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2007年10月31日

『戦後腹ぺこ時代のシャッター音 岩波写真文庫再発見』赤瀬川原平(岩波書店)

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「単純で切実で実直」

 学生のころはカメラをぶら下げて歩いては写真を撮り、現像と紙焼きまでしていたのに、いまではすっかり写真ばなれしてしまった。思えば、デジタルカメラがあたりまえになるにつれて、写真を撮ることも、またみることも少なくなった。いつもデジカメをかばんに入れて、こまめに撮りためている人をみるとマメだなあと感心するが、私はどうしてか、写真というのは光を定着させたネガから印画紙へとうつしとられたかたちのあるもの、という感覚が心にも身体にもこびりついているらしく、データとしての写真画像にあまりありがたみを感じられないのだ。

 いま映像に触れることは、赤瀬川原平風にいえば「空気感覚」なので、それも私の写真ばなれの一因であるだろう。今日、散歩の途中でまるで秘密の花園のようなすてきな庭園に足を踏み入れ、あたりの木々や草や地面の落ち葉や木の実やコケにみとれて陶然となり、携帯電話のカメラでそれらを写そうと思ったが結局やめた。そんなふうにしていたずらにデータをためこむより、自分の眼でみているほうが気持ちがいいような気がした。きれいな(きれいだからいいというわけではないのだが)植物の写真などちまたにありあまるほどあるのだし、それよりこの雑草はなんていう名前だったか、家に帰ったら植物図鑑で調べようとなどと考えた。
 思えば、せっかく現実の植物に触れているというのに、これまでみてきた、あるいみることのできるであろう頭のなかの映像をあれこれと検索していることじたい、情報の海に浸かっている証拠で、したがって肉眼でものをみるという私の体験の純度は低いのではないか。さらには、実体験の純度などとつべこべいうことじたいがすでに頭でっかちということになるのだろう。赤瀬川源平はいっている。人びとがごはんだけでなく、活字にも映像にも飢えていた時代があったのだと。

 「『岩波写真文庫』は,朝鮮戦争勃発直前の1950年6月にスタートし、『物語る写真』『眼でみる百科』などのスローガンをかかげて、8年半に286冊が刊行された。各冊ワンテーマで200枚前後の写真を詰め込んだこのシリーズは。いまや50年代画像の宝庫と位置づけられる。」
 岩波書店のHPにあった、この秋、赤瀬川源平の選によって復刻された「岩波写真文庫」の解説である。いまとなっては五十年代の画像の資料であるこれら文庫の写真たちは、当時の写真映像に飢えた人びとにとって、生きた情報の貴重な源だったのだろう。写真というメディアと人びとの写真への欲求が、いまとくらべてとてもシンプルなかたちで折り合っていたのだ。赤瀬川原平はそんな時代の写真をめくりながら、写真画像から腹ぺこだった少年時代の暮らしのさまざまを思いおこす。

 たとえばアメリカ人の生活を捉えた『アメリカ』(1950年刊)では、毎朝配達された朝日新聞の漫画『ブロンディ』で、ストーリーよりもそこに描かれた電気製品や自動車や大きな家に目を奪われていたこと。電化製品と電気のイロハを解説する『家庭の電気-実際知識-』(1956年刊)では、ラジオの雑音をなんとか消そうと、叩いたり、横向けにしたり、裏側の機械の部分を感電しはしないかと恐れながら触っては、野球の中継をきいていたこと。靴を履いた足のレントゲン写真で理にかなった履き物を解析する『はきもの』(1954年刊)では、中高生のころは下駄履きで、はじめて買った靴は窮屈で結局履かなかったこと。
 捕鯨船が英雄視され、排気ガスのかわりに道ばたには馬糞が転がり、たいていの人のお腹のなかには蛔虫が棲んでいた時代。写真映像とそれへの人びとの欲求がそうだったように、世の中のあらゆるものごとと人との関係がいまよりずっと単純で切実で実直だったその時代の空気に触れ、当時を懐かしむ一方で、ものごとが複雑でみえにくくなっているいまを省みる。


