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2009年08月17日

『草かざり』かわしまよう子(ポプラ社)

草かざり →bookwebで購入

 使いおわったマヨネーズの容器を洗うとき思い出すのは、ほんの子どもの頃、夏、近所の友達の家の庭にひろげたビニールプールでの水遊びだ。うす黄色い中身の詰まっているときにはわからない、ぺかぺかとしたプラスチックの質感。その中にいっぱいに入れた水をお互いにひっかけあうのである。
 「半透明の透け具合を大切にしたかったので、イヌホオズキはあえて浅く飾りました。」  とは、本書の袖にあったカバー写真の説明。そうそう、この半透明の感じは、マヨネーズの容器でしかお目にかかれないものなのだ。

 いけばなの写真とエッセイで構成された本書。ふつうなら、ポイと捨てられてしまいそうな器にいけられた、野に咲く草花たちの写真がつづく。ミニトマトのパックにアレチノギクが、ウーロン茶のペットボトルにミズヒキが、魚のかたちをした醤油入れシロツメクサが、ヨーグルトの容器にはドクダミが。
 吹けば飛んでしまいそうな器と野の草との組み合わせは一見はかなげ。しかし、道ばたなどで摘んだ雑草は意外と強いもので、栄養たっぷりに育てられ隆々としてみえる花屋の花より、よほど日持ちがする。そのねばり強い生命力を思うと、花器とされている小さなプラスチック容器も、なかなかにしぶとい存在なのだと気がつく。
 分別され、リサイクルされるこのものたちだが、そのへんに打ち捨てられたのなら、自然に還ることもなくいつまでもその姿を晒しつづける。本書に連なる容器と草花との出会いはこんなに可愛らしいのに、これらの写真を眺めていると、頭のすみに浮かんでくるのは、河原や道ばたの草むらにポイ捨てにされた空き缶やペットボトルの、ひしゃげて、周囲の雑草に埋まっている姿なのだ。

捨てられそうなものの価値観をリメイクするのはおもしろい

 子どものころ読んだ本で、ひまわりの花をサイダーのあきびんにいけるというシーンがあり、話の筋はまったくおぼえていないのだが、そこだけは忘れられずにいる。そして、そのとりあわせから、真夏の暑い暑い午後のイメージが連想され、つづいてあらわれるのは戦争である。焼け野原で、人が一杯の水を飲むのに使ったのは、変形したあきびんや、潰れかかった何かの容器だったろうと、本書の頁をめくっていたら、そんなことを思った。
 ものを、本来の用途とはちがう使い方をすること。私たちは、そうせざるを得ない状況からはずいぶん遠いところにいる。価値観のリメイクは、リサイクルやリユースよりも難しそうだ。それを肝に銘じつつ、捨てられてしまいそうなものに、私もひとつ、野に咲く草花をいけてみようと思った。


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2009年08月04日

『ニューズウィーク日本版ペーパーバックス アメリカ人 異人・変人・奇人』ニューズウィーク日本版編集部【編】(阪急コミュニケーションズ)

ニューズウィーク日本版ペーパーバックス   アメリカ人 異人・変人・奇人 →bookwebで購入

 『ニューズウィーク』誌の投稿記事のアンソロジー。1972年より続く「My Turn」なるこのコーナーは、「オープンな編集方針を掲げるニューズウィークのシンボル的なページ」なのだそうで、まるまる一頁を割いた誌面には投稿者の写真が入り、そこで、さまざまなアメリカ市民たちがその人生や、主張や、体験を語るというもの。

 9・11以降、イスラム教徒への風当たりが強くなろうとも、「宗教的シンボル」であるターバンにこだわり、かつこれをネタにして笑いをとろうとするシーク教徒の芸人。物心ついた頃から、両親が次々と虐待を受けた乳幼児の里親になりつづけ、これまで二百五十人におよぶの傷ついた「弟」や「妹」たちを見てきたという女の子。内戦の続く故郷の村から逃げ出し、たったひとりで難民キャンプを点々として育ち、長じて渡米した当初は電灯のつけ方すらわからず、平和なアメリカ社会に適応するまでの苦しみを語るスーダン出身の男性。  

 こうした話はいかにもアメリカ的。だが、「ぜんぶ一般人の話だけれど、ぜんぶ本当の話。でも、このリアルな『自分語り』を読めば、たくさんの知らなかったアメリカが見えてくるはず。」と「はじめに」にあるように、そのほかの、日本にだって転がっていそうなエピソードも、みなそこそこにアメリカ的、というよりも「アメリカ」というものを読まされている、という気分に。

 最近は中国もそうだが、「アメリカを知る」ための本のなんと多いこと。本書は、ニューズウィーク日本語版の編集部の手によるものだから、そこには日本人の期待するアメリカ的なるものが反映されているのだろうが、たとえばその愚かぶりをあげつらわれようとも、アメリカはやはり、世界の人びとに知られることを望んでいる国なのかもしれない。

 ところでどれを読んでも一様に漂うこの「アメリカらしさ」は、ひとつには、その文体のせいだろう。このコーナーがよくある新聞雑誌の投稿欄とちがうのは、「編集者が厳密に事実をチェックし、実在する人物かどうかを調べ、素人レベルを超える文章に仕上げている点」なのだそうだからしかたないのだが、ポール・オースターがラジオ番組での朗読のために募った一般の人びとによる物語を集めた『ナショナル・ストーリー・プロジェクト』(新潮文庫)のとりとめのなさや、まちまちの文体とくらべると、どうしても「規格どおり」の感は否めない。

 その規格にのせて、「一般の報道では取り上げられない」、また、世界中の人たちにもすぐに理解可能なハリウッド映画の登場人物ほど単純でもない、市井のアメリカ人たちが繰りひろげる「自分語り」の集積は、いかにも期待されたアメリカの「実像」という感じがする。
 でも、こんなふうに、四百字詰め原稿用紙十枚程度にこれまでの自分の人生をまとめたら、意外とさばさばした気分になって前向きになれそう。人生の、本当に複雑で面倒な部分なんてそうそう人様に理解されるものでもないのだし。

 しかし、未解決のまま放置され、半分は忘れ去られている問題の残滓やら、思い出したように頭をもたげる保留状態の案件やらといった、人生におけるさまざまな、もやもややうやむやを、なかったことにしてしまうよりは、邪魔にならない程度に身辺に漂わせていたほうがまだ健康的、という気はする。文学というのは、そういううやむやのなかで、人がすこしでも呼吸しやすくなるためにあるものなのかもしれないと、この「規格」にのっとった「自分語り」の羅列を見ていると思う。


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