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2009年02月23日

『死んだら何を書いてもいいわ 母・萩原葉子との百八十六日』萩原朔美(新潮社)

死んだら何を書いてもいいわ 母・萩原葉子との百八十六日 →bookwebで購入

 萩原葉子が亡くなったのは二〇〇五年の夏。著者が、老いた母の願いを受け入れ、同居をはじめてからわずか百八十六日後のことだった。「親不孝な息子」が、母との「慌ただしい別離」に向かい合うために書かれたのが本書である。
 父親が文学者の娘は、結婚生活がうまくいっていない場合が多い。  先日、太田治子さんに会ったら離婚したという。やっぱりなあ、と思った。幸田文。広津桃子。津島祐子。思い付くままに何人か挙げていくと、みんな文章を書いている。母親もその一人だ。

 おなじ「作家の娘」でも、たとえば、葉子とも親交があり、父親の愛をめいっぱい浴び、それを生涯の宝物として生きた森茉莉などとくらべると、葉子には父親とその愛にまつわる幸せな思い出が薄いように思われる(まあ、森茉莉が極端であるともいえるのだが)。朔美はこう書いている。

 …母親が私にまったく父親のことを話さなかったのは、たぶん話が出来るような親子の交わりが希薄だったからではないだろうか。……「私の父」という情愛のこもった話を一度でもしてくれれば、孫の私の中で祖父は身近なものとして、リアリティーある人物としてイメージ出来たと思うのだ。……  だから、祖父なる人物は、まるで教科書の中の写真のように、実体のない、触れることの出来ない幻で、血の繋がりを感じられない、まるでフィクションの存在に近いのだ。

 なにより葉子は、父の愛についてうんぬんする以前に、母の愛に恵まれない人であった。彼女の小説やエッセイのなかで、自分を捨てて家を飛びだした母親との二十何年ぶりの再会や、母不在の家での祖母による虐めにといった辛い思い出に触れればそのことが知れる。
 葉子の母、つまり朔太郎の妻であった稲子は、とても母親向きとはいえない女性だった。いつも家をあけてばかりの父も父だが、母もまたダンスに夢中になり、幼い葉子と妹をいつも置き去りにし、そのために妹は高熱をこじらせて障害を負ってしまったという。葉子が大人になって再会したときにも、母親としていたらなかったことをわびるどころか、娘を女としてライバル視するような人だった。

 本書には、若き日の稲子の写真がおさめられているが、そこには美女特有の自意識がむんむんと漂っている。一方葉子はというと、子どもの頃、祖母にしきりに醜いと罵られたと本人は書くが、父親似の大きな目元が凛々しい美しい人である。ただし全体的に表情がどこか暗く、母の愛を知らずに育った不幸を思わずにはいられない。
 朔美が小学生のとき、離婚をした葉子は、自活の道を教職に求めようとするが、人前で話すことがあまりに不得意なためにこれをあきらめたという。警戒心が異様に強く、神経質、くわえて極端なあがり症であったと朔美も書いている。いつもそわそわ、おどおどとして落ち着きがなかったというその様子は、写真をみただけでも想像できてしまう。

 それが突如として変貌するのは、四十代になってからダンスをはじめたことによる。葉子のエッセイによれば、ショウウィンドウに映った自分の太った姿に愕然とし、このままではいけない、と思ったことがきっかけだったのだとか。またそのころ、同居をはじめた母親の、老いた怠惰な姿もその動機となったらしい。母親のようにはなりたくないと、葉子は思ったにちがいない。
 以来、ダンスにのめり込んだ葉子は、自作の派手な衣装に身を包み、あたらしく本が出版されるたびにその記念の会で踊る、という社交的な人となった。辛い娘時代をすごした葉子は、ここにきて青春を取りもどしたかのようだ。
 「母親の関係する催しものにはめったに参加」せず、ダンスへの熱中もどこか冷めた目で眺めていた朔美が、はじめて葉子のダンスの発表会を観に行ったという思い出は、本書のなかで私がなにより愛するエピソードだ。 家族連ればかりの会場。ほとんどが十代から二十代の出演者。彼女たちと揃いのコスチューム姿で舞台に現れた母。それを観て客席はザワついた。