 「この時代にまだ『自由』は遠く輝いていた。でもその『自由』が思わぬ方向にねじれていくというマイナスの未来は、まだ想像されてもいない。」

 「…馬が、この本の出た時代にはまだ日常の町のあちこちにいたのだ。馬糞を落として、よだれを垂らして、汚いけれど、それしそいうものだと思われていた。仮にいま、自動車が全部馬と荷車に変ったら、人々の気持ちもまるで生き返るのではないかと、夢想する。」

 「いまの世の中は頭脳社会となって、各論的に進化はするが、総論が見失われて、すなわち肉体が失われている。でも結局は人間として、人体として生きているのだから、世の中はいずれ見失った肉体を求めて、極言すれば蛔虫的環境を探し求めてゆくのではないか。」

 赤瀬川原平というとすっかり「老人力」の人だけれど、その彼の表現のからくりのもとのもとには、前衛芸術家出身から紆余曲折を経てトマソンの発見という経緯があり、あれは思えば、複雑でみえにくくなったゲイジュツなるものの核の核の部分を丹念にほぐして明るみにだそうするなかでの瓢箪から駒的な仕業であった。しかしこの「岩波写真文庫」の写真たちは、そういう作業をする余地がないので、カメラ好きとしても知られ、写真にまつわる著作の多い彼も、ただそこに閉じこめられた単純で切実で実直だった人びとの暮らしの空気を吸い込み、そのころを思い出すばかりなのであった。いたるところで彼は、当時とひきくらべていまの状況を寂しい、と書いているのが、なんだか寂しい。


「この時代の写真はもちろんモノクロが普通で、カラーなんてとんでもなかった。素人でも写真をやるとなると、暗室を作って、自分で現像焼付をやる人が多かったはずだ。この暗室作業というのがなかなか神秘的なもので、面倒ではあるけど、それがまた写真の価値を高めていた。いろいろ面倒な苦労と失敗を乗り越えて、神秘を潜り抜けて、やっとあらわれる写真は、いまの論理でいう映像とはちょっと違う。写真はいまよりもっと無骨で強い力をはらんでいたように思う。」


 便利さと快適さが極まるにつれて、あらゆるものごとが複雑でみえにくくなり、だからありがたみもなくなる。私の写真ばなれもまさにそういうことなのだった。


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2007年10月26日

『大大阪モダン建築』 監修:橋爪紳也 編著:高岡伸一・三木学 (青幻舎)

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「大大阪ふたたび」

 京都在住の私にとって大阪は近くて遠い街である。出かけるのは月にいちどあるかないか。しかもたいてい、用事を済ませてしまえば寄り道するでもなく帰路についてしまう。京阪電車の特急で五十分、この、いつでも行けるという近さのために、あらためて大阪を遊ぼうという気になれないでいたのだが、本書をめくるうちにその思いもあらためられた。
 東京を凌ぐ世界の商都して、大阪が「大大阪」と呼び習わされたのは大正末から昭和十年代。その、モダンシティ大阪を彩った建築たちを中心に、近代以降の西洋建築が紹介されるこのガイドブックと共に、大阪の街を歩いてみたい。

 巻末にある地図を見てあらためて知ったのだが、私が大阪へ行くさいにまず出る京阪の淀屋橋駅や北浜駅周辺はとくにモダン建築の数多く点在している界隈である。建築の見方、街の歩き方の手引きには、これまでこれら大阪のモダン建築が「観光資源として自覚されることがなかった」のは、たとえば「神戸の旧居留地や北野の異人館、京都の三条通りと違い、街並みを作るほど両隣に揃っていない」ためとあるが、いつだったか、このあたりを行く先を探しながらタクシーでぐるぐると走りまわったことがあり、そのときの、自動車のスピードで眺めた大阪の街の印象は、古い建築が多くてかっこいいなあ、というものだった。
 本書にある戦前の建築だけでなく、戦後に建てられた大小のビルにもいいものが大阪にはあり、さまざまな時代の重なり合いがうみだしている雑然さまるごとが、こぢんまりとまとまった京都の町を見慣れた眼には大阪的なものとして映るのだ。

