« 2008年03月 | メイン | 2008年06月 »

2008年05月14日

『ポケットは80年代がいっぱい』香山リカ(バジリコ)

ポケットは80年代がいっぱい →bookwebで購入

リカちゃんの80年代


 「私は、リアルタイムで『HEAVEN』にかかわり、「ゼビウス」で徹夜し、ナイロン100%で勉強してパルコの「モダーンコレクション」のステージにも上がった。というしょうもない自負心。それがどうした、と言われれば、どうもしないのだが、「わかってくれる人にだけわかってもらえればそれでいい」という排他的なその自尊心は、いまだに私も捨てられない。バブルの洗礼を受けていない80年代文化を生きていた、という感覚は、いまだに私の神経の奥深くに潜んでいて、宿主の体調が悪いときに活動を始めるヘルペスウィルスのように、ときどき突然、グニョグニョと動き始めるのである。」



 こう書かれても、「HEAVEN」?「ゼビウス」?「ナイロン100%」?「モダーンコレクション」って??? という人はたくさんいる、というよりもそちらのほうが断然おおいのでは?

 本書は、本編、中沢新一との対談「『ニューアカ』と『新人類』の頃」、「バブルより速く――長めとあとがき」の三部で構成されているが、引用したのはあとがきの締めくくりである。
 ここで香山は、さまざまな「80年代」論を引きながら、なにを持ってして「80年代的」であるとするかは人それぞれであると書いたあと、彼女にとってのそれは、バブル契機の引き金となった85年の「プラザ合意」以前の80年代だとする。「狭量で排他的でマニアックで、下世話と高貴、コマーシャリズムとアカデミズムの垣根を取り払おう、という当事者たちの姿勢は一応、あったものの、今から思うと十分に高踏的」であり、「自分たちはアンダーグラウンドにいるのではなく、時代の先端にいるのだ、というある意味幸福な錯覚だけは、誰もが持っていた」時代、それが香山の「80年代」だった。

 そのころ大学生であった彼女の「自負心・自尊心」は、私という読者にとってはじゅうぶんに有効である。著者より十年あとに生まれた私がカルチャーなるものに目ざめたとき、ここに登場する人びとのなかには、すでにそれぞれの世界で活躍している人がたくさんいたし、お店やバンドや雑誌やイベントなど、その他の名詞の数々も、すこし前の「伝説」として語られていたし、本書の帯のいうところの、「サブカルチャー勃興期の現場」と、その「おしゃれでキュートでアヴァンギャルド」な世界に憧れて青春時代をすごしてきたから。

 高校生時代から憧れていた「工作舎」に出入りするようになった香山だが、松岡正剛を信奉する周囲のひとたちとはなにやら温度差を感じ、そんなとき、山崎春美の誘いで『HEAVEN』の編集にかかわることになる。 
 編集部兼山崎の自宅である渋谷のマンションにはさまざまなひとたち――おなじく『HEAVEN』の編集をしていた野々村文宏や、町田町藏、佐藤薫といったミュージシャン、山崎のとりまきの美女たち――が出入りしていたが、彼等とことさら親密になるのでもなく、徹夜で編集作業をしても、朝になればしっかり大学の授業に出かけてゆく。
 とはいえ、大学でも、至極まじめな学生か、「クリスタル族」風の坊っちゃん嬢ちゃんたちに二分されるクラスメイトとは話もあわず、まったくなじめていない。

 あとがきでは、「バブルの洗礼を受けていない80年代文化を生きていた」ことへの、いまだに捨てきれない「自尊心」について述べ、また、サブカル誌編集と医大生、その二重生活はかなりタイトであったろうと思うのだけれど、本編では、「あのころの私ってこんな風だったのよ」的なたかぶりがない。そのころ、どちらの場所にもがっちり根を下ろすことができず、なんとなく浮いていたという、そのたよりなさが、正直に語り口にあらわれているところがいい。「長めのあとがき」なんてむしろ必要ないのでは、と思うくらいなのだけれど、これは職業柄というものなのか、どうか。


→bookwebで購入

2008年05月07日

『エッセンス・オブ・久坂葉子』久坂葉子 早川茉莉・編 (河出書房新社)

エッセンス・オブ・久坂葉子 →bookwebで購入

エッセンスのままで逝った人

 カバー袖にある、スカーフで髪をくるみ、上目遣いに頬杖をついた写真からは、このひとが二十一歳の大晦日に終電車に飛び込んだとは思えない。冷たい夜のプラットフォームよりも、真夏の海辺のほうが似つかわしいようなこの表情ははたして、久坂葉子の偽りのない彼女の資質からのものだったろうか。

 「淀んだ血」と題された三つの小品がある。

 「私は嘘をつくことが、どんなに便利に簡単に、人をたのしませるものだか知っていた。」(「淀んだ血A」)。

 家族をよろこばせ、その愛を受けるための、幼い娘・由布子の嘘。長じてそれは、彼女にとって「安息の地では決してない」家庭内で生きていくための技術でしかなくなる。エリート主義で、子どもたちが望み通りに成長しないことに我慢のならない父親に対してはことに、彼女は自らのありのままの姿を決してみせることをしなかった。

 「御機嫌取り、由布子の嘘は、殆ど毎日くりかえされ、父は由布子一人をわが党のものだと信じていた。父は、自分の教育の仕方に絶大な自負心をもっていた。そして、由布子を、自分の類型のように仕立てあげようとし、又それにほぼ成功し得たと思っていた。」(「淀んだ血B」)

 「由布子」と「父」の関係はそのまま、作家久坂葉子の父娘のありようを映したものである。
 遺作とされる「幾度目かの最期」でもそれは語られる。その大半は、死の直前までの、三人の男性のあいだで右往左往する彼女の心の揺れ動きが綴られ、結局彼女は、愛というもののなんたるかをわかりかねたまま逝ってしまったように私にはみえるのだが、そんななかで、自分の「キジ」(生地)を決してみせず、「真実を語り合うことをよして」しまった父親への憎しみとあきらめについては、その筆が妙にくっきりとしているようなのだ。彼女がすこしでも、父親への絶望の確かさを疑うことができさえすれば、〈恋愛感情のもつれ〉など容易に解けたのではないか。

 解説によれば、本書は本来「ベスト・オブ・久坂葉子」を目論んでいたという。それが「エッセンス・オブ・久坂葉子」として編まれたのは、主要な作品のつらなりからはこぼれ落ちてしまう数々の「きらめく掌編」たちが、さらに彼女の作品を読むためのきっかけとなることを願ってのことだという。

 思えば久坂葉子は、エッセンスそのもののままで人びとの前から姿を消してしまった作家ではないか。銀の匙をくわえて生まれ、諸芸に親しみ、それぞれに才能を発揮し、小説では十九歳の若さで芥川賞の候補となり、死にとりつかれ、またたくまにいなくなってしまったひと。その、「きらめきの一粒一粒」を思いのままに味わう読者が、それぞれの久坂葉子を醸成させてゆけばいいのかもしれない。

→bookwebで購入