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2009年01月31日

『東郷青児―蒼の詩 永遠の乙女たち』野崎泉・編(河出書房新社)

東郷青児―蒼の詩 永遠の乙女たち →bookwebで購入

 ロマンティックかつモダンな美女たちを描きつづけた東郷青児。編者の野崎泉をはじめ、ここに文章を寄せた女性たちにとっての青児体験は、女子寮に飾ってあったレプリカや喫茶店のマッチ、あるいは本の装幀であったりした。

 そうした乙女の視線をとおして、画家の仕事を照らしだした本書。ほかにも、白粉のパッケージ、飾り皿や扇子、その絵が店内を飾った喫茶店など、青児の手による生活を彩るもろもろがクローズアップされる。

 吉祥寺「ボア」、自由が丘「モンブラン」、横浜「フランセ」等の洋菓子店の包み紙にいたっては、それだけに一章をさくという充実ぶりである。自立したタブローと向き合うのももちろんすてき、だが、暮らしのなかから叙情や詩情、美や夢をすくい上げることによろこびを見出すのが大の得意である乙女たちにとって、青児描く女性に彩られたこれら包み紙は、甘いお菓子を口にするしあわせと切り離すことのできないアイテムなのである。
 
 モダニズムの花咲く大正の時代に若くして画家としてデビュー、パリでの留学生活、女性遍歴やそれにまつわるスキャンダル。生涯女性を描きつづけ、またとびきりのスタイリストであった青児には、世間が画家という人種にもつステロタイプな通俗性がつきまとう。それはその画業だけでなく、本書に紹介された品々が世に広く受けいけられたことにもよるだろう。

 さまざまな近代絵画のイズムに触れたヨーロッパ生活を経たのち、「大衆に愛されるわかりやすい芸術」というテーゼに辿りついたという青児。それを受け、編者はこの本を「画業の偉大さを讃えた」作品集ではなく、「昭和の暮らしの中に溶けこみ、身近に親しまれていた分野での仕事をフィーチャーしたもの」にしたいと語る。

 雑貨のデザイン、本の装幀、その絵と人生、ゆかりの店の紹介、包装紙ギャラリーとつづき、文章もよくした青児のエッセイやマンガも収録。それまで副次的とみなされてきたであろう仕事を、本来の画業と等価にならべてみせることによって、これまでにない乙女好みの青児本が仕上がった。ここにこそ、「大衆に愛されるわかりやすい芸術」を目指したこの画家のエッセンスがあらわれているといってよい。

 巻末には、青児にとっての永遠のモデルである盈子(みつこ)夫人とのあいだに生まれた娘、東郷たまみさんのインタビューがある。一九七八年、青児が亡くなったとき、スペインへ留学中だったというたまみさんは、父の死に直接触れることがなかった。そのためか今なおその死に現実味をもてない、という話が印象的だ。

死というものが、父にはぜんぜん似合わないし。……サハラ砂漠に行きはじめた頃に、「もうちょっと若かったら、俺、ラクダにのって地平線の向こうに消えてしまいたいと思うんだ」って言ったことがあったんですよ。だから、消えたんだろうと思ってるんです。今でも。
 
 たまみさんはまた、晩年もなお旺盛に創作しつづけた青児を、「一生、ステージの上で演じ続けた強い男」と表現している。世の乙女たちを魅了したさまざまな仕事は、そのほとばしるエネルギーのたまものだったろう。


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2009年01月28日

『夫婦善哉』織田作之助(講談社)

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 人なみにあらたまった気持ちで新年を祝い、さて今年の行く末はと我にかえるが、自分のことはひとまず向こうへ押しやって、そわそわとオダサクで明け暮れるこの正月であった。

 妻も子もある惣領の身で若い芸者の蝶子と駆け落ちし、勘当された柳吉は、それでもしばしば実家を訪れる。そんなときの蝶子は「水を浴びた気持が」し、いてもたってもいられない。なんとしてでも自分の手で柳吉を一人前の男にしようと苦労を決めこみ、ヤトナ(臨時雇いの女中兼芸者)稼業に精を出し、柳吉に小遣いを与えながら、自分は着物ひとつ新調せず切り詰めた暮らしの蝶子である。

 まとまった金ができると、剃刀屋、関東煮屋、果物屋と店を構えてはたたむのくりかえし。はじめはやる気をみせる柳吉だが、そのうち飽き、放蕩の気が疼けば、蝶子がやっとの思いで貯めた金を一晩で使い果たす。
 すると蝶子は気のすむまで殴る打つの折檻。朝のみそ汁の鰹節を柳吉が削るのは、そこまで「自分の手でしなければ収まらぬ食意地の汚さ」のためだが、「亭主にそんなことさせて良いもんか」「あれでは今に維康さん(柳吉)に嫌われるやろ」と、蝶子ばかりが柳吉に入れあげ、甲斐性を押しつけ、挙げ句は尻に敷いていると世間からはとりざたされる。

