせず、かといって人の言うこともきちんときかず、失敗は人のせいにしたりして、ときに先生を困らせる。一回の講習で、課題の服を失敗なく縫いあげることよりも、自分の手と頭を使って裁縫をする楽しさを知ってもらいたいと先生は願っているのだが、生徒との間の溝はどうにも埋めがたい。その食い違いはまるで、著者の「裁縫とは何か」という問への答えを導き出すための試練のようなのだ。


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2011年03月25日

『二つの星 横井玉子と佐藤志津 女子美術大学建学への道』山崎光夫(講談社)

二つの星 横井玉子と佐藤志津 女子美術大学建学への道 →bookwebで購入

 私立女子美術学校(現・女子美術大学)の創立者・横井玉子は嘉永7年(1854年)、江戸築地鉄砲州にある肥後藩細川若狭守邸内で、肥後藩の支藩新田藩家老の原尹胤(まさたね)の次女として生まれた。維新に際して熊本へ帰還し、そこで横田小楠の甥・左平太によって創設された熊本洋学校に学んだ。のち左平太と結婚するが、早くに夫に先立たれ、叔母にあたる矢嶋楫子のもとで諸芸を学びながら、楫子が教職をつとめる築地居留地の新栄女学校で裁縫や礼式などを教えた。

 また、絵画にも興味を持ち、本多錦吉郎の画塾で絵を学び、そこで浅井忠を紹介されて明治美術会に、さらには黒田清輝の白馬会にも入会している。新栄女学校が桜井女学校と合併し女子学院となると、ひきつづき教師としてつとめ、裁縫や割烹だけでなく洋画も教えた。当時、女性の絵画教師というのは珍しい存在だったという。

 玉子が女子のための美術大学を、と思い立ったのは、明治二十二年に開校した東京美術学校が女子に門戸を開いていないためだった。男女平等の気風の濃い熊本洋学校で学んだことや、婦人運動にも力を注いだ教育者である矢嶋楫子の影響もあった。また、渡米経験のあった亡き夫から、アメリカには女性の通う美術大学があるときかされた思い出も、玉子にとって大きな励みとなっていた。

 また、矢嶋楫子に紹介された『女学雑誌』の巌本善治の思想も玉子にとって決定的であった。巌本の女学思想によれば、家庭の充実こそ国を豊かにするとし、さらには「家庭内の美術が重要」と玉子に説いたのだった。とくに、巌本の「美術には絵画や彫刻のみならず、音楽や演劇や詩歌など、生活を楽しく豊かにするものはすべてふくまれる」という美術観に強く影響を受けた。

 「美術」なる語は、明治六年、ウィーン万国博覧会参加のさい、ドイツ語の出品分類からの訳語として日本語にはじめて登場したといわれるが、この時の「美術」の定義には音楽や詩もふくまれる、つまりここでの「美術」は今でいう「芸術」にあたいするもので、この用法は明治の初めから半ばまでつづいたのだという(北澤憲昭『眼の神殿』美術出版社)。

 玉子が巌本に出会ったのは、おそらく明治二十二年頃のことだから、その頃はまだ「美術」が今でいう「芸術」全般をあらわしていたのだろう。玉子が女子美術大学設立にいたるのはそれから十年あまりの先のことであるが、玉子はこの美術観を自らの信念としつづけたようだ。

 著者は物語のなかで、玉子にこんなことをいわせている。明治22年、第一回明治美術会の展覧会でのこと。玉子と、その後女子美術学校を引き継ぐことになる佐藤志津がはじめて出会う大事な場面である。志津は幼い頃から面識のあった浅井忠に玉子を紹介される。

 「絵の先生を……」
 志津はおどろいた。画家は男の仕事であり、女の絵画教師は想像できなかった。
 「絵ばかりでなく、美術も教えられればと思っています」
 玉子はいった。
 「えっ、美術は絵を指すのではないのですか」
 志津はききかえした。
 「美術は絵ばかり指すのではありません。音楽、彫刻、詩歌、小説、演劇、建築など、生活を充実させるものはすべてふくまれます。さらに、裁縫や手芸、編物、料理なども包含します」

