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2009年03月29日

『謎の1セント硬貨 真実は細部に宿る in USA』向井万起男(講談社)

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 東京から、妻の向井千秋さんの暮らすヒューストンへと出かけては、そこからアメリカのあちこちをドライブ旅行してまわるマキオちゃん(向井氏、とか、著者、と書くのはどうも居心地がわるいので、本のなかでのご夫妻のお互いの呼び名「マキオちゃん」「チアキちゃん」に倣い、こう書かせていただく)。
 1997年8月、ふたりはヒューストンから、おなじテキサス州の西部にあるビッグ・ベンド国立公園に向かおうとしていた。目的地へは、高速道路で西へと進むのが近道だが、マキオちゃんは地図上に気になる街の名を発見、予定を変更して寄り道していくことにする。行く先はクリスタル・シティ市。
 マキオちゃんは、ここがホウレン草の有名な産地であり、いかにもそれらしく、ポパイの像があるのだということを片岡義男の本のなかで読んで知っていたので、ぜひともそのポパイの像をみていこうじゃない、というわけだ。
 クリスタル・シティにおもむいたふたりは、市庁舎前に立つポパイ像との対面を果たすが、ここで思いも寄らぬ展開が。せっかく立ち寄ったのだからと、「ポパイの像の他に観光名所はあるか」と市庁舎でたずねてみると、なんだか様子がおかしい。おどろくほど無表情で愛想もない職員は、ただひと言「キャンプ」と。よくよく聞けば、それはキャンプはキャンプでも「インターンメント・キャンプ」(あるいは「コンセントレーション・キャンプ」)つまり強制収容所のことであった。
 外に出た私は、すぐにポパイの像に駆け寄った。白い円筒形の台座に記された文字を確認するためだ。やっぱり間違いなかった。このポパイの像がクリスタル・シティに立ったのは1937年だった。ということは、大勢の日系人がクリスタル・シティの強制収容所に送られてきたとき、このポパイの像はここに立っていたわけだ。

 ふたりは案内され、ただの更地となっているそのキャンプの跡地を見学する。帰国後、マキオちゃんはクリスタル・シティの強制収容所について猛烈に調べ、ここにはアメリカ国内の日系人だけでなく、中南米の日系人、ドイツ人、イタリア人も収容されていたことをはじめ、さまざまな情報を得る。三年後の2000年、キャンプ跡地を確認するためにクリスタル・シティを再訪した。

 その後もさらにインターネットで、強制収容所関連のあるホームページを読んでいたマキオちゃんは、あるページに行き着く。トップに日本語で「仕方がない!」と書かれているそれは、テネシー州ナッシュビルの高校生たちが日系人強制収容所についてレポートしたものだった。そこでマキオちゃんは質問メールを送る。強制収容所について、調査した動機はなにか? 前から知っていたのか? 理解は深まったのか? そしてトップに「仕方がない!」と日本語で記した真意は?

 十五の章からなる本書は、マキオちゃんがチアキちゃんとアメリカのほうぼうへ出かけていったなかで、興味の惹かれたこと、不思議に思ったことを、おもにインターネットを手がかりに調べに調べ、わからないことをメールで質問し、受けとった返事を紹介する、という形式をとる。

 「アメリカの店舗ではよく星条旗を掲げているけれど、なかでもトヨタのそれは特別大きいみたい、なぜかしら?」「サウスウエスト航空の職員はみなラフな服装なのに、なぜパイロットだけは制服を着ているの?」「第二次大戦中にアメリカ兵のあいだで流行した落書き“Kilroy was here”(「キルロイは来たぜ」)のキルロイって誰のこと?」「アメリカのマクドナルドは、ハンバーガーを買わない人にもトイレを開放しているって本当?」などなど。

 さて、ポパイ像から強制収容所という瓢箪から駒的道中の、そもそもの目的であるビッグ・ベンド国立公園は、かつてマキオちゃんがひとりで訪れ、「その自然の美しさに圧倒」されたので「女房にも素晴らしい経験をさせてあげたかった」と書くように、メキシコとの国境を流れるリオ・グランデ川沿いの絶壁、荒涼たる砂漠と山々を有するアメリカでも大きな国立公園らしい。そんな大自然を目の当たりにせんとする道中で、ポパイの像とはこれいかに。

