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2009年05月31日

『のりたまと煙突』星野博美(文春文庫)

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 写真家であり作家でもある著者の日常を綴ったエッセイ集。
 「のりたま」とはふりかけにあらず、「のり」と「たま」、二匹の猫の名で、著者の両親の家で飼われており、そこにいたるまでの長い顛末には、星野博美という人のパーソナリティーがたいへんによくあらわれている。信念と実行、そして省察の人。本書から受けた彼女の印象はこうだ。

 『のりたまと煙突』という、心なごむタイトルと、表紙を飾る白猫の写真に惹かれて手にとったはいいが、読みはじめると、熟考に値する案件が山盛りに盛り込まれていて、猫にまつわる本には無条件に反応、猫部分に目が眩んでまったく冷静な判断を下せない私にとって、とてもよい薬であった。

 ある日、散歩をする著者は、隣の市の、日常は使うことのない路線の駅へと向かう。
 都市部周辺に住まい、鉄道の路線図が脳内の地図の基盤となっている人によくあることだが、たとえ家から徒歩圏内にあっても、いつも使う沿線の最寄り駅以外には意識がいかないものである(著者いわく、この「鉄道アイデンティティー」は鉄道各社の料金体系が深く関わっているらしい)。
 その段で著者も、中央線と平行して走る西武新宿線を、自分とはまったく接点がなく、散歩で足をのばした東伏見駅も、はじめて行く場所だと思いこんでいた。ところが、駅前にそびえる東伏見稲荷の鳥居や、咲き乱れる彼岸花をみるにつけ、ある記憶が呼び覚まされた。自分は一度ここへきたことがあった、若くして亡くなった友人が住んでいた場所だと。

 あるいは、近所にある大きな公園。市民の憩いの場であるその広々とした芝生に身を横たえて、いつものように空を眺める著者はふいに違和感をおぼえる。ここは以前、どんな場所だったのだろう。わかったのは、その公園がかつて米軍住宅で、そのまえは中島飛行機の製作所であったこと。さらに、いつも好んで通る遊歩道が、製作所が機能していた当時、ゼロ戦を運びだすための引き込み線の跡だったこと。さらにさらに、母校の国際基督教大学が、中島飛行機の研究所の跡に建てられたのだということ。

 現在見ている風景とは一体何ものなのだろう。それは嘘ではないのだが、丸々真実でもない。あるものは見え、ないものは見えない。まったく当然のことなのだが、そこに大きな落とし穴がある。
 そこにないものは、なかなか見えないのだ。

 住まいにほどちかい通りの電柱にとだえることのない手向け花。いそいでいるとき人身事故で止まる中央線。隣の寺からいつも聞こえてくるお経と鉦の音。亡き祖父や親戚たちの思い出。
 失われたものに目を凝らそうとする著者の日常にしばしばあらわれれる死の痕跡。それは身近な存在のものとはかぎらない。見知らぬ隣人、自分という存在の背後にいる数え切れない祖先たち、かつての戦争で失われた、あるいはいま世界のどこかで戦争によって失われてゆく命。著者の視線の幅広さと奥深さ。

 目に見えるものを追うこと、何かを獲得することにだけ懸命でいられるのは、若い証拠だろうか。歳を問わず失うことへの恐れは誰にでもあるが、「私の何か」だけでない、失われしもの、失われゆくものに思いを馳せるには、ある程度の時間を生きる必要があるだろう……なにやら老いた心境になるが、それも悪くないと思えるのは、失われたものや死の影の色濃いこの本が、星野博美という人の、とてもたしかな生の痕跡となっているためだ。

 長年共に暮らし、著者が猫好きとなるきっかけになった「しろ」、実家に預けた「たま」、大切な二匹の猫も逝く。それをきっかけに、猫の墓に花をよく供えるようになった著者の視界に、それまでは素通りしていた花屋と花が飛び込んでくる。これまでなかった、花のある生活を得た彼女は、猫の墓をまえに思う。

 猫に死後の世界があるとしたら、それは猫だけの世界なのだろうか? それともまた人間と一緒なのだろうか?……
 死んだら、しろやたまと会えるのか? ただそれが知りたいだけなのに、あれこれと考えているうちに、私にはますます宗教というものがわからなくなった。猫が死後どこへ行くのかを示せない宗教なんて信じない。と悪態をつきながら、私は猫の墓に線香を立てる。

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2009年05月27日

『ボロを着た王子様』村崎太郎(ポプラ社)

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 「そら、お前は部落に生まれたからどうせダメだって人は言うかもしれんが、そんなことはない。部落に生まれようが、部落でなく生まれようが、一生懸命やらん奴の人生はつまらんのじゃ。お前のようになんもせんで腐っている奴は、お父ちゃんとお母ちゃんもがっかりするし、誰もお前を認めない。だけど、これはお前の人生じゃから、お父ちゃんは何もこうせいとは言わん。じゃが太郎、人生はおもしろいぞ。人生は素敵やぞ……」

