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2008年08月15日

『婚礼、葬礼、その他』津村記久子(文藝春秋)

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 葬式というものは「ハナシ」になりやすいだけに、小説にはさぞ書きづらいだろうと思いながらも、タイトルに惹かれて手にとった。

 主人公・ヨシノは作家と同年代の会社員。楽しみにしていた連休の旅行をキャンセルし、友人の結婚式のスピーチと二次会の幹事を引きうけるが、あわただしい式の会場で、勤め先の上司の父親が亡くなったとの連絡を受け、やむなくその通夜にかりだされる羽目となる。

 「人を呼ぶということは、一種の賭けであり天分なのだ、とヨシノは小学生の頃、祖父母と誕生日のケーキを食べながらぼんやりと考えていた。自分が呼んだからといって人は必ず来てくれるものなのだろうか。」

 ヨシノが生まれたとき、父親は産院にやってきてくれなかった。のちに両親は離婚、土日も働く母のかわりに、祖父母に面倒をみられて育ったヨシノは子供のころ、お誕生日に友達を家へ招いたこともない。
 そういう生い立ちのためか、人を呼ぶということに慣れていない、というより、人を呼ぶ才能がないと思っているヨシノだが、世間のならわしはおかまいなしに彼女を呼びつける。

 「顔も知らない人間が、死んだということで大量の人間を召喚する。たくさんの人間を呼べるといえば結婚式もそうだろうが、新郎新婦の両方について一切を知らずに参列することはない。少なくとも名前ぐらいは知っている。しかしヨシノは、マジマ部長の父親の名前など知らないのだ。」

 見ず知らずの故人を恨みつつ、「しがらみに負け」て通夜へと駆けつけたヨシノ。とはいえ、人手はじゅうぶん足りており、手持ち無沙汰。何もすることがないのに、そこにいなくてはならないという苦痛。くわえて、朝から何も口にしていない彼女を空腹が襲う。そんななか、会場のトイレの個室から携帯電話で結婚祝いのスピーチをしたり、故人をとりまく人間模様を垣間見たりのヨシノ。
 故人にまったく愛着を感じていないらしい孫娘は、彼女にこういいつのる。「なんで葬式ってやんないといけないんですか」。

 「そんなこと言われてもなあ、と思う。人が亡くなるのは大変なことだし、生きている者が偲ぶだとか見送るだとかすること以上に、ただもう死者のためにやらなければいけないことだ、それが生きている者が亡くなった人にしてあげられる最後のことだから、とヨシノは考えている。祖父母の葬式の記憶を呼び起こす。あんなにいろいろやってもらったのに、何もしてあげられなかった。その時に自分の本当のふがいなさを知った。親族が亡くなって呆然とする遺族にやることを与えて、悲嘆に押し潰されないようにする、というのも、葬式をやる理由の一つだと聞いたことがある。」

 ヨシノを「召喚」した故人は、それほど遺族を悲しませていないようだが、葬式は、人の死に遭遇した者たちにとって、緩衝材のような役割も担っているだろう。
 また、祝儀にも不祝儀にも飲み食いがつきものだが、葬式や通夜における「お供養」もまた、食事をするという日常的なふるまいによって、非常時の昂奮を解きほぐすためのものではないか。そう考えると、弔いのセレモニーのさなかでひたすらお腹を空かせているヨシノは一種の極限状態に置かれているといえる。

 と、こう書くといかにもシリアスな物語のようだが、筆致はどちらかといえばのほほんとしていて、タイトルからカフカ風のド深刻不条理ドラマ、でも読みようによっては爆笑、といったおはなしを期待した読者としては、ちょっぴり残念ではある。
 けれども、終盤、ヨシノに訪れたカタルシスには心底共感。おなじような経験をしたことのある人はおおいのではないか。弔いか、遺された者のための知恵か、おそらくはどちらも方便なのだろうが、そのあたりをつっこみすぎないところもこのおはなしの美点だろう。 


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