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2008年12月27日

『帰って来た猫ストーカー』浅生ハルミン(洋泉社)

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 世にあふれるあまたの猫本のなかでも、孤高の輝きを放つ猫エッセイの第2弾。

 自由とはなにかを知り、身の程をわきまえ、ただしやるときはやる! しかも気高く美しい。猫とは生まれながらにしてそうした美点を兼ね備えた生き物で、できることなら自分のそのようになりたいと願い、このちいさなけものと生活を共にしているのであるが、彼らはいつでも、こちらの思惑など関心の範疇にないらしい。
 そんなつれなさもまた猫のすばらしさ。家猫でさえ、ヒトのあずかり知らぬ猫の猫たる何かを決して受け渡してはくれないのだから、自由を謳歌する野性の猫のあとを追うことは、そのつれなさと、それでもありあまる猫への思いを我が身にしかと引きうけるということである。

 そんなことはじゅうじゅう承知の上で、浅生ハルミンは猫をもとめて出かけてゆく。郊外の住宅地に、都心の商店街に、東京湾岸の埋め立て地に、鎌倉の寺に。
 期待はしてはならない、そう簡単に出会えるものではないのだ。だけど、たとえ姿をみせなくても、猫はちゃんといるし、生きている。猫にしてみれば、猫ストーカーは猫世界への闖入者、だから彼女は、猫の時間と空間に気易く入り込んだりは決してせず、しかし猫があらわれそうな場所や瞬間や気配に全神経を注いで彷徨い、そして待つ。そのとき彼女はヒト世界の時間と空間、猫世界の時間と空間のあわいにいる。

 ヒトが、自分たちだけでなにもかも作り上げたと思っているあらゆるものは、猫にとってみればただそこにある自然にすぎず、彼らはそれを本能によって回避もすれば享受もしている。それがいいか悪いか、という判断はこれすべてヒトの勝手なのである。浅生はこういう。

 「猫を可愛いと思うのも、可哀想と思うのも、迷惑だと思うのも、どれも似ているような気がしてなりません。」

 ヒトは猫にまつわるあらゆる事象に、利害や好き嫌いや善悪や損得や功罪そのほかもろもろの価値基準によって判断を下し、それは社会や環境や動物愛護などの諸問題へと繋がっていくのであるが、そんなことは猫にとってはどうでもいいこと。この本にはそんな大それたことは一行たりとも書かれていない。ひたすら猫の追跡あるのみ。その、ヒト世界と猫世界の境目にある、緊張と安心がないまぜになったようなひとときを、読者もまた、猫をじっと窺う彼女の背後から息を殺してみまもるしかない。

 運良く、触ったり撫でたり、人慣れした猫が膝にのってきてくれることもある。けれど、この柔らかく伸びやかなふわふわの生き物は、いつだってヒトの手の届かないところにいる。何かしてあげているなどとは間違っても思ってはならない。猫を探し追い求め、出会ったとき、浅生はまるで猫と同等の生き物になったみたいにみえる。それでも残るヒトとしての彼女の思惑が、ヒトが最後まで捨てきれない人間らしさというものなのだろう。


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2008年12月13日

『恋と股間』杉作J太郎(理論社)

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「恋愛って修業ですよね」

 恋愛についての心構えから具体的な実践、めでたく恋愛が成就されてのちの問題の対処法からなる、恋愛&セックス論。ただし、絶望的にモテない男子用。

 彼女が欲しいが出会いがない、ならば、「親やきょうだい、親戚なんかにまずは頼んでみたらいいんです。……親やきょうだいだけではありません。小・中・高の学校の担任の先生、お世話になった保健室の先生、部活の先生、それから、ご近所の方々、会社の上司、檀家、交番のおまわりさん。」。
 きっといまどきの中高生男子なら、世代のちがういろいろな大人たちに「彼女が欲しい」と相談するなど、思いもよらないこと、というより、そんなまねはとてもできないと感じることだろう。
 それで、こうも考えた。もしも私が、親戚やご近所さんや友人の子どもといった、ほんのすこしでも関係のある男の子に、「彼女を紹介して欲しい」と相談されたらどうするだろうと。彼が切実に悩んでいたとしても、私は人生の先輩としてその悩みにどれだけ答えられるのか。かなり困ってしまうと思う。なんとも情けない話である。こんなことだから、人はみな、それぞれの世代やサークルや業界のちいさな世界だけがすべてだと思って、そのなかで行き詰まってしまうのだ。

 そうならないためにはどうしたらいいかの知恵が本書には詰まっている。たとえば、他人に弱みをみせる勇気をもて、男と女は決定的にちがう生き物であるからそのわからなさを受け入れよ、自分をメインにものを考えるな、などなど。すべてみな、恋愛にとどまらず、楽に生きていくための知恵としても採用できるものばかり。
 女性にとっては、男性とはいかなるものかという、いまさらながら納得せざるをえない事柄がたくさん書かれてあるため、私などは女としての我が身をふりかえり、反省することしきりである。
 「男に問い詰められて答える女性の答えやセリフは全部ウソ」とあり、ギョッとする。女性は日常的な場面でちまちまと相手の気持ちを推しはかろうとし、男性に面倒臭がられているけれど、男のほうがいざ核心をついてきたときに女の言うことはたしかにすべてでたらめである。すごいなあ、杉作氏、よくわかってらしゃる。「わかる/わからない」といえば、