 学校へ通いはじめて、自分がクラスのみんなと同じでないことを知り、まわりの大人たちからは、「お前は、こっち側の子どもやから、どうやっても同じや。いくら頑張っても、向こう側の人間にはなれん」と言われる。物心ついてあとの太郎少年は、親の忠告に思わずこう口答えをする小学生になってしまった、「頑張って何があるん?」。
 そこへきてさきの父親のセリフである。本書のなかでかたちを変えて何度か出てくるところをみると、少年はこのシビアだが愛のある言葉を幾度となく聞かされて育ったのだろう。  大学受験をひかえた著者が、猿まわし芸人になろうと決意するのも、この父親の言葉がきっかけとなった。
 「これは冒険であり賭けじゃ。下手をすると目指す新世界が創造できないで、一生が台無しになる可能性があるじゃろう。だから誰もやろうとしない。じゃが、お前は挑戦しろ、万が一の好運を手中にするために、ためらうとなく踏み込め。男は戦うために生まれてきたんじゃぞ。だからロマンのない人生を生きることは無駄じゃ。結果を思いわずらわずロマンに生きろ」

 十七歳で芸人となり、二十歳で郷里の山口から東京へ。銀座の歩行者天国でいきなり猿まわしをはじめて警察沙汰となるが、これを無理を承知でやれと命じたのも父親だった。
 騒がれたことが逆に功を奏して、テレビに取材されたのをきっかけに、猿まわし芸人村崎太郎・次郎は一躍人気者となる。1991年には文化庁芸術祭賞を受賞。このときの新聞記事のコピーを、私はなぜか保存していたのでみてみると、

 大道芸の原点忘れず 村崎さん
 「賞は、次郎にいただけたものと思っております。でも、戸籍もなにもない方ですので、相棒の私に」。芸術祭賞に、猿まわし芸の村崎太郎さん(三〇)が選ばれた。相棒の次郎は京都・嵐山育ちのサル六歳。「周防猿まわしの会」(山口県光市)の看板コンビだ。
 千年の歴史がありながら一度は滅びた大道芸を、亡き父義正さんが十四年前に復活させた。その志を継いで路上に飛び出し、三年前から舞台に上がった。伝統に創意を加えた「スーパー猿芸」と銘打っている。…… (『朝日新聞』1991/12/3)

 読みかえしてみて、思い当たることがあった。そこでつぎに取り出してきたのは小沢昭一が全国をまわって採集した音源による「ドキュメント日本の放浪芸」(ビクター)。たしかこの中に猿まわしの芸が収録されていたはず……みると、七枚組CDの七枚目、「流す芸 漂泊の芸能」のなかの「猿まわし探訪」は昭和四十六年、山口での取材である。ブックレットには、その前年に「市社会教育課の紹介で、市会議員村崎義正さんを訪問。猿まわしその他のレクチァーを受ける。」とあった。著者の父親の紹介で、この取材は行われていたのだ。

 奈良時代からつづいた猿まわしは、明治以降しだいに廃り、江戸・紀州・周防の三カ所に残されたという。小沢昭一が取材をした頃、猿まわしはわずかに和歌山と山口に残っているといわれていたそうだが、和歌山のほうではすでにあとかたもなくなっており、山口での録音となった。
 そこでは、ふたりの元・猿まわし芸人が、その口上や節回しを思い出しつつ口ずさみ語り合っている。この当時著者は十歳だから、彼がまだ子どもの頃には、かつて猿まわしを仕事としていた人は周囲にいたのだ。父・義正氏は彼らがいなくなってしまう前に、この芸を後世に伝えなくてはとの思いを強くしたのだろう。そこで義正氏が白羽の矢を立てたのが、息子の太郎だったのである。

 逮捕されてもいいから銀座の路上で芸をしろ、と無茶をいうこの父親は、家族の生活もそっちのけで部落解放運動に力を尽くした人物。伝統的に部落出身者の職業とされた猿まわしの復活も、いわばその一環であった。

 「太郎、お前が部落の歴史あるこの芸を引き継げ。太郎、そしてお前がスターになれ。部落が誇れるスターになれ。」

 著者を決心させ、猿まわしとしての人生を支えたのはこの父親の言葉だったが、彼を悩ませつづけたのもこの言葉だった。
 「人生はおもしろいぞ。人生は素敵やぞ」「ロマンに生きろ」。父親の言葉に相応しい道をあるいてきた息子の自伝は同時に、彼をとらえて離さなかった苦しみの軌跡、それを乗り越えようとする決意の表明でもある。


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