 紹介された建物のなかには、眼になじみのあるものもいくつかあるが、その内部にまで入ったことがあるのはわずか。本書の但し書きにもあるが、現在オフィスとして使われている建物は、基本的に内部の見学はできないことが多いらしい。どちらかというと外観よりも内部のディテールを味わいたい私には残念なのだが、なかには申し込めば見学することのできるところもあり、そうした情報も本書では知ることができる。くわえて、カフェやレストラン、ギャラリーなどが設けられているかどうかの記載もあるのだが、詳細がないのが残念なところ……ああ、なんだかすっかり観光気分になってきてしまった。けれども、大阪は行くより暮らすほうがずっと楽しい街のような気が、京都はその逆だと思っている私にはする。

 本書は、2004年の旧三井住友銀行船場支店の解体をきっかけに、「消えゆく近代建築に意義申し立て」、「大大阪の近代建築の再活用を大阪の街づくりの基盤」としようという「大オオサカまち基盤」というグループのメンバーが中心となって編まれた。グループはこれまで、数々の調査やシンポジウム、イベントの開催を遂げてきており、その活動をざっと見渡しただけでも、大阪人がうらやましくなってくる。
 本書の監修をとつとめ、近代化遺産が取り沙汰されるようになった九十年代に先駆け、街と建築をめぐる「大阪の近代」を追いかけてきた橋爪伸也氏は、このグループの「ご意見番」でもある。

 大大阪の遺産を、街のなかでいっそう生きたものとしてとらえ、暮らしのなかになじませてゆこうという彼らの活動の今後が楽しみである。グループのHPに、「大阪の近代美術館が、数十カ所の近代建築のホールや一室に分散していて、街じゅうを歩きながら一つの展覧会を見る」という近代建築活用の提案があったが、そういうことが可能な街の機構を大阪が我がものとすることができたらすばらしいと思う。かたちのあるものを壊し、新しいものを拵えてゆくことばかりでは、都市はいつまでたっても成熟しないと、みんなもうとうに気づいているではないか。


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2007年10月22日

現代詩文庫『続・渡辺武信詩集』渡辺武信(思潮社)

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「詩でなければならないとき」

 詩人であるとは知っていたが、渡辺武信を読んだ最初は彼が建築家として書いたものだった。住宅に関する本を好んで読んでいた一時期があり、借家住まいで、家を建てることなど夢のまた夢、それは今も変わっていないが、その頃の私はまだその夢を夢として無邪気に心に描くことができた。
 そうして読んだ本のなかでも彼の『住まい方の思想』にはなるほどなあと思わされ、その続編である『住まい方の演出』『住まい方の実践』もたてつづけに読んだ。ただ、著者のすてきな自邸の平面図を示されながら云々されるうち、私の「お家」への夢が、たよりなく空を漂うしぼみかけた風船みたいに思えてきたのもたしかで、しかし、この人の、ただ住宅に関してだけでなく、生活の根本にたいする考えかたには共感した。そのあと、彼のこれはかなり古い著作だが、『大きな都市小さな部屋』(鹿島出版会、昭和四九年)を読み、その思いはいっそう強くした。


 「“快適さ”がどこか後ろめたいのは、それがなにか根本的なものを捨象することによって、はじめて実現したものであるからだ。快適な個人住宅より、もっと後ろめたいのは、快適なオフィスと言ったような代物である。快適に働ける空間と言うものはたしかに存在し、その中にいればぼくだってその快適さを実感するのだが、その感覚は、労働の社会的な意味が切り捨てられたところで成立する。だいたい快適に働くとは、能率よく働かされることに過ぎないのではないか?