 あの人どうしたのかしら。そういうザワつきだ。若者の中に紛れ込んだおばさん。私は恥ずかしくてしょうがなかった。娘を観に来ている人たちの中でただ一人親を観に来た子供。長かった。やけに母親が踊っているグループだけが長く感じられた。終わると全員が一緒におじぎをする。隣の席の母親たちが、  「ずい分年取った人、居たわよね」  と笑った。私はその時初めて母親を応援しようという気持が生れた。親不孝な子供の心に、初めて芽生えた感情であった。

 映像や舞台の仕事をする萩原朔美が、シロウト同然の母親の晴れ舞台に居合わせる。それがなんともおかしいし、また萩原朔美らしいとも思う。
 作家・萩原葉子への私の興味は「作家の娘」であることだったが、萩原朔美に対しては、葉子の息子であるとも、朔太郎の孫であるともあまり意識されない。それは私が、まだ二十代の頃に朔美の書いたエッセイを古本で読み、そのファンであったためで、むしろ葉子のほうが朔美の母親、という感覚のほうが強い。

 萩原朔美は今年六十三歳だという、そのことに驚く。かつて愛読したエッセイを書いた当時の著者を、私はリアルタイムで知るはずもないが、朔美がいつまでも母・葉子を若い、と思っていたように、私も萩原朔美はいつまでも若いような気がしていたのだった。母の生と死を綴った本書を読んでも、この人はあまり変わっていないなあ、という印象をもった。著者は幾度となく、自分は「親不孝な息子」であると書くが、親孝行な萩原朔美、なんて考えてみればおかしなものだ。

 三十代の頃まで、よく人からマザコンじゃないか、と言われた。あなたは私が産み、育てた、と言われたら、息子はぐうの音も出ない。マザコンじゃない息子などどこに居るのかと思った。息子はみんなマザコンで、だからこそみんな母親に冷淡なのだ。

 これとおなじことをべつの六十代の男性にいわれたら、きっとぞっとするだろう。そう思わせないのは、葉子という母であり、朔美という息子であるからだと思う。
 離婚後、書くことに生きる道を見いだした葉子は仕事一筋の生活。幼い息子を厳しく叱りつけてばかりだった母は、息子が反抗期に入ると一転、まったくの放任主義となる。
 中学の頃から「別居」し、一緒にどこかへ出かけたという思い出もわずかで、ほとんど連絡もしあわずお互いにわが道をいくふたりの関係は、世間並みの親子のそれとはだいぶちがう。母親の愛を知らずに育った葉子は、自分が母としてどうあったらよいのかがよく分からなかったのだろう。けれど、親子なんてみなそれぞれ、葉子と朔美についても、これはこれでよかったのだなあと自然に思えるのは、息子に「濃密な人生」といわしめた葉子の生と、朔美のかわらぬ「親不孝な息子」っぷりにあるのだと思う。
 老いた母との同居にあたってのとまどい、母がひとり暮らした家の荒れ果てた様子や、山のように溜め込まれたものの処分と整理。介護生活のなかで老いた母に辛く当たったことへの後悔。よい思い出ばかりが書かれているわけではないが、決して重くも暗くもない。切なくも爽やかな読後感が残る。


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2009年02月11日

『女の庭』鹿島田真希(河出書房新社)

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 集合住宅での井戸端会議。悪口をいわれることを怖れ、そこに加わることを止められない「私」。いたって普通の主婦、と自らを見積もってみても、子供がいないため、まわりの〝母親〟たちとのやりとりに頷くそのさまはどうしてもぎこちなく、息苦しさはつのる一方である。
 ないものねだり。要するに私は恵まれていて、その上暇なんだなあと思う。なんの不満もないけれども、現実逃避したい感じ。私は何から逃げているのだろう。わからない。だけど私は夫がいなくなると、忘れていた何かを思い出しそうになる。

