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2008年10月13日

『セルフビルド SELF-BUILD 自分で家を建てるということ』石山修武=文・中里和人=写真(交通新聞社)

セルフビルド SELF-BUILD 自分で家を建てるということ →bookwebで購入

 「建物を建てている夢」というのを、子どものころからよくみる。とにかくよくみる夢なので、場所や状況や建てているもののバリエーションはさまざま、ただし私はいつもリヤカーのようなもので、建築現場に資材をえっちらおっちらと運び込んでいる(現実に建物を建てたことなどないので、実際の現場仕事をしている場面というのは登場しないのだろう)。いったい何のためにそうしているのか、という設定があるわけではなく、ただひたすら私は建てようとしている、しかもたったひとりでそれをしているのである。
 この夢が、私の深層心理とやらのなにをあらわしているのかはしらないが、本書に登場する創造物たちとその作り手たちの「現実」を垣間みると、ああそうか、これなのだなあ、と胸がすく思いがし、また真の意味で「表現」をする、ということの困難さが身にしみてくる。

「私たちは身の廻りの環境、衣食住のすべてを買い求める事に慣れすぎました。大量生産大量消費の世界に、目的もなく漂流しています。」

 消費することにあけくれてさまよう私たちが失ってしまった「目的」とは、「自己表現、すなわち自分の意志を全うしようとする意志のこと」だと著者はいう。それは「モノを作る」ということでもあり、それこそが「生活」なのだと。この段でいくと私には「生活」もなければ「表現」もない、いうことになってしまう、ああ耳が痛い。

 「セルフビルド(自己表現としての生活術)は、それに対して、まず、それぞれの人間の生に、つまり生活にこそ総合(全体)を見てゆこうとする技術の在り方です。(略)日々の生活の中に常に自己表現の方策をつくり込もうとする方法です。できるだけ消費のサイクルから自律を具体的に求めようとする事でもあります。」

 それら、自己表現としての生活術のあらわれとしてのかずかずの事例が紹介されているのが本書である。

 日本一周を夢みる若者が作った「モバイル電化ハウス」。ごろりと大地に転がる巨大なドラム缶のような「河合邸」。現代版・方丈庵ともいうべき、隅田川べりの「完全0ハウス」。その時は町全体が劇場と化す栃木県烏山町の「山あげ祭」。日本のシュヴァル(?)が二十余年かけて作った私設の「貝がら公園」。十勝の雪原に浮かぶビニールハウスのレストラン。寺院を使った施設のなかに居住するひとびとが、それぞれのちいさな生活空間を作るネパールの「死を待つ人の家」。カンボジアとひろしま市との交流がうみだした、集団によるセルフビルド(五階建ての建物をレンガ積みで!)「ひろしまハウス」。
 セルフビルドとひとことでいっても、そのありかたはさまざま、「本当の多様性は市場にとって効率が悪い」のであるからして。

 それにしても、生きる上での自由度が増せば増すほどに、孤独度もまた増すようにみえる。日本という国ではことにそうなのではないか。たとえば、羽田空港ちかくの海上にいくつかの船をつないで暮らす海上生活者が登場するが、「ここには、いまだ在った都市の辺境、自在な水上生活といったなまっちろいロマンチシズムは何も無かった、出会ったことも無いような荒涼たる孤独があった。」。
 この水上生活者が、その船上でのくらしに辿りつくまでの経緯を、著者はあえて深くは聞かない。それをすることは、セルフビルドを推奨する建築家の仕事からははみ出るということなのだろうか。
 このように、建築や生活や環境や社会や経済の問題のみならず、自由ってなに? 幸せってなに? といったひとの生きかたについての問題、あるいは芸術や信仰についての問題と、セルフビルドという軸の上にさまざまな事例をならべることで、物事に対する考えの道すじが、この本のなかにはいくつもひらかれることになる。

 ところで、セルフビルド、ときいて私がまず思い浮かべるのは、鴨川の橋の下にならぶ、ブルーシートに覆われたホームレスハウス群である。どこかで拾ってきたのであろう家具が工夫してならべられ、河原の緑そよぐ芝生の上では、のら猫の親子が眠っている。日当たりのよい午後などに通りかかると、それはとてつもなく平和な情景にみえるのだが、それはおめでたい感想というものだろう。
 高度経済成長いぜんの日本は、貧しかったが街並みは美しかったと本書にはある。江戸末期、世界でも稀な基準に達していたといわれる大工職人の技能は、日本の民のセルフビルドの技術体系の中心にあったのだという。しかし、安価で質の高い住居をうみだすことのできたかつての日本の伝統は、市場至上主義の荒波によって根絶やしにされ、かくしてひとびとは商品としての家を「買う」ことによってしか、自らの住空間を獲得できなくなってしまった、というより、家というものは、なによりまずお金とひきかえに手に入れるものだと思うようになってしまった。
 そうした社会の枠組みからははずれた人たちの住空間に、なによりセルフビルド魂を感じてしまう私なのであるが、さて我が身辺をみわたすと、なにひとつセルフビルドしてもいなければ、表現もしていないのだとまたもや気がつく。自分がどう生活したいか、というところから生きかたをたちあげたいとつねづね思ってはいるが、いったいなにから手をつけていいのやら。

 本書のまえがきに「想像力じたいの資本主義社会化」ということばがでてくる。これは、ここに取り上げられたセルフビルドの事例が、こんにちのグローバライゼーションの環境像とはあまりにもかけはなれていることに対し、これを「奇妙なユートピア主義の産物」とみなそうとする考え方を指していわれたことばである。私はそのようには決して感じておらず、作り手たちの精神をすこしでも見習いたいと願うことしきりなのであるが、一方でおそらく、どっぷりと資本主義社会化した想像力や感性も持ち合わせているとも感じるのである。まずはこのあたりからあらためていく必要がありそうだ。
 ところで、「自己表現のガイドブック」を謳う本書。「どれ一つ似たサンプルは無い」事例は、読者それぞれがその「才覚や情熱の多寡」におうじて道しるべとすればよい、とある。たしかに、「荒涼たる孤独」とひきかえに自由を手にしよう、とするひとはなかなかいないだろうし、一方、共同体のゆるやかな連帯をはかれるような店舗をセルフビルド、というのなら、やってみたいな、というひとはたくさんいそうだ。ところで、「どれ一つ似たサンプルは無い。これも実に大切な事です。読者の皆さんもまた、誰一人同じ類型の人間は居ません。皆、かけがえのない地球でたった一人の尊厳の持ち主です。」と臆面もなく言い切られると、そういう考え方も、近代の消費主義経済社会の産物のひとつなのでは、とふと思ってしまうのであった。


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