 別の言い方をすれば、そもそも真の“快適さ”ということが人間に対して拒まれているので、なにかを捨象することによって虚構的な快適さを手に入れる他ない、というのがぼくたちの状況であろう。いや、それは、いつの時代にもそうであったのかもしれないが、今日の日本ほど、その虚構性があからさまになった時代はない」。(「いま建築に何が問われているか――行為としての〈建築〉の仮象性」 『大きな都市小さな部屋』所収)


 古本屋でみつけた六十年代の建築雑誌など眺めて、こんなお家に住みたいわ、などと「お家」へのキラキラとした夢を抱きつつ、それにどこかしっくりこない感じもまたもっていた私だったが、それは、一方で、自分がほんとうにこれだと思える暮らしがどういうものなのか、その頃の私がかなり真剣に考えようとしていたためでもあった。まるはだかの自分というものが、どのように住まうのかを自身に問うことは、生きるしかたに目を凝らすということであるだろうと。しかし、渡辺武信のいうように、生まれながらにして「虚構的な快適さ」のなかに浸かっている私に、まるはだかの自分などというものはありえないのである。「お家」を夢みることへの私の違和感はつまり、「虚構的な快適さ」のなかでさらなる快適さをを求めることへの後ろめたさであった。

        *

 この夏刊行された『現代詩文庫 続・渡辺武信詩集』は、詩人としての渡辺武信の著作としては二十七年ぶりのものとなる。一九七〇年刊の『現代詩文庫 渡辺武信詩集』に未収の詩篇、デューク・エイセズのアルバムのために書かれたいくつかの歌詞、エッセイと詩論を収録。解説は松本隆と荒井晴彦、裏表紙の推薦文は佐野史郎が担当しており、この名前のならびに、渡辺武信の詩に影響を受けた世代というものを、私ははじめて目の当たりにした。
 住むこと、暮らすことへの関心から渡辺武信を知り、さかのぼってその詩に私が接したのは九十年代も終わりのころである。そのとき、彼は詩作から遠ざかってずいぶんひさしい人であった。お家を設計するのに忙しくて、詩を書く暇がなくなってしまったのだろうなあと、かなり遅れてきた読者である私は彼の詩を読んだのである。そのとき、自分がものごころろつくよりまえにうみだされたそれらのことばに出会うまでの歳月と、詩を書かなくなっても、いぜんとして彼の詩人と建築家とをひとつづきのものとしている(と私が思いたい)彼の歳月とがともに背後に連なっているのを私は感じた。

        *

 「詩に対応する現実がない、などと言うことはあり得ない。詩に、というのがやや曖昧に過ぎるとしたら、詩を書きはじめる契機には必ず対応する現実がある。
 私たちが詩のほうへ押しやられ、私のものであり他者のものである一行の言葉に到達しようとするのは、『私』と現実の乖離を感じることによってである。」(「戦後的叙情の飽和 この十年の詩的状況についての走り書」 初出・『現代詩手帖』一九七九年六月号)


 これを書いた一九七九年の翌年、一九八〇年に詩集『過ぎゆく日々』をまとめてのち、渡辺武信は詩作からほとんど離れた。詩を書くことをしなくなったのは彼が「私」と「現実」の乖離を感じなくなってしまったからなのだろうか。
 本書にある「二〇〇七年における補註」において渡辺はこのように書いている。「その理由は(主観的な自己分析にすぎないが)、私の詩が〈少年〉の視野で書かれたものであり、この年の四月に七四年一月生まれの長男が小学生になった結果、詩を書く〈少年〉と、家庭における〈父〉の役割が乖離したことにあろう。」。
 「『私』と現実の乖離を感じる」ことによって詩人が「詩のほうへ押しやられる」のだとすれば、詩から遠ざけられるのは、その乖離が決定的になってしまうことによるのだろうか。ともかく、本書に収められた彼の詩論は、現代詩にさして詳しくない私のような者にとっても、詩とは何かを考える上でのよき手だてとなりうる。そして、その詩論が書かれた当時、彼が詩作から離れつつあったことをふまえるとなおのこと、である。
 ただし私は詩を書く者でなく読む者なので、詩人の詩論を勝手に読み手の欲望に即して受け取るばかりだ。
 小説でも評論でもエッセイでもなく、詩でなければならないとき、読み手として切実に詩を欲するときがある。読者もまた「詩のほうへ押しやられる」ことがあるのだ。