 「中の中くらい」の生活レベル。夫婦関係に問題はみあたらない。昼間することがなく、つい食べものを口にしてしまう「私」が太っても、夫は「きみは太っていてもかわいいよ。」と言ってくれる。落ち込んでいればやさしく声をかけてくれ、涙を流した目にキスしてくれる。けれども現状は、「私」の夫婦の理想からはかけ離れてしまっている。

 「普通の主婦」になることが憧れだった。そのために努力してきたつもりだが、一方「子供を産まなければ、普通の主婦に堕落することはないとずっと思っていた」ともいう「私」。彼女の理想の「普通の主婦」像は、「いつまでも恋人同士のよう」で、金曜の夜には「シャンパンを飲んでワンランク上の夫婦を演じられる」というお粗末な幻想である。

 あるとき隣の部屋に外国人女性が越してくる。自分とは何もかも異質なその女に「私」は執着し、壁一枚隔てて聞こえてくる音にじっと耳をすます。家事にいそしむほかは、テレビを眺めて夫の帰りを待ちあぐねている「私」は、外国女は孤独で苦しんでいるのだと根拠なく思いこみ、憎むと同時にその姿に自分自身を重ねる。

 そんな「私」の独白は、結婚前「趣味が読書」だったわりにはどこか舌足らず。字面ばかりを追って、核心に触れることなく上すべりしてゆくような、借り物のようなそのことばのつらなりがいっそう、「私」の絶望感を際立たせている。

 併録の「嫁入り前」の「私」は、表題作の「私」にもまして無知で、なにひとつ自分で決定することができず、自らの感情を把握することの下手な女である。
 「母」と「妹」の三人家族、父親はない。「私」には結婚を前提としておつきあいしている「彼」がいる。

 そして、料理の他に編み物はどう? あなたできるの?と続ける。そこですかさず妹が、彼のためにセーターを編んであげたことがあるかってことよ、とつけ加えたので、母親の顔は真っ赤になった。母親はプロテインミルクで額を冷やしながら、要するにそういうことよ、どうなの?と照れながら言ったので、妹が母親の額を指さして大笑いした。  編み物はできないわ、と答えると母親の紅潮はやっと引いたようで、嫁入り前の娘なら、教室に行きなさいといやに真剣に言う。私はなんの教室かわからなかったので、それは編み物教室ってこと?と尋ねると、はしたない!と母親は怒鳴った。

 ふたりの娘の嫁入り資金をこつこつ貯め込む「母」、その「母」の干渉。「妹」はなにかと反抗的・批判的で、姉の「私」をさしおいていつも訳知り顔である。その「妹」に付き添われ、「私」は「教室」とやらに出掛けていく。

 それで、姉さんは教室に行くことを余儀なくされたのね、空っぽなお姉さん。妹は意地悪な笑みを浮かべたが、私はそれに腹を立てるどころか、教室へ行くことを自らの意思で決めたのではない、という彼女の鋭い視点に感心した。

 妹は、私はいいわ、あんな、人のこと平気で侮辱する人、我慢できないもの、…(略)…でも姉さんは入学したらいいわ、どうせお母さんの言うことには逆らえないんでしょう?と冷笑する。私は黙り込んで、先生が侮辱的であったかどうか考えたけれど、覚えがなかった。すると妹が私の様子を見て、ごめんなさいね、お母さんに逆らえないなんて言ってしまって、と詫びた。私は、お母さんに逆らえないというのは、妹にとって恥ずかしいことなんだと納得した。


 結局「私」と「妹」は、〝姉妹コース〟というカリキュラムを選択し、そろって教室へ通いだす。教室の「先生」はそこで姉である「私」を〝語らない女〟、「妹」を〝語る女〟と区別する。そしてそれぞれが役割分担をすることがいかに大切であるかを説く。