 「……男と女がお互いに感じている『ちがい』、そして、そこからうまれる『わからなさ』は、きっとこれからも解消されることはないと思うのであります。
 だって、『わからない』部分が何にもなくなったら、恋愛も、それからセックスだって、みんなつまんなくなるじゃないですか!
 人はね、きっと、『わからない』ものにかかわったりすることが嬉しい生き物なんですよ。わからないなりに一緒にいようする、そういう『無理』に無上の喜びを見出して、自分の世界がたしかに広がったことを実感したい生き物なんです。
 『わからない』ものに対してこそ、ぼくたちの『思いやり』と『想像力』は試されて、鍛えられるんです。」

 とあり、たしかに恋愛は、こういうことが「わかる」ようになるための、かなりよいお稽古だけれども、恋愛以外の場面でもこうした考え方を採用できるようになるためには、人生の修業に終わりはないと思った。
 とりあえず、もしも中高生男子に「彼女を紹介したください」ともちかけられたときの答えを用意しなくては。今のままでは、では私ではだめでしょうか?と言いだしかねないので……。


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2008年12月06日

『丘の屋敷』シャーリイ・ジャクスン(東京創元社)

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「恐怖のありか」

 ヒロインのエレーナ・ヴァンスは、青春時代のほとんどを、つねに不機嫌で病弱な母の介護に捧げ、「ぬぐいきれない無力感と終わりのない絶望感にじわじわと押さえ込まれてきた」。そして母の亡き後は、「この世でもっとも嫌っている」姉家族のもと、窮屈な暮らしを余儀なくされているうえ、ひとりの友達もないという孤独な女性である。
 そんな彼女にとって、「丘の屋敷」への招待状は、自身では見当もつかずにいた「あたらしい人生」の門出を照らし出す一筋の光のごときものだった。

 『丘の屋敷』の原題は"The Haunting of Hill House"、つまりそこは、これまで借り住んだ人たちのことごとくが、短期間で去っていってしまうという、いわくつきの屋敷である。
 心霊学研究者のモンタギュー博士は、心霊現象の謎を学術的に解き明かすという野望をもって屋敷を借り、調査の助手として何人かの人間をそこに招いた。集まったのは、透視能力をもつセオドラ、屋敷の持ち主の甥であるルーク、そしてエレーナである。エレーナも、自宅の屋根に突然石が降ってくるという不可解な現象を子どものころに経験していた。

 この手の小説を読み慣れていない私が本書を手に取ったのは、おなじシャーリイ・ジャクスンの『ずっとお城で暮らしてる』(市田泉訳、創元推理文庫)を読み、この作者に興味をもったためだが、「超自然的要素」を排した恐怖小説である『ずっとお城で暮らしてる』とはちがい、『丘の屋敷』は常識では考えられない現象がつぎつぎとおこる。
 ある夏、モンタギュー博士をはじめとする四人の人間が、屋敷で経験するさまざまな「心霊現象」には、身の毛がよだつ、という譬えそのままの思いをさせられた。とはいえ、おそらく真の恐怖小説のほとんどがそうであるように、この小説のほんとうの怖さは、そうした怖ろしい現象そのものにあるわけではないだろう。

 モンタギュー博士は、いわゆる「幽霊屋敷」という呼び方を嫌う。それは、このことばから人々に連想されるあらゆる現象と、それらへの先入観からなるべく自由であろうとする学術的見地のためだが、はたして、彼ら四人の経験した「現象」は本当に"Haunting"であったのかどうか。そうとしか思えない音や振動、大量の血、突然あらわれる壁の落書き……。すべては、何も起こっていなかったといえばそうとも思われる。ただひとつたしかなのは、彼ら四人と、読者のなかの恐怖だけなのではないか。

 「幽霊屋敷もの」の古典と称される本書は、スティーブン・キングの『シャイニング』にも影響を与えたというが、ヒロインのエレーナ・ヴァンスの面影は、おなじキングの『キャリー』のヒロイン、狂信的な母親のもとで抑圧的に育った少女・キャリーとも重なる。
 物語の冒頭、いかなる恐怖が待っているとも知らず、窮屈な暮らしを抜けだし、束の間の希望に胸を躍らせながら、屋敷へと車を走らせるエレーナはなにより印象的だ。結末に辿りついたとき、ふたたびその彼女のドライヴを思うと、屋敷での出来事が「心霊現象」であったのがどうかは、ますますつかみどころのないものに感じられ、そのことがなにより怖ろしいのである。


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