 「『私』とは、非反省的な意識と世界との間を走る一本の亀裂であり、距離であり、奈落である。『私』が飢えているのではなく、言葉を呼びこもうとする飢えそのものが、未然の『私』である。
 詩は、その『私』であろうとする奈落をサーツとよぎっていく暗い奇跡の軌跡ではないか。」(「詩的快楽の私的報告」 初出『現代詩手帖』一九七四年三月号)


 その詩を知るまえ、建築家としての渡辺武信のことばによって、私は確実にある地点からはべつのところへ導かれた。「非反省的な意識と世界との間」の深さと遠さと暗さを知ったというべきか。しかし、というより、それだからこそ、いまだに自分の生きるしかたがよくわからないまま、右往左往している。そして、ときにそのわからなさを思い詰めてやるかたないとき、よすがとするのが読み手である私にとっての詩なのである。


   つややかに輝く家具のカタログやグラビア刷の未来都市の中に
   ぼくの記憶の死に場所はない
   ぼくたちのつつましい快楽が死者たちのまなざしと
   鋭い刃の上でつりあって一瞬静止するみじかいみじかい休暇から
   はみだしてしまうぼくたちの長いくちづけ
   あわされた唇と唇がつくる内海のやさしいかたち
   それがとつぜん凍りついてきみの眼を大きくひらかせる
                         (「蜜の味」)


   あらゆる恋や行為が
   巨大都市の影に埋没していく時
   ただ眠りの深さを測るためだけにさえ
   きみのまなざしを借りなければならない
   眼をひらけ
   どのような盲目もゆるされていない
   夢のまぶしさの中で眼をひらけ
                         (「遠い眼ざめ」)



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2007年10月02日

『湖の南』富岡多恵子(新潮社)

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 2000年の大晦日、例年はお盆の明け八月十六日に行われる五山の送り火が、ミレニアム記念のイベントとして灯された。
 この日、それをみたのかみなかったのか。ただ、お盆でもないのに、ご先祖様の魂をお見送りするための火を、キリスト教に由来するミレニアムとやらにいたずらに灯すことを、罰当たりだと考えるひともいるだろうと思ったことはおぼえている。そんなことをしたら、きっと京都によくないことが起こると考える信心深い年寄りだっているのではないかと。しかし、そんな私の想像じたい、世紀末だからといってなんとはなしの終末感に見舞われているからなので、つまりはこれもミレニアムをめでたがることと根はいっしょなのである。

 明治二十四年五月十一日、大津で滋賀県警の巡査津田三蔵に斬りかかられたロシア皇太子ニコライはその直前までに京都見物をしていた。このとき、皇太子入洛を記念して五月九日に五山の送り火が灯されたのだそうで、こうした例外は明治の時代からあったのだと知った。その後、日清日露の先勝祝賀のさいにも、それぞれ天皇陛下、東郷平八郎の京都訪問を記念しておなじことがされたという。

   *

 明治の国家体制や司法権の問題、あるいは当時の国際問題とのかかわりにおいてこれまで言及されることがおおかった大津事件。著者は、近年発見された津田三蔵の書簡を読み込みながら、この国家の一大事を巻き起こした、明治日本のひとりの近代人に焦点をあててこれを描き出した。

 津藩藩医の次男として生まれた三蔵は、維新後の明治四年、十七歳のとき、新政府の兵士として召集された。配属先からの三蔵の手紙には、病気がちの母や兄弟たちの生活への気がかりが綴られている。長男である兄は家を荒らすばかりの困り者であったため、次男の心配の種は尽きることがない。母の看病と一家のこれからの生活のため、一刻もはやく除隊して帰郷したい三蔵だが、それは叶わず、各地に赴き兵役にあたりつづけた。西南戦争では左手に銃弾が貫通するという名誉の負傷をし、そのため勲七等の勲章を受けている。

