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2009年09月27日

『名残りの東京』片岡義男(東京キララ社)

名残りの東京 →bookwebで購入

 電信柱から縦横にのびる電線、そのむこうにそびえるビルと青空。ささくれた羽目板やペンキの剥げた雨どい。荒物屋の店先に吊された亀の子だわしとほうき。日にやけて痛みきった均一台の中央公論社『世界の文学』。埃を被った商店の日よけや文字の欠けた看板。色褪せた愛国党の貼り紙。にぎり寿司やオムライスの食品サンプル。手書きのメニュー。夕暮れの商店街にともる提灯。
 東京は細部にあふれかえった街だ。たくさんの人たちの生活、たくさんのものや情報やお金の流れによって積み重なったこうした細部を、片岡義男は被写体としてえらんだ。それらは、かつてはくらしのなかで生き生きと機能し、あるものはその役目を終えて放置され、やがて消えてゆく。
 僕が撮影した景色のおよそ半分はすでに消え去って跡かたなく、したがってそれらの景色は写真のなかにしかなく、かろうじて現存する景色も、じつは消えていく東京の名残りなのだ。

 二週間も東京をあけて戻ってくると、いつもの通りにあった店がつぶされているなんてことはザラだと、東京の友人は言う。
 大々的な開発によって、それまであった街並みが跡形もなく失せ、あらたな建造物が出現する。そんな、名残りもへちまもない都市の変貌には、東京に生きる人は慣れっこだろうが、ちいさな泡のつぶがひとつずつ、ぽつりぽつりとはじけるようにして姿を消す細部についてはどうか。

 子供のころから写真に親しんでいた片岡が、九十年代に入ってつぎつぎと写真集を、それも東京をテーマとしたものをだすようになったきっかけは雑誌『太陽』の連載だという。彼の仕事は日本の各地をめぐり、その土地についてのエッセイを書くこと。写真は別の写真家にまかせられたが、自身も必ず愛用の一眼レフをたずさえて取材にでかけたという(これはのちに『緑の瞳とズーム・レンズ』という単行本となる)。そこで彼が撮ったのは「地方都市で蓄積されてゆく日常生活がその周辺にはからずも生み出す、どこか諧謔味のある風景」だというが、その視線は対象が東京となってもかわらない。というより、東京ほど、日常生活とその周辺に蓄積されたあれこれに事欠かない街はないのだ。
 片岡が撮るのは、人びとの日常のまなざしのなかで、とくに意識もされず、しかし記憶のどこかには確実にとどまる景色ばかりだ。ただ素通りされたり、ちいさな目印にされたり、どうしてだか目がいってしまったりするさまざまな細部だ。

 好きだから、面白いから、という理由だけで撮り続けてきたのだが、二十年近い時間が経過すると、撮った景色もこれから撮るであろう景色も、すべては名残りの東京となる。消えたならそこにはいっさいなにもない。したがって消える以前は、すべてがそこにあった。単なるリアリティではなく、具象も抽象もすべてひっくるめた全体が、現実のさなかで人々の生活として機能していた。そのような景色のいたるところに、はからずもあらわれる全体性が、僕の興味をとらえてやまない。名残りの東京のなかで、僕はさらに撮るだろう。

 「これから撮るであろう景色も、すべては名残りの東京」とは、過去と未来のどちらに向かって投げかけられたことばだろうか。
 久しぶりに、ただ歩くためだけに東京の街を歩いた。私のような外の者にとって東京は、あまりに人と情報とマテリアルが多すぎてときに息が詰まる。そんなときに、片岡の捉えたような「名残り」というべきものに目をやれば、かつて自分の見知った東京に思い当たってすこしだけ慰められる。そうした細部の集積のむこうにあらわれる、そんな東京を私は長らく忘れていた。
 それが、片岡の興味をとらえてやまない「はからずもあらわれる全体性」なのだろう。誰にでもそれとわかる東京ではなく、その名残りを彼が追いかけつづけるのはそのためなのだ。