 妹が気を遣って、姉さんいいの? 語ることが赦されないのですって、と心配したが、私は、構わないわ、土偶のように押し黙っていたいのよ、と答えた。

 私は不思議に思った。語ることも、誇ることも赦されていないのに、勇気がわいてくる。私は泣くまい。土偶は大量生産され、誰が誰なのかわからなくなるだろう。そして最後にはいらなくなって、木っ端みじんになるだろう。

 「妹」=〝語る女〟は「先生」の教えにしばしば意見し、「母親」に反抗し、「彼」とも対等な口をきく。しかし〝語らない女〟=「私」には、「妹」がわかっていてあたりまえであるらしいことが、いまひとつびんとこず、また思ったことをすぐ口にだすことがない。ただ「私」より賢い「妹」のことばに感心するばかりである。

 すると母親が唐突に、本当に私たちは似ているものねえ、と呟いた。私は驚いて、妹は似ていると言ったけれども、そこにお母さんを加えると言った覚えはないわ、と反論してやりたかった。すると妹のほうが、確かに姉さんの言うとおりだわ、私と姉さんは不完全ながらどこかでまだ繋がっているけれども、お母さんとはもう切れたって感じがするわ、と言い放った。

 妹はどうして怒ったり、それを露わにしたりできるのだろう。私にとって怒りというのは、雑巾の上に載せられた氷のようだ。怒った瞬間、吐き気を覚える感じがするが、すぐに消えてなくなり、雑巾に吸収されてしまう。私の怒りは心の雑巾に蓄積されているのだろう。彼に口の上に鬚が生えている、と言われた時もそうだった。怒りは消えてなくなった。だけど怒りが蓄積されたこの雑巾を絞ったらどうなるのだろう。きっと牛乳を拭いた雑巾を絞った時のようにおぞましいにおいがするのではないか、私は雑巾を絞る日を恐れた。

 「私」が、「彼」が「妹」と浮気をしていても嫉妬しないのは、ふたりがそもそもひとつであるからに他ならない。〝語らない女〟と〝語る女〟は、本来はひとりの女に共存するはずのものなのである。女は、時と場合、運や縁、あるいは自らの裁量と実力に応じて、そのふたつのあいだの、どのあたりを選択し採用するかをつねに強いられているのだろう。
 前回とりあげた『女装する女』に展開されていた、こんにちの女が纏うさまざまな文化コードが剥ぎ取られたかのような、のっぺりとまるはだかの〝語る女〟と〝語らない女〟。記号化され、分裂させられたふたつの「女」が〝教室〟で学ぶのはだから、「料理」でも「編み物」でもない。そこで行われるのは、〝語る女〟と〝語らない女〟の役割分担を説く「先生」との、結論のみえない奇妙なやりとりなのである。


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2009年02月08日

『女装する女』湯山玲子(新潮社)

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 「よそゆき」や「おめかし」というべきものを、久しくしていないように思う。結婚式などの祝い事、パーティー、目上の人との面会、デート、それなりに考えて装っても、右のような表現にはしっくりとあてはまらないのだ。

 NHKアーカイブスや昔の日本映画で、当時の日本人たちを目にすると、みなずいぶんとかっちりとした恰好をしていたなあと思う。
 日常的にスーツを着ることなどない暮らしの私は、年がら年中カジュアル一辺倒。いつのまにか、おばさんもおじいさんもユニクロ、日本人の服装はすっかりカジュアル化した。

 子どものころの入学式やピアノの発表会。服装の決定権は母親にあったから、用意されたものを着るだけだった。
 思い出すのは、フォーマルウエアの袖ぐりや襟元や革靴の窮屈さである。「よそゆき」や「おめかし」は、そうしたいつもとはちがう身体感覚がつきものであった気がする。そしてそれは、精神のたたずまいにも影響する。 
 着物を着ると歩きかたまで女らしくなる、というのも同様。日常的に着物を着ていた日本人女性たちにとって、着物と立ち振る舞いの相関関係は、「伝統」とよばれるものの大抵がそうであるように、ニワトリとタマゴのようなもの。ただしこんにちの女たちは、着物を着ることによって女らしい身のこなしを「再認識」あるいは「発見」する。