 アメリカは広大だ。面積は日本の25倍ときている。とにかくダダッ広くて何もないという感じ。ニューヨークやシカゴなどの大都市は広大な海に浮かぶちっぽけな島みたいなもんだ。で、大都市だけでアメリカを理解しようとするとトンデモナイ間違いを犯すことになる。島から海に乗り出さないと、海のことも島のことも正しく理解できないのだ。

 大都市だけではアメリカはわからない。これはよく言われることだ。けれども、大都市以外のアメリカ、その広大な海のなかでマキオちゃんが注目するのは、とても小さくて些細なこと、ふつうの人が気にも留めない、あるいはどうでもいいと思うようなことばかりである。

 医師であるマキオちゃんの専門は病理診断。患者さんから採集した組織を顕微鏡で仔細に観察し、病変を見定めて診断を下す。小さな見落としが、人の命に関わってくるわけだから、アメリカでのこのマキオちゃんの細部へのこだわりぶりにも頷けるというものだ。そのずば抜けた観察眼と、ちょっとした違和感にも食い下がろうとする熱き探求心には脱帽する。そして、答えが見つかればそれでおしまいというのではなく、自らの興味を忘れずに心に残しつづける持続力と行動力にも。先のクリスタル・シティへ、強制収容所の跡地を確認するために、さらに二度も訪れているというマキオちゃんである。

 そしてそして、ポパイの像ときけば、面白そうじゃないの、と二つ返事のチアキちゃんはなんとステキな女房、同行者だろうか。そのスーパー・レディっぷりはマキオちゃんのこれまでの本のなかで承知しているけれども、好奇心旺盛すぎるこの旦那の性分を、いつもにこやかに尊重し、フォローし、しかし、関わりすぎることもなく見守っている様子が本書にはいたるところにみられる。


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2009年03月20日

『西鶴の感情』富岡多惠子(講談社)

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 西鶴の別号「二万翁」は、貞享元年(1684)住吉大社で行われた「一昼夜二万三百五十句独吟」の興行に由来する。  西鶴が亡き妻の追善に一日千句を作り、それを『俳諧一日獨吟千句』として上梓したことが、寺社の境内などに観衆を集め、制限時間内に多くの句をつぎつぎと吟じてゆく「矢数俳諧」の発端だという。延宝五年(1677)に「一昼夜独吟千六百句」、さらには延宝八年(1680)に「一昼夜独吟四千句」の興行を現在の生玉魂神社で行い、その成果はそれぞれ『西鶴俳諧大句数』『西鶴大矢数』にまとめられた。  「矢数俳諧」の粗である西鶴にとってそれは、江戸初期以来支配的であった貞門派に対し、自らが中心となった「阿蘭陀流」(そもそもは保守派側が、この新興流派をけなしてつけた呼び名だった)の、つまり〝前衛〟の保守派へのデモンストレーションの意味も込められていたというが、その、数を競うゲームに火がつき、記録を破るべく各地に〝挑戦者〟が出現、一種の流行現象となる。江戸浅草で、椎本才麿によって一万余句が独吟されるにおよび、「一昼夜二万三百五十句独吟」という離れ業をやってのける西鶴であった。

 富岡多惠子は、本書の二章(「そしらば誹れわんざくれ」)において、この〝独吟〟というスタイルが、西鶴の「それまでの俳諧師としての自覚の深部にあって、無自覚でさえあった言語的欲望」を実感させたのではないか、と書く。 
 西鶴が自らの興行を本として「商品化しているのは、商人的あざとさというより、俳諧師としての野心を感じさせる」が、それは「その世界での立場の上昇」に向けられただけではないのだと。「矢数俳諧」の興行をめぐっての、「世俗的関心が西鶴本人になかったわけではないだろうから、一から十までを言語的欲望による必然といえぬまでも、数字の増殖に、なにごとも、やってみんことにはわからん、という実験欲も感得したい。」とする。