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2009年09月21日

『たのしい写真 よい子のための写真教室』ホンマタカシ(平凡社)

たのしい写真 よい子のための写真教室 →bookwebで購入

 思い出をかたちに、というふれこみで写真を一冊の本のかたちに編集するという商品の、フィルム会社のテレビコマーシャルを眺めていて、思い浮かぶのは生まれたての自分のまるはだかが写された一枚からはじまる、父親の編集による分厚く重たいアルバムなのだったが、ここでかたちにする、といわれているのは、ついデータばかりがたまってしまうデジカメ写真のことなのだった。フィルムのカメラを手にしなくなってからというもの、かたちのある写真というものが私の生活に登場することはめっきり減った。そのことを、ここ数年、ときたま思い出しては、「写真」というものに対する我が身の処しかたを定めかねている。「写真」ってなんだろう。

 かつて、海外旅行先で立ちよったギャラリーでみた写真が忘れられない。その忘れられなさは、印画紙に定着された海辺の景色の像と、写真の展示されたギャラリーという場も含んだ外国の街、そしてそこを旅する私と私をとりまく世界、のどこに由来するのだろうと考える。もしもこれが、写真でなく絵画だったとしたら、それは作品そのものから得た、たとえば「感動」なんてものにすんなりと落ち着きそうなのだが。
 芸術としての写真は、そのほかの技法による芸術作品と同様「つくられたもの」と知ってはいても、写真を写真そのものとして眺められないことがあるのはどうしたわけか。写真が現にみえるものを写し、その時点でつねに虚構性をおびるとは百も承知で、その現実と虚構のあいだで右往左往している自分がいる。私がみたのは、そこに写された、どこかにあるはずの海辺の景色か、それともそこに表現された作品のなんたるかなのか、それともそれとも。

 そんな写真に対するもやもやとした思いを、ホンマタカシは手際よく整理してくれた。なんだか本当に「よい子」になった気分だ。

「そんなの写真じゃないよ」とか「もっとリアルに撮らなきゃダメだよ」という言い方をよく耳にします。それを聞くたびに、そもそも「写真って何だろう?」「写真のリアルって?」という疑問に駆られます。プロと呼ばれる写真家になって20年も経つのに、その疑問はつねにボクにとって、ある種の息苦しさをともない続けています。

 原因のひとつは、〈真を写す〉というスゴく強い言葉のせいだと思います。そもそもPhotographという単語の語源に「真実」という意味は含まれていません。

 photo=光 graph=描く、あるいは画

 ですから、普通に訳せば「光画」ぐらいの訳語が妥当でしょう。

 「写真」ということばは、もともと中国の画論で「写実」と同様の意味を持つらしい。そういえばそんなことをどこかで聞いたか読んだかしたはずなのだがすっかり忘れていた。それはやはり、ホンマのいうように「〈真を写す〉というスゴく強い言葉のせい」かもしれない。あらためて認識せずとも、長らくPhotographを「写真」と呼び慣わしてきた私たちは、みたままそのままにものを写しとる(決してそんなことはないのであるが)のが写真、とやはりどこかで思いこんでいる。西欧において、写真が絵画技法の一端として発明されてきたのに対し、それを採りいれた日本人にとっては、光の仕業を利用した技術に対してよりも、みたままそのままの像への視覚的な驚きがまさっていたためではないか。

 写真は現実をとらえたものである。しかし、それは同時に、誰かに意図的に選び撮られたものであり、編集され、加工されたものかもしれない。現実であると同時にいくらでも加工可能であるという、この二重性が写真の特徴です。いや、もっとはっきりいえば、「どうとでもなり得る」という多重性こそが、写真の本質なのです。ヴァルター・ベンヤミンと言う「本物にたどり着かない芸術」。そこで写真の一番面白いところなんです。

