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2009年04月25日

『向田邦子との二十年』久世光彦(筑摩書店)

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 久世光彦が向田邦子について書いた本二冊があわせて文庫化された。そのうちの一冊『触れもせで―向田邦子との二十年』というタイトルについて、著者は「思わせぶりで気が進まなかった」と書いているが、書店でそのタイトルひと目見て、これは読めないと思ったことがある。向田邦子という人には永遠に高潔でいてほしい、という願いが私にはあった。

 死後発見されたラブレターをもとに、妹の和子さんが『向田邦子の恋文』を書き、それは久世光彦の演出でドラマにもなったので、あるていど免疫はついたが、かつては、雑誌の向田邦子特集で、古い友人が彼女の知られざる恋について書いていたのを読んだだけで、なんとなく気持ちがざわついた。

 向田邦子は「昭和の理想の長女」である。美しくて、賢くて、おしゃれで、しっかりもので、面倒見がよくて、料理に裁縫、なんでも器用にこなしてしまう、その上仕事もできる。そんな人の、男性にまつわるなにがしかは、できることなら知らないままでいたい。それは、向田邦子のようなパーフェクトな「お姉さん」の弟妹たちにすべてに通じる心理ではないだろうか。

 とはいえ完璧な人間などそうはいないもの。「お姉さん」だってもちろん恋はするし、失恋してやけになったり、駆け落ちしたり、出戻ってきたりするものである。けれども向田邦子は、かなりのところまで、弟妹たちの「お姉さんにはこうあってほしい」という期待を裏切らなかった人だと思うのだ。私が向田邦子の本を読んだとき、もうこの人はとっくにこの世にいなかったが、向田邦子は死んであとまでも、彼女に憧れる私のような人間から、理想の完璧な姉を期待されつづけた。

 疑い深い人では決してなかったが、人を信じやすいということもなかった。だから、どの人とも賢い距離と温度をきちんと定めていた。それは、あの人が冷たいということではない。悲しいということだ。向田さんに仕事のことや、身辺日常のことを相談し、親身になってもらった人は大勢いた。けれど、あの人が誰かに相談を持ちかけたという話は聞いたことがない。それは、たとえばスカーフの色はどっちがいいだろうかとか、自分の作品の中の人物を誰にやってもらえばいいかとか、その程度のことはあったろう。でもそれは思い余ってというのではない。……私たちは、あの人の世話になった割に、あの人のために、あの人が本当にして欲しかったことを、何かしてあげただろうか。私にはそんな覚えがない、けれど、それにしたって私たちが悪いということではない。それがあの人の不幸だということなのだ。あの人は、あり過ぎるくらいあった始末におえない胸の中のものを、誰にだって、一つだって口にしたことのない人だった。

 やはりそうだったのだ、と思う。
 いなくなってみると、向田邦子は姉のようだったとしきりに書く著者は、本書のなかでしきりに向田邦子を「悲しい」あるいは「不幸」だと書いた。それは、飛行機事故による早すぎる死についてというより、彼女そのものの悲しさと不幸である。
 「手に余る荷物も一つでも、人に持ってもらうこと」のできなかった不幸。「泣き言の一つも言え」なかった不幸。たしかにそうだったかもしれない。「昭和の理想の長女」で「完璧な姉」、たくさんのすばらしい仕事をし、美人でセンスもよく、世の女性たちの知的アイドルである向田邦子のことを考えるとき、ただ憧れ、というだけではおさまりきらない気持ちが残るのはきっとそのためである。
 けれども、「始末におえない胸の中のもの」を人前で吐き出すことができれば、それで彼女が幸せになったかどうかはわからない。それより、逝って十年後までも、こうして「あの人は」と書かれるほどに人に思われていた、そのことは彼女の幸せである、というふうに思っていたほうが気持ちが楽だ。

 二十年のあいだともに仕事をした著者と向田邦子は、他愛のない話でいつも盛り上がる、仲のよい仲間だった。しかし、お互いを深く理解しあったというわけでも、他の人が知らない「あの人」の一面を知っていたわけでもなかったと著者はいう。自分の知る向田邦子はほかの多くの人の知る向田邦子であり、ましてや、お互いに男と女を感じるようなことなど毛の先ほどもなかった、と。
 しかしあまりにそれを頻繁に繰りかえし強調されると、ほんとうのところはどうなのだろう? と思う。恋しい、愛しいという気持ちが多少ともなければ、ある人に対して「悲しい」だとか「不幸」だという評価は生まれないのではないかと思うのである。
 「男と女ということを、ひょいと飛び越えたところでつきあっていたのか、妙に男と女であり過ぎたのかどっちだったのだろう。」ともある。弟にしてみれば、後者を期待するところだろうが、これは、きっと賢い姉がふたりの距離を上手にコントロールしていたのにちがいない、というのが同性である妹の側の意見である。


