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2008年03月06日

『ティファニーで朝食を』トル-マン・カポ-ティ 村上春樹訳(新潮社)

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「ホリー、ホリー、ホリー!!!」

 ここ数年の新訳ブームのなか、サリンジャー、フィッツジェラルド、チャンドラーらの「名作」を満を持してとばかりに訳出してきた村上春樹だが、なにより私が「村上訳」を願ってやまなかったのが本書である。

 「遠い声 遠い部屋」のアイダベル、「ミリアム」のミリアム、「誕生日の子どもたち」のミス・ボビット。あまりにも純粋、そのためになにかといきすぎでいびつ。だからこそ、途方もなく魅力的なカポーティ描く女の子たち。なかでも「ティファニー」のホリー・ゴライトリーはきわめつけのヒロインであり、私が小説のなか出会った人物のなかでも特別の存在である。だから、いつか彼女が、村上春樹の手によってあらわされる時がくればと待ちこがれていたのだ。

 気まぐれに染めたまだらのショート・ヘアはくしゃくしゃ、体は子鹿みたいに細く、サングラスで隠した眼はやぶにらみがかっている。こざっぱりとした着こなしはかなりおしゃれで、しかもそれが、目についたものを無造作に着ているふうなのが憎らしく、でもそのへん、じつは計算しているんじゃない? とも、こういう人は何を着てもきっとさまになるんでしょうね、ともつかないところがさらに憎らしい。行き当たりばったりかと思えば、誰にもゆずれない独特の流儀がある。複雑にも単純にもみえ、おおくの人から良くも悪くも誤解され、彼女のほんとうは誰にもわからない。こんな女の子に実際にであったら、我慢できずに毛嫌いするか、胡散臭いと危ぶみつつ、この子のことをわかってあげられるのは私だけ、と情けを掛けて結局裏切られるかのどちらかだろう……。と、私のホリーのイメージはこんなふうである。ほんとうはまだまだ言い足りないホリーの魅力なのだけれど、これからはじめて「ティファニー」を読むひとにとっては迷惑かもしれないのでやめておこう。

 迷惑といえば、「ティファニーで朝食を」というと、多くの人にとってはヘップバーン主演の映画のイメージが強く、そのためにカポーティの原作が被っているであろう迷惑について、訳者はあとがきでこう書いている。

 「おかげで今となっては、主人公ホリー・ゴライトリーについ、オードリー・ヘップバーンの顔が重ねられてしまうことになる。これは小説にとってはいささか迷惑なことであるかもしれない。というのは、カポーティは明らかに、ホリー・ゴライトリーをオードリー・ヘップバーンのようなタイプの女性として設定していないからだ。カポーティはヘップバーンが映画に主演すると聞いて、少なからず不快感を示したと伝えられている。おそらくホリーの持っている型破りの奔放さや、性的開放性、潔いいかがわしさみたいなところが、この女優には本来備わっていないと思ったのだろう。
 だから翻訳者としては、本のカバーにはできれば映画のシーンを使ってもらいたくなかった。それは読者の想像力を結果的に狭めてしまうことになりかねないからだ。『ホリー・ゴライトリーという女性は一体どんな姿かたちをしているんだろう?』と一人ひとりの読者が、話を読みすすめながら想像力をたくましくすることが、このようなタイプの小説を読むときの大きな楽しみになってくる。ホリー・ゴライトリーはトルーマン・カポーティが、そのフィクションの中で創り上げた、おそらくはもっとも魅力的なキャラクターであり、それを一人の女優の姿に簡単に同化してしまうというのは(当時のオードリー・ヘップバーンが魅力的であることはさておいて)いかにももったいない話しであると僕は考える。」

 「ティファニーで朝食を」というタイトルは、ヘップバーンの映画として子どものころからいつのまにか知っていた(たぶん最初は、昭和の家庭にありがちなレコード、洋画のサウンドトラック集で目にしたのだと思う)が、小説のほうを先に読んだ私である。映画は、いちおう観ておいたほうがいいかな、くらいのノリでビデオ鑑賞をし、ストーリーはもちろん、ヘップバーンのホリーがまるでホリーでないのを、そんなことだろうと思いつつ、やっぱりそうか、と確認した感じだった。(ちなみに村上春樹は映画について、あれであれでいいのだ、というふうに言っている。まあ、そうなんだろうと思う。)
 だから、ヘップバーンの姿によって「想像力を狭められる」ということは決してないのだけれど、とにかくホリーに入れ込んでいる私なので、村上訳によるホリーへの期待はいっぽうで、不安ももたらした。もしも、私の持っているホリーのイメージが壊れたらどうしよう。

 一読して、それはとりこし苦労だったと判明するが、作品全体に関していうと、龍口直太郎訳の新潮文庫版に親しんだ者にとっては、「ティファニー」ってこんなにするすると読めてしまうものなのかしら、と、うれしいような、拍子抜けしたような気持ちになった。一九六六年に出された龍口直太郎訳は私には読み辛いものだった。けれども物語を追ううち、いくつかの、声をあげそうになるような美しい、あるいはかなしい瞬間に出会い、ホリーに魅せられ、彼女がどんな人物なのだろうと想像を膨らませることができたのだから、カポーティの作品のちからはじゅうぶんに伝えられていたと思う。
 ただ、この文庫版「ティファニー」の読み心地、断片的で、とりとめのない感じが、作品のそのものの印象と混同されてしまっていたかもしれない、とも思った。語り手の回想として書かれているホリーのなりゆきは、断片的であるといえばそうなのだけれど。おそらく、村上訳の読み心地のなめらかさは、語り手のキャラクターを、訳者がかなり明確に意識していることによるのだと思う。そう、瀧口訳となによりもちがうのは、ホリーは当然のことながら、語り手である「僕」のキャラクターもまた印象的に読者に迫ってくるところだろう。

 ところで本書のカバーは、ティファニーのパッケージを模した、ミントブルーに金色の縁取りに、ホリーの部屋に棲む「名無しの猫ちゃん」のイラストレーションをあしらったもの。女の子の本棚には欠かせないアイテムになりそうなかわいらしさである。まさかいまどき、ヘップバーンをカバーに持ってくるなどという野暮なことを新潮社装幀室がするわけがないのだが、ちょっと、きれいにまとまりすぎているような気もする。私が最初に読んだ文庫版「ティファニー」の、ジバンシィのドレスにサングラス姿のヘップバーンという、映画館の看板みたいなカバーのほうが、どうかすると、めぐりめぐってカポーティー描くホリーのいかがわしさがあらわれているようではないか……。そんなふうに、何重にも考えをめぐらせては、語り尽くせないホリーの魅力なのである。できることなら、語り手の「僕」とともに、ジョー・ベルのバーでホリーについて語りあってみたい! これは、村上訳に接しての、新たな感想である。


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