 巌本の美術観に共鳴した玉子はここで、裁縫や手芸、はては料理までをも「美術」であると考えるようになっている。巌本は「家庭の充実」「家庭内の美術」と「家庭」を強調したが、結婚してわずか二年で夫に先立たれた玉子はいわゆる「家庭婦人」とはちがう立場にいた女性である。そのことがむしろ、玉子に裁縫や手芸や料理も「美術」であると認識させたのかもしれない。妻や母という立場からではなく、裁縫や料理、さらには絵画までも教えるようになった玉子の教育者としての生き方が、女性の自立のための美術学校建設という仕事へとつながっていく。

 玉子の熱意と、矢嶋楫子や巌本善治らの援助によって、明治34年(1901年)、私立女子美術学校は開校された。この時、「日本画科」「西洋画科」「彫塑科」「蒔絵科」といった学科だけでなく、「裁縫科」「刺繍科」「造花科」「編物科」が設けられたのは、玉子の美術観を反映してのことであろうし、またそれらの科が、絵画や彫刻を学ぶよりも女性の自立に直結する考えられたためではないか。

 前々稿、『近代日本の「手芸」とジェンダー』では、「手芸」概念の成立の歴史は、それが「芸術」の分野から排除されてゆく歴史であるとされている。明治期の女子の教育機関において「裁縫」や「手芸」は重要な科目とされ、それは中間層以上の女子のための女学校においては良妻賢母養成のためであり、職業訓練校ともいうべき中間層以下の女子のための学校においては、自営の道を開かせるためのものであった。

 女子美術学校ではどうか。ここで裁縫や編物は、授業科目ではなく、日本画や西洋画とならぶ学科のひとつである。玉子はそれらの科を、良妻賢母のたしなみでもなく、また女中として働くさいに困らない程度のひととおりの技術でもない、より高度で専門的な技術習得の場として考えていただろう。玉子による「女子美術学校設立ノ趣旨」にはこうある。

 ……而して其の目的とする所は先づ女子の向て美術教育を施し彼等をして其学習せし所を以て彼等の手工手芸其の他日常の業務上に適応せしめ因て以て彼等が自活の道を講じ得るに資し従て彼等の社会に於ける位置を漸次高進せしめ次には女子師範学校其の他の女学校に於ける美術教師を養成して今日の不足に応ぜしめんとするにあり……

 裁縫や料理、絵画の教師として生きてきた玉子は、自分と同じような教師を養成することが、なにより女性の自立につながると考えていたのだろう。しかし、女子に美術を教え、美術教師を育てるという趣旨は当時先駆的すぎたのか、生徒があまり集まらず、創立してまもなく学校は経営不振に陥ってしまう。この時、玉子は明治美術会の展覧会で一度であったきりの志津を訪ね、学校の窮状を訴えた。

 佐藤志津は、江戸末期の医学者で順天堂を設立した佐藤泰然の養子・尚中の長女である。志津は、夫や親戚の猛反対にも関わらず、玉子の願いを受け入れ、学校経営を援助、学校を引き継ぎ、玉子の死後は校主に就任した。

 薙刀を得意とし、郷里の下総国・佐倉の言葉で「あばらっ娘(おてんば)」と呼ばれ、気丈で聡明な娘だった志津はかつて、父親のように医師になりたいと願ったこともあった。しかし女が医者になるなどまだ考えられない時代、両親のいうまま婿をとり、順天堂を影で支えてきたが、夫の成功と順天堂の繁栄にもかかわらず、満たされない思いを持ちつづけていた。そんなところへ、彼女のなかに忘れられない印象を残していた玉子という女性があらわれ、救いを求めてきたのである。玉子のひたむきさに打たれたのはもちろん、女子を自立へと導く学校を存続させたい、という思いが志津を動かした。玉子の情熱と努力、そして志津の力なくしては、今日の女子美は存在しなかった。

 今日、女子美の学科構成を見てみると、「美術学科」「デザイン・工芸学科」「アート・デザイン表現学科」という三つの科があり、それぞれが四つの専攻にわかれている。女子美術学校創設当時の「裁縫科」や「編物科」は、1949年の学制改革のさい「服飾学科」とされた。さらに1950年に短期大学部に「服飾科」が、1952年には付属の洋裁学校が開設されている。その後も各学科もろもろの改変があり、2001年芸術学部に「ファッション造形学科」が設置、2002年には短期大学部の「服飾科」が廃止され、現在、服飾関係の学科は「アート・デザイン表現学科」のなかにある「ファッションテキスタイル表現領域」となっている。

