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2009年07月30日

『猫毛フェルトの本』蔦谷香理(飛鳥新社)

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 よく、切った爪を捨てずに保存する性癖の持ち主がいるが、あれはいったいどういう心理に基づいているのだろう。切られた爪は自分の一部、それをゴミと一緒に葬り去るのは忍びない、という強烈な自己愛のせいなのか、それとも、たんぱく質というものへのこだわり(なんとなく、栄養もありそうだし、いつか何かの役にたちそう)という貧乏性ゆえなのか。
 私は自分の爪も皮も垢も、さっさと見えなところへ流してしまいたい質だが、わが飼い猫に関しては別で、抜けたひげや乳歯を大事に大事に保存している。さらに最近、ブラッシングして抜けた毛を、紙袋にためていったら、たいへんな量になってしまい、捨てるのが惜しくなり、以前、犬の毛で毛糸を紡いでビキニを作っていた女性、というのをテレビで観たことを思い出し、だったら猫の毛でも、とフェルトを作ってみた。

 ふつう猫は自分で毛繕いをする。するとしぜん、自分の毛を大量に飲み込み、ヘア・ボールという毛玉が胃の中に作られ、これを定期的に吐き出す。わが猫もそれをするが、さっき食べたばかりのえさと胃液にまじって、吐き出されたヘア・ボールはちょうど人の親指ほどの大きさ。さわってみると、たくさんの毛が密に絡まって固く、ちょっと、使用前のタンポンのようなので、猫の毛でもきっとフェルトができる、と確信。
 猫毛は外毛と中毛の二層をなしており、フェルトにするには、真っすぐで固い外の毛はあまり適さないのだが、それでもちゃんとフェルトはできた。私はすっかりはまってしまい、ためた猫毛を取り憑かれたようにフェルトにしては壁に貼りつけて悦に入っていたのであった。
 そのふわふわのフェルトに顔をすりすりとこすりつけると、猫のお腹に顔をうずめている時とおなじ安心感が得られるので、これで御守りなど作ってもよいかも、などと思いつつそこまでまめな作業もできずにいた。
 ところで、猫毛でフェルト作り、ってちょっと人には言いづらい趣味、いえ、趣味というより私にとってはほとんど癒しの儀式、みたいになっているのでなおさら言いづらい、でも言いたい、と勇気を出して手芸の大好きな友人にそっと打ち明けてみたら、やはり微妙な表情をされてしまった。なぜ? 羊の毛も猫の毛もおなじ動物の毛ではないですか! 

 そんな私に福音をもたらす画期的な本がこの『猫毛フェルトの本』である。
 本書の著者もやはり、大量に抜ける猫の毛を前に、これでフェルトが作れそう、と思いたったのだとか。メインは猫型の指人形。段ボールで作った型に猫毛を絡ませかたちを作り、そこにビーズの目や、刺繍糸の首輪をつけて出来上がり、というもの。手袋やマフラーにつけるアップリケなども紹介されている。そのほか、猫の抜け毛と健康についてなどのコラムや、猫毛フェルトはゴミの減量化に一役買うかも、といった環境への配慮も。また、著者の飼い猫のほか、本書に掲載された猫毛手芸の材料を提供してくれた数匹の猫たちが写真入りで紹介されている。それによると、ブラッシングしてでた猫の抜け毛を捨てずにためている飼い主が結構いることが判明。またも、私だけじゃなくてよかった、と胸をなで下ろしたのだが、これって猫好きの間ではふつうのことなのだろうか。ともかく、あまたの猫ブログ、はたまた写真集のみならず、手作りの猫ごはんのレシピ本とか、猫グッズカタログとか、猫毛手芸とか、まったく目が離せない猫本の世界なのであった。


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2009年07月29日

『TOKYO一坪遺産』坂口恭平(春秋社)