 「決定的瞬間」と「ニューカラー」の対比から説かれるホンマ流・写真史にはじまり、エルグストンや中平卓馬等、著者の写真観を裏付ける作家に触れながら、二十世紀からこんにちまで、写真のたどったみちすじが語られる「講義篇」。
 「写真を読む」「写真を疑う」「写真に委ねる」をテーマに、写真の一回性、本当らしさ、技術の進歩による撮影表現の可能性に意識を注いで撮ってみよう!という「ワークショップ篇」。
 たのしいのは「放課後篇」。ポストカードの「絵はがきショット」、アシスタントとしてはじめて行ったニューヨーク、ロバート・フランク、ポラロイド写真のセンチメンタリズム。著者が写真家として語るべきトピックスは今日的かつ普遍的で、これまで、私たちにとって写真がいかなるものであったのか、そしてこの先、私たちにとって写真がいかなる存在となってゆくのかを意識せずにはいられないテキストの集合である。
 おしまいの「放課後篇」は作家の堀江敏幸との対談。題して「すべての創作は虚構である?」。

 もし仮に真実と嘘があるとしたら、写真はそのどちらにもなり得るもの、あるいはそのふたつの間を行ったり来たりするものです。ある時はファインアート、ある時は雑誌のグラビア、ある時は広告、またある時はプリクラだったり、ファミレスのメニューだったり。実際、写真はボクたちのまわりの至るところに存在します。自由に、多義的に、いかがわしく。だからこそ今日的。それが写真のたのしさだとボクは思うのです。

 写真を撮る、写真をみる。そのこと自体はまごうことなき現実。写真が写真となったとき、それをまなざす私たちは、写真というものの虚構性と現実とのあいだのグラデーションを、自らの世界観に照らして「行ったり来たり」するということなのだろう。
 そしてこれは蛇足だけれど、この写真家の写真論も、かたちある一冊の書物となることで、現実としても、あるいは虚構としても読まれてゆく可能性を孕む魅力を備えていると思う。というくらい、ホンマタカシは書き手としてもチャーミング。


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2009年09月05日

『手紙が語る戦争』女性の日記から学ぶ会・編 島利栄子・観衆(みずのわ出版)

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 オトウサンオゲンキデイラッシャイマスカ。私モゲンキデマイニチガッコウヘカヨッテイマス。オトウサン私ハオトウサンガハヤクコナイカとオモッテイマス。オトウサンガクレバ私ハオモシロイノデスモノ。オトウサンハヤクメンカイニキテクダサイネ。オトウサンガメンカイニキテクレル日ヲマッテマスヨ。デハサヨウナラ。オトウサン。

 昭和二十年、疎開先から東京の父へ宛てた八歳の娘の手紙。

 前橋の伸子さん、お便りありがとう御座いました。二月二十五日に着きました。伸子さんにはお元気でお勉強なされていらるる事と、はるか中支の戦場よりお察しいたします。また伸子さんの組は、学校でも一番戦地からのお便りがあるそうですね。皆さんの姿が目に映ります。今日は二月二十六日です。中支はとても良いお天気です。もうナの花やタンポポが咲いています。麦畑も青々しています。日中は暖かいです。小春日和みたいです。でも夜になると、又寒くなります。

 昭和十五年、戦地の兵士が小学六年生の少女へ書いた手紙。少女は小学校、女学校を通じて、見ず知らずの兵士にたくさんの慰問文を書き送っている。

 あるいは昭和二十年、戦地の兵士が家族に宛てた葉書。およそ十三センチ×九センチ四方の紙の上に、一ミリ大の文字千二百字がひしめく。

 過日は懐かしの御音信有り難く拝見致しました。御家内御一統様には益々御壮健の由何よりであります。御陰様を持ちまして自己も益々元気いっぱい軍務に服しています故、何卒他事乍ら御休心下され度。さて故郷も決戦下年末に於いて実に御多忙な御事と存じます。それに寒さも大変厳しき御事と存じ、子供達も大変でありましょう。