 ようやく除隊となり郷里にもどった三蔵は二十七歳になろうとしていた。十年間兵士として新政府に仕え、その間学問もままならなかったため、明治というあたらしい時代で生きていくための学歴もなく、その幕開けの混乱にただ巻き込まれ、文明開化からとりのこされた彼は郷里の三重で巡査となった。 
 一度の依頼退職と、「上席巡査侮辱」を理由とする免職ののち、こんどは滋賀で巡査に志願。滋賀各地の部署に勤務し、明治二十三年、守山警察署詰、三上村駐在所勤務となる。翌年、訪日したロシア皇太子ニコライ一行の警護のため、三蔵は大津へと動員される。ここで事件はおきる。
 生まれてまもないアジアの小国家だった日本の巡査が大国ロシアの皇太子を斬りつけた。この一大事に国家も国民も青ざめる。皇太子の訪日が、日本を攻めるための視察であるとの噂は、庶民にまで信じられており、それだからこそ国家は皇太子一行を最上級のもてなしをするつもりでいたのだった。

 三蔵は事件後すぐ「狂人」扱いされるが、裁判所の精神鑑定ではそうとはみなされていない。司馬遼太郎は『坂の上の雲』のなかで「精神医学でいう狂人ではない。思想的狂人」あるいは「素朴な攘夷主義の信者」と書いたというが、著者はこれにたいして疑問を投げかける。
 三蔵の遺した手紙からは、彼が「なにごともイイカゲンにできない」「相当に、ものごとがキッチリと確認されないと安心できぬ性分」であったことがうかがえる。また事件後の関係者の証言からは、彼が極端に無口で、その挙動も他人とは異なる人物であるとわかるが、「政治向きの関心があったことは、だれもが認めていない」という。

 事件後すぐ「兇行者は何者か」との声に、三蔵は「旧藤堂和泉守の藩士」であると答えた。またこの日、彼が配置された三井寺ちかくにある「御幸山西南戦争記念碑」の前で、やってきたロシア人二人に最敬礼をしたが無視され、その無礼に「ドーモ慷慨ニ堪ヘ」ず、「記念碑ノ前ニテ西南ノ役ノ事ヲ思ヒ出シ 色々胸ニ浮ビ 死者ニ対シテモ感慨ガ起リマシタ」と供述する。そこから「素朴な攘夷主義の信者」といった評価は生まれたのかもしれない。
 しかしその犯行の動機は、「当時如何ニシテ斯ヽルコトヲ仕出来シタルカ其ハヅミハ自分ナガラ分ラヌ次第アリ」あるいは「細カキコトハ一々申上ゲ難シ只ダ自然ノ感覚ガ起リタリ」。つまり三蔵自身にもよくわからないのである。

 きわめて几帳面で融通がきかず、めったに他人と口をきかず、どこか常人とはちがったところがあるとみなされていた男。くわえて時代にとりのこされ、生活の苦労が絶えないうえでの、巡査勤めの鬱屈。今のテレビのワイドショーでなら、「ストレスによる心神喪失」とでも表現されるのだろうか。しかし、日本の近代化のごたごたのなかで、戦争に駆り出された男の体験は「明瞭に言語化しうるほど単純なものではなかった。」と著者は書く。「『死者ニ対シテモ感慨ガ起リマシタ』の『感慨』が『自然の感覚』に運ばれて三蔵の凶行を押し出す震源にひろがっていったのだとしても、本人がその『感慨』の具体を語りえず、他人はそれを知ることはできないのである。」