 「本学では1900年の開校以来一貫して服飾教育を行い、確固とした技術を次の世代へと伝えてきました。109年の歴史のなかで表現手段や形態は変わっても、社会との繋がりを重視した教育を目指してきました。」と女子美のHPにはある。かつては「裁縫」や「手芸」とよばれたものが、百年あまりのあいだに「表現手段や形態」を変え、もはやファッションがアートの一ジャンルであると誰もが疑わない。



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2011年03月20日

『大塚女子アパートメント物語 オールドミスの館にようこそ』川口明子(教育資料出版会)

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 同潤会によって建設された女性専用アパート、大塚女子アパートメントの軌跡をつづる本書。
 その設立は1930年。地上五階、地下一階、中庭を抱いたコの字型の建物には148の居室があった。地下には食堂と共同浴場、一階には応接室とミシン室、五階には洗濯室と物干し場、屋上には音楽室とガラスばりの日光室、同潤会アパートのなかでも特に共有スペースが充実していた。また、水洗トイレ、エレベーター、ダスターシュート、ガス湯沸かし器等、当時の日本人の住居環境からすれば、夢のように快適な近代的設備を持つ、当時最新の女子向けコレクティブハウスともいうべきアパートである。入居の条件は「月収五十円以上」、当時の女性としてはかなりの高収入である。専門的な職種の、いわば「職業婦人」たちをあてこんで造られたのがこの大塚女子アパートであった。

 この「職業婦人」憧れの住まいは当時から人々に注目され、メディアにも華々しく紹介されたが、本書に取り上げられている記事をみると、そこには世間のよからぬ好奇の目が注がれていたとわかる。たとえば1931年の『婦人公論』には「モダン女護ヶ島――女独身アパート夜話」という、女性誌らしからぬタイトルで、職業婦人のアパート暮らしが揶揄されているという。
 主婦向けというよりは、新しい女性のための雑誌のはずの『婦人公論』にそんな記事があったというとがなにより驚きだが、それだけ大塚女子アパートのようなモダンな部屋に暮らす女性たちが特殊な存在だったということか。
 女性に限らずとも、単身者の住居は下宿か間借りがおおかった時代のこと、プライベートな空間を手に入れられる人は限られていた。それゆえなのだろう、大塚女子アパートには、「男子禁制」の厳密な規則があって、たとえ親兄弟といえども一階の応接室までしか入ることができなかったという。この問題については、創立当初から居住者と同潤会はもめていたらしい。ちなみに同じ時期に同潤会が建てた独身男性専用の虎ノ門アパートには、女子禁制の規則はなかったという。

 戦後、同潤会アパートは、同潤会に変わってアパートの管理を引き継いでいた住宅営団が解散したのち、いったんは東京都の管理下におかれ、住民へと払い下げられた。しかし、大塚女子アパートだけは、居住者の意見がわかれたためにそれが行われなかった。もしもアパートが分譲されることになれば、それまでの女性専用という規則は壊れ、どんな人間がアパートに入ってくるかわからない、という意見が反対派にはおおかったという。
 こうして大塚女子アパートは都営住宅として存続することになり、高収入のモダンガールのお城から一転、低所得の独身女性のための住居となる。ここから、安心で快適な暮らしを女性たちに保証するアパートの堅牢な鉄筋コンクリートの厚い壁は、居住者たちを社会から隔絶するものに変わってしまったのだろうか。「男子禁制」の規則も、戦後は一転、居住者が自ら遵守するようになったという。

 そんな、戦後の大塚女子アパートの雰囲気をよく伝えるのが、戸川昌子の処女作『大いなる幻影』である。戸川は戦後、母親とともに焼け出されて行き場を失い、大塚女子アパートに入居する。暮らしてみると、戦中から修復されることなく放置され、地下の浴場は閉鎖され廃墟と化していた。そんなアパートの様子に想像力を掻き立てられて生まれたのが、ミステリー『大いなる幻影』だったのだ。そこでは、孤独な女性たちの葛藤がぶつかり合うことで物語が展開してゆく。
 亡き夫の遺した意味不明の論文をくりかえし清書しつづける未亡人と、彼女に劣等感を抱いてその生活を覗き見しようとする管理人の女性。演奏家になるという夢に破れ、過去に犯した過ちに囚われたヴァイオリン教師。裾のほころびたロングスカートを着たきりで、ごみだらけの部屋で魚の骨を煮ては食べている元・図画教師。かつての教え子に毎日手紙を書くことを自らに強いて、それをひたすら守りつづける元・女学校教師。