 挨拶と、戦地での自らの近況の報告のあとには、家族ひとりひとりへの呼びかけが続く。たとえば小さな妹にはこんなふうに。

 ……京ちゃんよ、今夜は仲よくして兄ちゃんと話そうか。それと、いや、あれどうして。いやは……顔が見えないからさ。そうか、それもそうか。いや京ちゃん。いや京ちゃんには負けたね。ね、兄ちゃんのお願いだよ。父さんと仲よくね。

 この葉書から半年後、書き手の兵士はフィリピン北部で戦死した。

 本書に収録された書簡はすべて、「女性の日記から学ぶ会」の創立十二周年を記念して開催された展覧会で展示されたものである。
 戦地の父から息子へ、妻から戦地の夫へ、疎開先から両親へ、軍需工場でひそかに交わされた恋文、遺書となった家族への手紙や葉書。それらが、提供者や会の会員によって読み解かれ、紹介されている。

 「女性の日記から学ぶ会」は平成八年創設。聞き書き家の島利栄子氏が中心となり、「現存する日記等の情報を集め、保存し、活用しながら次代に伝えるべき女性文化の有り様を探りたい」と、日記や家計簿、手紙などを収集し、読み解きや研究発表、会報の発行、展覧会やイベントの開催等の活動を行っている。
 きっかけは、島氏が聞き書き家として取材をするなかで、お年寄りから日記・家計簿・手紙の処分についての相談を受けるようになったことだった。自らも、小学校のころから日記をつけつづけている島氏は、その史料性を痛感し、日記その他の提供を募ることから会がスタートした。

 感激屋の私は、人の話をすぐ信じ、裏も取らずに書くために大きな失敗を幾つもしてきました。人は過去を自分に都合よいように美化しがちだし、またその後に見聞きしたことを自分の体験のように勘違いすることもあります。思い出、記憶とは意外と脆弱なものなのですね。もしその時に実際書いた日記や手紙などが出てくれば、それ以上の証拠はないので、その証言は信頼の高いものになるわけです。

 島氏が女性の日記から学ぼうとしているのは歴史だが、女性の書こうとする欲求、書く力を追ってゆきたい私は、書かれたものが、書かれた時点で孕む事実とはべつのなにかへと興味がはしる。戦争という非常時下だからこそ、という特殊性よりは、そのようななかでも変わることのない人の表現とは何なのだろうか。

 本書に取り上げられている「松崎宗子日記」は、「女性の日記から学ぶ会」創立当初に提供されたもので、島氏の著書『日記拝見!』(博文館新社、平成十四)にも紹介されている。
 長野の農家の主婦松崎宗子さん(大正五~平成十三)は、昭和十八年から亡くなるまで日記をつけつづけた。本書ではその初期のものと、戦時中に戦地の夫に送りつづけた葉書の一部が紹介されている(紹介者は「女性の日記から学ぶ会」会員の片岡良美氏)。

 拝啓。貴方には相変わらず御元気でせうか。私達も元気です。蚕は只今四眠五眠目にはいりました。もうわずかです。満州も毎日暑いことでせうね。お庭のあんずも赤く成り稚枝ちゃんが大喜びです。では又御便りいたします。何卒御身御大切にね。サヨーナラ。

 昭和十七年に召集された夫への葉書はあわせて三百九通にのぼる。そのほとんどが昭和十八年と十九年に書かれたものであるのは、戦況の悪化のともない音信がとだえたためで、送ったはずの葉書がまとめて返送されることもあった。彼女の日記は簡単なメモ程度のものだが、この当時、夫へ葉書を出したこと、またその返事のあったことが記述の大半を占めており、葉書のやりとりの出来なくなってからは、戦地の夫をひたすら案じている。
 戦地の夫へ葉書を書くこと、さらに、そのやりとりを日記に記録するという二重の「書くこと」。それによって、彼女は、夫への愛情と夫不在の銃後の生活の重みに押し潰されることなく堪えた。その表現のかたちは、史実よりもいっそう、戦争という非常時のいかなるものかを、わたしたちに語りかけてくる。


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