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 はじめてパリに行ったとき、その街並み、建築はもちろんだが、ああ、西洋だなあ、としみじみ感じたのは、建設現場のありようを見たときだった。ちょうどルーヴル美術館が「グラン・ルーヴル・プロジェ」、ミッテラン政権下の大再開発の真っ最中だったのだ。館の入り口に辿りつくまでに、改築現場脇の殺伐とした通りを長々と歩かなくてはならなかったのだが、その広大さと、仕事をしているのかいないのか、なんだかやけにのんびりしているようにみえる現場の人たちの様子をみて、ここでは百年も二百年も先までもつ建築物を造ろうとしているのだなあ、年中、壊したり建てたりをくりかえてしている日本の都市の建設現場とはずいぶん趣がちがう、と妙に感心した。その直後の日本では、メセナという言葉がやたらと飛び交い、美術館がうようよと建った。あのバブル期の建設ラッシュ、今はさすがにおさまった感があるが、それでも新しい美術館は今なお建てられているし、街に普請中のシートが途絶えることはない。

 建築家になろうとして、建築を勉強したのに、「大規模な現代建築を設計する建築家に疑問をも」ってしまったという著者。

 空間の大きさと心地よさは比例しないと僕は思う。欠如を実感し、それを補うためのあたらしい視点というものが生まれるのであれば、たとえどんなに狭いところだろうがそこで楽しむことができる。人間は本来それができる生物なのではないか。  これから必要なのは、広い空間、巨大な建築ではなく、広く、壮大に感じることのできる感覚と、そして小さな建築である。

 そう書く彼の原体験というべきものは、子供の頃、兄弟三人と使っていた六畳一間の、自分の机とその周辺のわずかな空間を、いかに快適で、プライバシーを守れる場所にするか、という子供時代の工夫である。
 彼はまず、机と椅子の背に画板を渡し毛布を被せ、下には布団を敷いた。なかには電気スタンドを入れ、そうして机の下にもぐり込み、椅子の座面をテーブル代わりにマンガを読んだりごはんを食べたりしていたのだとか。
 宇宙船のコックピットにいるみたいにわくわくできたその「机の家」のことをずっと忘れずにいた彼は、新しく建てることによって空間を生みだすことよりも、もともとある空間を捉え直し、工夫することで、新たな空間を作りだす方法をとろうと決める。

 そうした視点から、東京の街を歩き回り採集したのが「一坪遺産」である。たとえば、ジャッキで上部がのびる仕掛けの宝くじ売り場の小屋。東京駅の靴磨きのおじさんの仕事場。隅田川沿いの0円ハウス。自宅玄関周辺はおろか、そこに駐車している自家用車の上にまで植物の鉢を溢れさせ、通りを行く人の目を楽しませている、おそるべき「緑のゆび」を持つ夫婦。フリーマーケットのはしっこで、ホームレスの人たちが出している、ブルーシートの上の無意識芸術のような物品の羅列。
 それだけでなく、豆本やミニチュア作りにその人生を捧げる人。あるいは、色川武大『狂人日記』で幼少期の主人公が繰りひろげるカード式紙相撲の、精密かつリアルな世界観。子供のころ、ドラクエⅢのコンセプトをそのまま大学ノートに移しかえた「ペーパーファミコン」で遊んでいたという著者はこれにいたく感じ入る。

 僕にとって、本というのは、知識を得るためのものというよりも、むしろ旅行に近い。古本屋の本棚を見ている時、小さく圧縮された無数の空間が陳列しているように感じてしまう。僕たちは何も遠くに飛行機に乗って出掛けなくても、紙の上の文字さえあれば、無限の空間を手にできるのではないか。

 こうして、著者の空間の見直しと発見は外の世界にとどまらず、脳内にまでおよぶ。どうやら、この人の創造力、あるいは想像力には、空間の把握とその使われかたの工夫がいつでもついてまわるのらしい。
 小学生時代の思いつきと工夫の精神を、長じてのちも採用しつづけることによって生まれた本書は、ヒトの創造や表現や仕事についての再検討を促すたいへんに二十一世紀的な一冊なのだと思う。


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