 例によって柳吉が梅田新道の実家へ出かけ、幾日も戻らなかったときのこと。半泣きの蝶子は、父・種吉に柳吉の様子をみてきて欲しいと頼みこむが、いつもは娘に甘い父はそれをことわる。

 「下手に未練もたんと別れた方が身のためやぜ」などとそれが親の言う言葉かと、蝶子は興奮の余り口喧嘩までし、その足で新世界の八卦見のところへ行った。「あんたが男はんのためにつくすその心が仇になる。大体この星の人は……」年を聴いて丙午だと知ると、八卦見はもう立板に水を流すお喋りで、何もかも悪い運勢だった。

 俗に、男を食い殺すなどといわれる丙午生まれの女である蝶子は、芸者時代「陽気な座敷には無くてかなわぬ妓であったから、はっさい(お転婆)で売っていた」、こざっぱりとして勝ち気な気性である。
 しかし、蝶子と所帯をもってからいうもの、頑固者の父に決して許されないことに、柳吉がつねに屈託していると知る蝶子は、柳吉の朝帰りしたときは逆上し、気のすむまで懲らしめても、実家へ出向く柳吉をとめることはできない。どんなに困っていても、

……柳吉にだけは、小遣いをせびられると気前よく渡した。柳吉は毎日が如何にも面白くないようで、殊にこっそり梅田新道へ出掛けたらしい日は帰ってからのふさぎ方が目立ったので、蝶子は何かと気を使った。父の勘気がとけぬことが憂鬱の原因らしく、そのことにひそかに安堵するよりも気持の負担のほうが大きかった。それで、柳吉がしばしばカフェへ行くと知っても、なるべく焼餅を焼かぬように心掛けた。黙って金を渡すときの気持は、人が思っているほど平気ではなかった。

 柳吉の父に許されたいという気持ちは蝶子もおなじ、ただしそれはふたりの仲を認めてもらいたいという女の意地による。それをいくら張っても張り足らず、いよいよ行き詰まれば、八卦見にかかりたくもなるだろう。あるいは、柳吉の帰りを待ちわびて金光教の道場へお参りに通い、柳吉の妻が出戻った先で死んだときけば、法善寺へご寄進し、位牌を祭る。

 この、健気にもさばけた信心深さが、そのかいがいしさが何かにつけて鬱陶しい蝶子の愛らしさだと私の目にはうつる。蝶子の意地は同時に彼女の弱味でもある。しかし、「男に尽くすその心が仇に」といわれても、我が身を省みるなど思いもよらない蝶子である。そこが「夫婦善哉」の、というより、オダサクの書くものの魅力となる。登場人物の内側に仔細に入り込まず、出来事をひたすら羅列する。それでこそ、しみじみとこちらにせまってくるものがある。

 どうしようもない甲斐性なし、しかし蝶子の目にはなんとも様子のいい男に映るのだろう柳吉が、この物語のいちばんの「いいキャラ」であるが、私としては蝶子の父・種吉もなかなかに捨てがたい。蝶子が柳吉に惚れたのは、たいへんなお人好しで女房にあたまのあがらない父親をみて育ったせいだと、オダサクはそうとは書かないから、そんな下手な解釈は野暮になってしまうのだけれど。

 (ちなみに、別府を舞台にその後のふたりを綴った、これまで未発表であった続編を含めた『夫婦善哉・完全版』(雄松堂出版、二〇〇七)がある)
 


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2009年01月14日

『都市のドラマトゥルギー―東京・盛り場の社会史』吉見俊哉(河出書房新社)

都市のドラマトゥルギー―東京・盛り場の社会史 →bookwebで購入

 近代以降の「盛り場」研究の入念な検証。明治初期、博覧会とその開催地として近代的な都市計画の舞台とされた上野。江戸以来の盛り場から、民衆の娯楽の地へと変貌した浅草とモダン都市銀座。戦後の高度成長期における新宿と渋谷。近代日本の「盛り場」を、そこに集う人びとがどのように生きるか、という「出来事」として捉え、「都市」と「近代」を読み解いてゆく。
 私がこれを手にしたのは九十年代のはじめ、とくに、近代化の装置として機能した博覧会の、明治国家による「演出」とそれにともなう上野の都市整備を扱ったⅡ章は、著者の二冊目の本である『博覧会の政治学』(中公新書、一九九二)とともに繰り返し読んだ、非常に懐かしい本である。