 ……この時の一日千句が、次の『西鶴俳諧大句数』千六百句に、さらに、『西鶴大矢数』四千句となり、「数」に注目が集って、数字の増殖を、商都大阪、さらには大阪町人の社会的、生活的な勢いに重ね合わせ、その上そこに、西鶴というひとの大阪町人のハッタリ性、個人的性癖として目立ちたがりまでを勝手に想像するだけでは、彼の俳諧的モンダイ、萌芽しつつあるやもしれぬ作家的自我をとり逃がすことになってしまう。

 また決められた時間のなかの速吟には「どこかにオートマティズム、というよりむしろ「憑依」に似た感覚に滑り込んでいた時なきにしもあらずという気もし、それがひきずりこむ一種の「酔い」に敏感であったであろうと勝手な想像がしたくなる」といい、そのあと、著者がかつて「或る詩人の千行あまりの長詩」を知り、それをこえたいと千五百行の詩を書いたときに、「書き続けているうちに「憑依」感覚のようなものを言語の生理として時に思いもかけず体感」したという体験談をつづける。

 「一昼夜二万三百五十句独吟」については、西鶴が「矢数俳諧」の創始者として、この数のゲームを打ち止めるべくして行ったものだという。「言語的欲望」に動かされ、どれだけできるのかという「実験欲」もあり、そのただなかではある神懸かり的な恍惚も知っていたであろう西鶴だが、それがたんなる流行となったとき、もうこのへんでいいでしょう、こういうことは! とその興行に打って出たのだろう。
 それは本としてまとめられることはなく、記録も残っていないが、先の二興行については、「その板行のたびごとに、序文、跋文などに自信と自負、さらに自慢さえ公言」する西鶴。ただし「その威勢のいい言辞は、それをそのまま受取っていいかという気もする。」と著者が書くのは、『好色一代男』にみられる数の羅列(「主人公が六十歳までにたわむれた女が三千七百四十二人、男が七百二十五人……」)、その「誇張が誘い出す「おかしみ」の片鱗に、作者の、冷たいまでの素知らぬ顔を感じる」からである。
 やるとなれば、自らの定めたルールに異様に忠実であった西鶴だというが、興行がすんでしまえば、

 ……「是迄なりや万事を捨坊主」で「諸願成就」に感傷がない。こういうことは終ればそれでいいのだ、終わったあとまで、ああだこうだということはない――といわぬばかり。二万三千五百句だなどと、花火をあげるわりには本人はただマジメにやっているだけ。それを、のちにつくられた俳諧→俳句=芭蕉の観点から、文学的にどうのこうのというのは詮ないことのように思われる。

 このように、後世の目から「文学」的な文脈で西鶴を眺めても仕方のないことだといいながら、著者は、自らとおなじ「書くこと」によって生きる者としての西鶴の、作家としての自我とその作品に込められた批評性に目をこらしてゆく。近世の大阪で、都市生活者として「文筆」を生業として生きた西鶴という人とその作品に、近代性をみいだしつつ、こんにちの私たちの感覚によってだけでは、容易に汲み取りきれないその像を、著者はたくみに現前させてゆく。「西鶴の感情」というが、それよりも著者の「西鶴への感情」、理解でも共感でもないものを、感情のことばに頼ることなく描きだすことで、著者は自らの文学的自我に試練を課しているかのようだ。


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2009年03月04日

『都と京』酒井順子(新潮文庫)

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 「いけずと意地悪」「始末とケチ」「おためとお返し」……。さまざまなテーマ毎に、京都と東京を比較考察した本書。単行本のでたときはつとめて避けていたのだった。京都に暮らして十四年になる。日本というのはどこも、生まれ育った神奈川のように、東京からのびる私鉄沿線の街々の延長なのだと思っていた愚かな私であったので、ところかわれば気候も人もこんなに違うのかとはじめは驚くことしきり、くわえてそれになかなか馴染めずに苦労したので、いわゆる京都ブランドにはことごとく反発していた。本についてもしかり、京都案内、雑誌の京都特集、京都と名のつくものにはすべからく冷ややかな視線を注いでいたのだ。