 『大いなる幻影』の登場人物たちをこうしてなぞると、アパートにはかつては華やかだった「職業婦人」たちの孤独な末路がせめぎあっている風である。しかし現実は、お互いに余計な干渉もせず、一方では気さくなつきあいも持てる、とても暮らしやすいところだったという。そう回想するのは、戸川にすこし遅れてアパートに入居した、フェミニズム批評の先鋒・駒尺喜美である。当時二十七歳の彼女は、女性運動家小西綾を追って上京、大塚女子アパートに住み、そこから大学へ通った。駒尺がのちに、上野千鶴子の『おひとりさまの老後』にも紹介されたシニアハウス「ともだち村」を建設し、「血縁によらない共生」を目指したのは、大塚女子アパートでの生活が影響していると著者はいう。

 「私はグループを作って本を読んだりおしゃべりするのが好きで、大塚女子アパートにいたときから、そういうことをしていたんですが、どこに行ってもそれをつなげて血縁でなくても一緒に住むようになった」  法政大学の非常勤講師になった一九六六年、小西綾とともに大塚女子アパートを去るが、ここでの生活がそういうライフスタイルの原点となった。現在でも、家賃の高い東京では、友人とルームシェアして住む人はいるが、駒尺は経済的な理由からではなく、自分の生き方としての「共生」を選んだのだ。

 2001年、日本建築学会より東京都に提出された「旧同潤会大塚女子アパートメントハウスの保存・再生に関する要望書」には、これが「女性の社会進出という時代の趨勢を端的に反映したアパートメントハウスである」という見解が示されている。たしかに、高収入の女性専用という同潤会のコンセプトは、当時の言葉でいえば「職業婦人」という自立した働く女性たちが東京の街で活躍しはじめた時代であればこそのものだ。
 しかし、建設当時の時代を反映している、としただけでは、大塚女子アパートが働く女性たちにとってどんな意味を持っていたのかを示すことにはならない。アパートに住まった女性たちのエピソードを紹介しながら、戦争によって様変わりしたそのありようと、2003年の解体までの歴史を眺めてみてはじめて、それはみえてくるのものなのだろう。


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2011年03月06日

『近代日本の「手芸」とジェンダー』山崎明子(世織書房)

近代日本の「手芸」とジェンダー →bookwebで購入

 手芸、このドメスティックかつ趣味的な制作行為は、この不景気の世の中でも(いや、不景気だからこそというべきか)、いっこうに廃れることのない女性の活動ジャンルだ。手芸教本は手をかえ品をかえて出されつづけているし、手芸用品の店は女性客でごった返している。教育テレビにチャンネルを合わせれば、アップにされた女性の指先が毛糸を編んだり小布を縫い合わせたりしている。器用な手指によって、何かしらが着々と制作されてゆくさまは、なかなかの見ものなのでつい見入ってしまうのだが、あの番組を見ていてなるほどと思うのは、世の中には「手芸作品」を制作したり、その作り方を人に教えるということを職業にしている(らしい)人が結構いるのだなあ、ということである。
 手芸とひとことでいっても、そのありようはさまざまだ。それを仕事にまでしてしまう人もいれば、子どもの入学する幼稚園で使う袋物が「手作り必須」だったりしてやむなく、という人(袋を縫うだけなら手芸でなく裁縫というべきだろうが、名前は刺繍で!などといってくる幼稚園もあるのが驚きである)、師匠と仰ぐほどの名人に「弟子入り」し、壮大なパッチワーク作品作りなどに励む人。
 限りなく実用に近いところから、「ほとんど芸術」「ほとんど工芸」レベルにいたるまでという、その守備範囲の広さはひとえに、これをする人が「女性」であることによる。女性がするものである、というジェンダー規範が「手芸」という言葉に内包されていなければ、たとえば上記のふたつの制作物とその行為は、同じ概念のもとに存在せず、何かべつの価値づけと制度づけがなされていたのではないだろうか。