 フェミニンなドレスにハイヒール、気合いの入ったメイクに巻き髪、きらびやかなアクセサリー、美しく整えられたつややかな爪……。これまで、女としてのごく自然な表現であると信じられていた女だからこそのファッション。これが、現代を生きる女たちによってなされるときにあらわれる「女装」の意識。

 女性がおしゃれの照準針をフェミニン方向にぐぐーっ、と寄せて装うとき、その心は、ほとんど男が「女装」するがごとくの心境なのだ。

 女性たちはよく、自分をオヤジにたとえて自嘲することがある。
 女の仕事人たちが、女らしい服装をし、ネイルサロンで爪を光らせるのは、だから抑圧された女性性の発露や取り戻しなんかではない。男と別段変わらぬ内面が、あえて女性の記号をふんだんに身にまとい着飾ること。それこそが女が女装するという意味なのだ。

 女が「女装」するとは、一億層カジュアル化への反動でも、男と肩をならべて仕事に生きる女が失いかけた女らしさをとりもどすことでもない。それは、女という記号を対象化した上で、それを自らにあてはめてみせること、女という形式の、あえての採用なのである。

 かつては「かくあるべき」とされた女らしさは、女性たちが「かくありたい」という欲望を肥大化させることによっていったんは却けられ、一方その「かくありたい」の実現の手段として女が女を武器にする、というありかたがあった。

 しかし本書でいう「女装」とは、もはやそれ自体が目的化している。だから、昨今メディアを賑わせているオネエたちの女らしさの過度なプレゼンテーションや、クラブママや叶姉妹といった「女のプロ」たちの技術は、女性たちに受け入れられる(ただし、いまどきの女の子の「かわいい」の体現ともいえるエビちゃんのスタイルは、「切実な男ゲット」を目的とした「女装」らいしが)。

 また、いわゆる「女装」のためのアイテムは、「女の身体に優しく心地よいものではなく、極めて遊戯的で拘束的なデザインが多」く、「ある種肉体的なコントロールも含めた過酷さと努力がいるわけで、そこにはダンディズムに通じるモラル性も感じられる」という。
 我慢も努力も、男からのお仕着せならお断りだが、自らのための「女装」であれば、それは面倒でも窮屈でもなくなるというわけだ。

 女らしさのみならず、かくあるべき姿というものが、スタイルとして、型として、かつては守られていただろう。そしてそれは、人のうわべ、外側のことだけではなかったはずだ。かくあるべき型を壊し、あるいはそこから解放されて自由になった女たちは、こんどは自らすすんで、女らしさのコードを我が身に組み込みはじめたのである。

……現在に生きる女性たちは、過酷な現実を生き抜くために、ありとあらゆる文化コードを自分のなかにビルトインし、有効利用している。それによって、ストレスを発散させたり、生きがいを見つけたり、自分のモラルを作り上げてきている。

 「女装する女」を筆頭に、本書にはそうした「ありとあらゆる文化コード」のさまざまな型と実例が紹介されている。「スピリチュアルな女」「和風の女」「ノスタルジー・ニッポンに遊ぶ女」「ロハス、エコ女」「デイリー・エクササイズな女」「大人の女になりたい女」「表現する女」「子供化する女」「バーター親孝行な女」。どれも自分やまわりの女友だちに、少なからず思い当たる事例ばかり。
 「女装する女」において、著者はこんにちの女性はもはや「頭の中が〝女性〟ではない。」と言い切る。しかし、あえての「女装」は、やはり女性ならではの生きるための知恵なのかもしれない。


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