 いまになって本書を手にしたのは、いいかげんここでの自分の暮らしが板についてきたためでもあるが、著者が東京の人間であり、単に京都というものついてだけを云々しているわけではなく、京都という異文化について考えることによって、東京という自文化を再認識しようとするそのいきかたにもよる。
 それにしても、ぺしぺしと膝を叩きたくなるようなくだりのなんとおおいことよ。

 いけずは、意地悪のように誰でも聞けばわかるというストレートさを持ちません。相手の頸動脈を一撃で断ち切るのが意地悪だとしたら、相手も気付かないような細い血管を何箇所も切っておいて次第に出血多量に追い込むのが、いけず。いやむしろ、傷つけたことすら相手に気付かせず、「あの人と私は、違う」と自分を納得させるためにするのが、いけずなのかもしれません。

 無粋な関東者の私はいくたび、ええい切り捨て御免! と振りかぶろうとした途端、知らない間に流れていた自分の血に気がついてなよなよと萎えるということを繰りかえしたであろうか。でももう平気、慣れたから。いけずにいけずをもってわたりあえるほどの強者にはとうていなれないが、このことばに集約される京都人の高度なコミュニケーション能力は、そういうものだと知れただけでもじゅうぶん、生きる技術の糧となる、といまでは思える。

 柳の枝のように、たおやかだが芯は強く、我慢強いのが京女。いっぽう、「切羽詰まるとどこかキレて、何かをしでかしがち」で、鉄火でちゃきちゃきとしていながら、実はもろい桜の枝のような東女。両者の違いを著者はそう分析したあと、このようにつづける。

 この東女と京女の違いは、「先を見越す能力の強弱」から来ているのではないかと、私は思います。東女というのは、「今この瞬間、幸せになりたい」のです。……「これをやってしまったら、将来大変なことになる」ということがわかっていても、現時点での幸福とか快楽のために、ついつい危ない方向に足を踏み出してしまう。
 「今この瞬間」を大切にする東女は、刹那的で、無常感を抱えているように感じられます。もちろん、都市に生きる者の常としてその手の感覚を私達は持っているのですが、しかし私は、実は京女の方が、東女よりもっと深い無常感の中で生きているような気がするのです。
 彼女達は、歴史という河に浮かぶうたかたの一つとしての自分の役割を、認識しています。そこには、好きな人に会うために放火して半鐘を打ち鳴らすという行為にある「私が主役」感は、存在しない。時の流れの中にある自分を客観的に見た時、「私一人がじたばたしたとて、どうにもならない」という諦念のようなものが浮かびあがるからこそ、京女達は「耐える」ことができるのではないか。

 そんな京女たちを見つめながら、著者は自らがまがうことなき東女であることをひしひしと自覚する。
 「先を見越す能力」の甚だ欠如している東女な私も、幾度となく足を踏み外してはあたりをみまわし、京女の我慢強さに恐れ入るのだが、しかし、どう転んでも自分は京女にはなれない。
 それでも、「そんな自分」を肝に銘じつつ生きていくことができるのは、京都にいるおかげなのである。もしも私が生まれた土地を離れずにいままでいたとしたら、どれだけのことに気づかないまま過ごしていただろう。この点においてばかりは、京都に暮らしていてよかったと、こう思えるようになるまでに何年もかかった鈍くさい私。それにひきかえ、

 私にとって京都は、「すぐ隣にいるのは、自分とは違う人である」ということを、そして、「『自分とは違う』相手とも、人は精神を通じ合わせることができる」ということを、教えてくれた街です。

 と、はればれと書く著者の、いくたびかの滞在で、「千年の都」への自負と伝統による京都の洗練を、するすると掬いあげ、それによって自らの居所を見さだめてゆく勘のよさに唸らされた。


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