 「手芸」は近代日本の産物である。「手芸」は、それを女性がおこなうものとして認識されることによって「手芸」となったのだ。本書は、明治時代における手芸の概念の成立と、それと同時になされた手芸のジェンダー化があつかわれている。
 近代国家形成期、皇后を頂点とするヒエラルキーのおのおのの階層のなかで、女性を国民たらしめる上で、手芸の果たした役割は大きかった。たとえば女子教育の場で、あるいは女性誌などのメディアを通じて手芸が奨励されるとき、好んで繰りひろげられた言説は、手芸が「婦徳の涵養」のためであるというものだ。フトクノカンヨウ、つまり婦人としての徳を育むことは、女性を良妻賢母たらしめ、日本国家の国民としての役割を果たすことにつながるというわけである。
 近代日本におけるこの手芸の奨励、それとともに手芸の概念が定まってゆく課程は、下田歌子が女子教育の場で展開した「手芸論」、宮中での皇后による「養蚕」の創出とそれにまつわるメディア上の言説、明治期に刊行された手芸テキストにあらわれるディスクールなどによって検証されてゆく。

 ところで、上記二番目の「皇后の養蚕」についてだが、明治の二十年代頃までは、まだ手芸の概念は明確ではなく、養蚕・製糸・紡績などの繊維に関する仕事をはじめ、古くから「女功・女紅」と呼ばれた女性による手仕事全般をも含んでいたのだという。
 宮中で古代よりなされていたとされる皇后による養蚕が「復興」されたのは明治四年のこと。これを報道する新聞記事が、皇后が公のメディアにあらわれた最初だったという。以来、新聞や女性雑誌で「皇后の養蚕」は繰りかえし報じられ、そこでは、国民すべての「母」たる皇后の婦徳が称賛され、権威づけられた。さらに、「皇后の養蚕」はさまざまな文脈において読みかえられ、それによって発せられるメッセージは、手仕事や育児、看護などを女性役割として規定することにつながった。そのため、近代国家形成期における表象システムのなかで、「養蚕」は「手芸」のなかでもとくに重要なものとされたのだ。

 そもそも「手芸」とは、ひろく手仕事やテクニックを意味する言葉でもある。これと似た意味をもつものに「技芸」があるが、「技芸」が「わざ・げい・たくみ」など、洗練された技術を意味するのにくらべて、「手芸」はたんに「手による芸・ものを作る芸」をさすものであるという。今日の「手芸」に通じる一連の行為は、明治期には「技芸」と呼ばれることもあったが、それが次第に廃れ、「手芸」に統一されてゆく。それは、明治期の「美術」の制度化にともなう「美術」や「工芸」概念の成立と無関係ではない。この点について著者は、一九九〇年代にさかんになされた、「美術の近代化」に関する諸研究についてふれたあと、こう述べる。

 これら諸研究を踏まえて、改めて「手芸」という語を見るならば、「美術」に近づく「工芸」とも、「工業」に寄与する「工芸」とも異なる場に位置づけられていることがわかる。端的にいうならば、「工芸」を吸収していく「美術」制度からも切り離され、そして工芸的要素を必要とした産業からも切り離され、二重の意味で社会の制度から疎外されていくのが「手芸」であった。この二重の疎外の意味を解く鍵となるのが、近代国家におけるジェンダー編成であり、女性と「手芸」を強固に結びつけるジェンダー象徴体系である。

 忙しい母親のために、我が子のための幼稚園バック作りを請けおってくれる業者もあれば、アクセサリーや小物などの手作り品を販売する女性によるネットショップも数限りない。布や糸などの素材を表現の手段とする女性美術作家もいれば、もはやあらゆる動機をこえてひたすら創作にはげむ母親の手作り品を「オカンアート」と称してこれを取り沙汰する感性もある。私が女性の労働と表現について考えようするとき、「手芸」ははずすことのできないトピックだ。これにまつわる種々の問題を、本書は明らかにし、示してくれた。
 あとがきで、本書のテーマと著者を結びつけたのは、「世界に二つとない」服を作って着せてくれた母と、「私の持ち物にいつも見事で愛らしい刺繍をほどこしてくれた祖母」であると著者は書き、こうしめくくっている。

 創造することの喜びを最も豊かに知っている母たちに、これが決して(手芸)批判の書ではなく、多くの女性たちの営みをみつめ直すものであることをわかってもらえることを心から願っている。

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