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2009年04月17日

『寺山修司のいる風景 母の蛍』寺山はつ(中央公論社)

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 先だって逝った一人息子を、母は誕生のその日から回想する。
 その頃、東北あたりでは病院で産む習慣はなく、みんな自宅で産婆さんに助けられて産むのがふつうでした。このときは私の祖母が青森から手伝いに来てくれていて、出産のまぎわ夢中で苦しんでいる私に、自分の腰ひもにしっかりつかまりなさいと、手ににぎらせてくれたのです。産み落としてほっと楽になったとき、祖母が、「やれやれ、引きずりまわされて腰ひもが切れてしまったわい」と笑ったので、みんな息づまるような緊張がやってとけて、ほっとしました。

 お気に入りのコウモリ傘をいつも持ちあるいていた三歳のころ。大空襲のなかをふたりして逃げ回ったこと。戦死した父親の葬儀のとき、「今日は少年倶楽部の発売日だから」と、遺骨をもったまま葬列をはなれて本屋に駆け込んだこと。
 戦後、父亡きあと、生活のために懸命に働く母。中高生時代、九州へ単身転勤した母と青森の息子は、ほとんどはなればなれの生活である。

 私は毎日仕事の帰りひきよせられるように海岸まで足を運びました。この海のむこうの本州のはずれまで行かなければ修ちゃんに会うことが出来ないのだ、私はなぜこんな遠くにいるんだろうと、海を見ながらさめざめと泣いたものです。はじめの一年ぐらい、ほとんど毎日、私の日課のように……。

 大学入学のために上京したとき、母はようやく息子のいる東京に移り住むことになるが、病気になった息子の長い療養生活のため、ここでも母は働きづめの日々であった。
 やがて「修ちゃん」は「寺山修司」となる。本の出版、脚本家デビュー、劇団のたちあげ、映画制作。その仕事のことはなにもわからず、息子にかんする情報はたいてい、周囲の人間から聞かされるという生活。結婚さえ、そうであった。

 そんなとき、ある週刊誌から電話がありました。「寺山さんが杉並の永福町に新居を持ったそうですが、場所はどの辺ですか」と言うのです。しかし、私は知りません。曖昧な返事をしてその場はやり過ごしましたが、それで初めて、二人が永福町にいることを知りました。  しばらくして、今度は昔、修ちゃんに馬を書いてくれた青森の竹内さんから「ケッコンオメデトウ」の祝電がきました。いつ、どこで、結婚式を挙げたのか私は知りませんでした。  その後山口さんが、修ちゃんの結婚式のことが出ているといって週刊誌を持ってきましたが、私は見ないで返しました。もう私とは縁のない人だと思うことにしましたから……。

 寺山修司のパートナーだった九條今日子の『ムッシュウ・寺山修司』には、結婚を許さなかった姑のことが書かれてある。妻の前だけでは母親のことを「あの人」と呼び、母離れを望んだ息子。息子のために生きつづけ、それだけが生きがいの母。程度の差こそあれ、こうした親子の関係はどこにでも転がっているものだが、息子の結婚式を週刊誌で知るというエピソードを、母親の側からこう淡々と書き連ねられると、「母親」というものの強さと恐ろしさがじわじわとせまってくる。

 ようやく共に暮らすことができても、忙しくとびまわる息子とはほとんど顔を合わせることもなく、ゆっくりと話をすることもない生活。そんななか、ときおり共に食事をしたり、プレゼントをされたりといった思い出を繋いでゆくと、あまりにも早いその死が訪れてしまう。

 その後に起こったことは、悪夢としか思えません。そんなことは信じたくも見たくもありませんでした。そんなことが起こるはずがない。みんな嘘で、修ちゃんの演出で、みんなは芝居をさせられているのだと思いたいのです。今でも固くそう思っています。  「109」の前で、ニコニコ手をふって別れるとき、あと二日で帰ると約束したのです。私は修ちゃんの約束だけを信じています。仕事の都合で、突然外国へ行ったのかもしれませんし、私は修ちゃんの約束だけを信じて待っています。  修ちゃんの仕事が生きているかぎりは、修ちゃんが亡くなってしまうなんて絶対ありえません。

 「修ちゃんの仕事のことはわからない」といいながら、こういうことをするりと書けてしまうのが親というものなのだろうか。「母とは無限のドラマ」と、その作品に「母」のイメージをくりかえし登場させた「寺山修司」の虚構性は、ゆるぎのない現実である母・寺山はつの平明で素朴な筆致のなかで、いまひとつのドラマとなるようだ。


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