 「都市における意味の秩序を、まさにそれを世界として生き、その過程で自らも組織される人びとの身体性の側から捉えていこうと」する七〇年代以降のテクスト論的な都市へのアプローチを踏まえた上で、本書のなかで著者がとる方法は、「上演論的パースペクティヴ」とよばれるものである。
 これは「都市というテクスト」における「読者/登場人物」の相互媒介的な関係を、彼らが「都市を構成する諸装置によって条件づけられており」「これらの諸装置に媒介された場のコードに従ってはじめてテクストの読者/登場人物となることができる」という点に注目し、都市を「テクスト」と「読者/登場人物」の関係によってではなく、「上演」と「観客/演者=役」の関係によって捉えてゆこうとするものである。その上で「盛り場」=「出来事」という視座もひろげられる。

 「上演論的パースペクティヴ」はまた、自らが主体であると同時に客体でもあるという認識のもとに、都市を読み解いてゆくテクスト論的な方法において、都市がすでに「読まれるべきテクスト」であるという前提により注意深くあろうとする。それは、読むにあたいする都市を、そのようなものとして対象化するわたしたちの感受性をも「おのれの内部から問題化して」ゆこうとする試みであろう。

 「おそらく、上演論的パースペクティヴにとっても最も基本的かつ重要な出発点は、社会的現実の上演においては上演の外側に「真の現実」があるわけではない、という認識である。一方に上演される「虚構の」世界があり、他方に上演されない「現実の」世界があるわけではなく、現実の世界はそれ自体、常に上演を通して演劇的に構成されている。たとえば「演技」とはしばしば「偽りの自己」の呈示であるかのように思われているが、その際、隠蔽された自己が呈示された自己よりも「真である」と主張することはできないのであって、むしろ、ある自己が「真」か「偽」かは、それが置かれるパフォーマンスの社会的文脈のなかで決定されるのだ。
 さらにいえば、上演論的パースペクティヴからするなら、そうした自己そのものも上演の効果として産出される。すなわち自己は、パフォーマンスの原因ではなくてむしろ結果なのである。」

 こうした認識は、ひとの生活上のありとあらゆる場面を読むさいにも採用できる。十何年ぶりかに本書をあらためて読んだ私は、これまで、生まれ育った東京近郊をはなれ、京都に暮らしてきた。ここへきた当初、この観光都市は、住むところでなく訪れるところだという感覚を拭いきれず、しばしば訪れる東京のほうを心安く感じていたが、いまではすっかりここが自分の居所となっている。そこで本書にあたったとき、東京が、自らが「出来事」の構成要素として参加することのできるさまざまな街をもった都市であることを思い出したのだが、さて、では京都はどうか。 
 入れかわりたちかわりやってくる観光者を尻目に、彼らの京都が「舞台」なら、そこで日常を営む者にとっての京都は、観客の目の届かない「楽屋」のようなものであり、ふたつは決して相いれないという感覚を私はずっと持ちつづけてきたようだ。けれども、「上演論的パースペクティヴ」によってこれを眺めれば、楽屋もまた舞台、そこに、上演という虚構に対する現実があるのではなく、そこでもつねに現実が上演されつづけているのである。私という自己をその上演の結果として見据え、京都という街を読み解いてゆくことはできるのだろうか。

 本書のオリジナルが刊行されたのは一九八七年、それから二十年の時を経てたこの文庫版のカバー裏にはこうある「近年の文化研究にも影響を与え続けている新しき古典」。
 八〇年代都市論ブームにおける本書が、こんにち、私たちが生き、私たちによって生きられる都市を問う上で、いまもなお有効であるのは、近代日本の盛り場の分析を通して、上のような視座をわたしたちに示してくれたこと、また、著者が高度経済成長以降の私たちを規定してきた状況を、つねに「明治以来の日本の近代化のひとつの帰結」として捉えようとするその足場の確かさによるだろう。
 「東京の山の手に住む平均的なサラリーマン家庭の子として生まれ」、「近くの公園や友だちの家の庭、あるいは工事中の環状八号線のアスファルトの上やその資材置場」を遊び場とし、「それ以前の世代ならば好むと好まざるとにかかわらず体験したであろう時代のドラマ」を共有しえない世代して、「原風景的なものを欠落させて」生きてきた著者が、本書を書き上げたのは三十歳のとき、あとがきにはこうある。

 「われわれの思想の質が問われるのは、いかにしてそうした所与としての「わたし」や「わたしたち」と対決し、それを乗り超えていくかという点においてなのだ。そうした意味では、おのれの生活史上の出来事に強いリアリティを感ずることのできた世代よりも、それらが最初から薄っぺらな虚構としてしか感じられなかった世代の方が、その彼方におのれを賭すに足るリアリティをもった世界を希求し続ける限りにおいて、戦略的に有利な位置にいると考えることも不可能ではない。
 いま、必要なのは、時代のなかでの自らの無力さについて語ることでも、おのれへの問いを「学問的」な言説のなかで脱意味化することでも、「わたし」の存在の不確かさを時代の表層との戯れのなかで忘却することでもなく、無力さの由来を明らかにし、われわれが生きることの根拠を、たんなる「時代」や「世代」を超えた関係の深みのなかに構想していくことなのだ。」


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