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2010年12月30日

『アップルパイ神話の時代―アメリカ モダンな主婦の誕生』原克(岩波書店)

アップルパイ神話の時代―アメリカ モダンな主婦の誕生 →bookwebで購入

 「アップルパイ神話」とは、二〇世紀前半のアメリカの主婦たちを「モダンな主婦」たらしめるためにメディアが作り上げた幻想である。本書は、その「モダンな主婦神話」の「巧妙な語り口」を読み解いてゆくことによって、「お袋の味」というイデオロギーとは何だったのかをあきらかにする。


 よく、アメリカ人の好きなものは「ママと星条旗とアップルパイ」といわれるように、「アップルパイ」は食品メーカーの広告にくりかえしとりあげられ、「お袋の味」の大定番としてアメリカの主婦たちに刷り込まれていった。そうしたメディアの言説のなかでは、「アップルパイ」が上手に作れることはモダンな主婦であることの最大の要件なのだった。だからたとえば、サクサクのパイ生地を焼けることうけあい、という「クリスコのショートニング」の広告は、これさえ使えば「ご主人も『イチコロ』まちがいなし」と謳う。


 本書によれば、「モダンな主婦」とは「できる女」と「かわいい女」の二本柱からなる。二〇世紀の初めまで、中流階級以上のアメリカの家庭では、料理をはじめとする家事はメイドの仕事だった。それが、1920年代の絶対移民制限法施行と世界恐慌によって、使用人を雇うことが困難になって家庭が増え、妻が家事を「代行」しなくてはならなくなったのだという。「モダンな主婦神話」のはじまりである。家事を上手にこなせる女、そして夫に愛される女、それこそが理想の主婦像。お袋の味を彷彿とさせるおいしいアップルパイが焼ける、すると夫は大喜び、それこそがあなたの幸せなのですよ! と、家庭雑誌をはじめとするメディアは、二〇世紀の米国の中流階級以上の白人女性たちをさまざまな語り口によって「刈り込んで」いった。


 そんな「語り口」の一例として、「ベティー・クロッカー女史」という料理の権威のテキストが紹介されている。記事は、家庭雑誌の老舗で『グッドハウスキーピング』の1934年9月号で、女史はそこで「男の心をつかむ料理」の理論化をはかっている、曰く「女性にとって問題なのは、ご主人の好みを知ることなのです」と。夫をよろこばすことのできる料理を上手に作ることができる、それこそ家事の成功の秘訣なのだと。また、こういう言説のなかでたびたび持ち出されるのは「愛情」。夫や子どもたちのためを思い、彼らの健康に留意し、かつおいしい料理を作ることこそが愛情のあかしであると。

 ところでこの「ベティー・クロッカー」、アメリカの食品ブランドの名前でもある。赤いスプーンのマークが目印で、水を混ぜるだけで簡単にマフィンやケーキができるケーキミックスが主力商品。その発売元であり、アメリカ最大の食品メーカー・ゼネラルミルズ社が生みだした販促のためのキャラクターが「ベティー・クロッカー」という架空の女性なのだ。


 「ベティ・クロッカー」の輸入元である食品商社「鈴商」のホームページには、ブランドの案内とともに、「ベティ・クロッカーの肖像画の変遷」というのが紹介されている。それによれば、1936年にオフィシャルポートレートが制作されて以来、今日まで七回肖像画がアップデートされているとのこと。本書には、彼女たちは代々、料理に悩む主婦たちの疑問や相談に答えるヴァーチャル・クッキング・アドバイザーとして活躍し、「そのカリスマ性と信頼性には想像を絶したものがあり、米国の主婦にとっては絶対的な存在だった。現在でもそれはつづいている。」とある。

「ベティー・クロッカー」のケーキミックスは、日本でも高級スーパー・マーケットや輸入食料品店で手に入るが、パッケージにあるケーキの出来上がり写真はみな、お世辞にも美味しそうとはいえない。しかし、種類も豊富で、同社の商品を使ったレシピ本がいろいろと出回っているところをみると、米国ではポピュラーなものらしい。料理の出来と愛情の相関関係などもはや誰も信じまいと思いきや、水をまぜるだけというお手軽レシピでも、手作りでさえあれば愛がこもっているのだとという「神話」はいまだ有効なのかもしれない。


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