   *

 事件と津田三蔵、あるいは皇太子ニコライをなぞる筆は後半、大津の著者のもとに送られてくる差出人不明の奇妙な手紙へとおよぶ。本書を、津田三蔵の書簡という「新資料」をもとに、この歴史的事件を書きかえるべくなされた歴史小説、あるいは津田三蔵をめぐる人間ドラマとして読んでいる者にとっては、かなり唐突な脱線なのだが、ここにきて、語り手としてこちら側、つまり読み手の側に立って事件をたどっていたかにみえていた著者が、本のなかで、ひとりの登場人物としてはっきりとたちあらわれてくる。
 大津に居を移した著者が、買い物途中、「此附近露国皇太子遭難之地」いう記念碑にぶつかり、自らの身辺からこの事件にしだいに迫っていくのを追っていくうち、読み手は、「歴史小説」や「人間ドラマ」とはまったく別のある物語に立ち会っていることに気づく。そしてそのことによって、津田三蔵の生きた明治という時代と、私たちの生きる現代をひとつづきのものとするある大きな流れのなかに、読み手は押しやられてゆくのである。

 手紙の差出人(著者は「旅先より」といつも書かれてあることから彼を仮に「タビト」と命名)は、彼のいうことがほんとうであれば、著者が以前住んでいた家に出入りしていた電気屋の息子であるという。もう四十にちかく、両親は亡くなり、妻にも先立たれて子どももいない孤独の身である。
 タビトは、「なにをしても迷惑をかける家族はいない」と前置いて、「あの二人の人がいなくなると、できたらもう一人いなくなると、かなり変わると思うのです。」などと、なにやら物騒なことを書きつけてくる。
 もしも手紙の主がほんとうにあのときの「電気屋の息子」であれば、とてもある種の「運動」をしていた若者にはみえなかったと著者は思い、「なにか妄想に支配されているのではないか」と訝り、また「どうしてわたしの移ったばかりの棲家を知っているのか、それが一番気味悪い」と不安がる。

 事件と三蔵、またニコライのその後を追いながらも、タビトの手紙についての記述はつづく。
 「だれかが爆弾を仕掛けて大勢の人が死ぬと、罪もない人を巻きぞえにしてとか、罪もない幼い子供まで、とか新聞には書いてありますが、いつもおかしいと思っています。罪のない人なんていません。(…)だれもが偶然に、意味もなく死んでも不思議なことはありません。」「突然でおかしいかもしれませんが、この数年ずっと、自分は人なんてとうてい殺せないのに、だれかをヤッテしまわないかという気がして、時どき気持ちがたかまっていくので困ります。」「最近少しずつわかってきたことがあります。それは、本当のことはいってはいけないし、本当のことをいっても、だれも相手にしてくれないのだということです。」

 津田三蔵の動機は何だったのか、「大津事件」とはいかなるものだったのか、著者が直接語ることはない。事件後の五月二十七日、三蔵の死刑を主張する政府を裁判所が却けるかたちで無期懲役の判決が下る。三蔵は九月三十日、収監先の釧路集治監で衰弱のため死亡した。
 タビトからの手紙は依然として送られてくる。「学校が夏休みになると、どこへ行っても子供がいてうんざりします。クルマが混んでいるので、仕事になりません。とくに、お盆のころの高速道路の渋滞には毎年いやになります。不思議なのは、何十キロの渋滞でも、みなけっこう楽しそうなことです。(…)みんなが休むから休む、みんながいくからいくのが楽しいのです。」
 「本当のことをいっても、だれも相手にしてくれない」とわかっているのなら、こんな手紙をなぜ出すのだろう、などといえるほど、ひとも世の中も簡単ではないのだろう。タビトがなぜ著者に手紙を送りつけてくるのか、その動機を問いただしたら、津田三蔵がそうだったように、タビト本人にもよくわからないのかもしれない。

 「縁もゆかりもない人間に、ひと時でも理不尽に感情を支配されるので、手紙を読まされる度にどこかに不快感と不安が残る。これがホンモノの『ストーカー』につきまとわれたら、どんなに不安で不快、それより恐怖するだろう。(…)それでもまだわたしには、ひとりの四十ちかい男が(…)父の店のお客さんで、気さくに(?)話していたオクサンを思い出して手紙を書いているとしたら、なんて思いやるところがあり、もしなにか事件が起れば、それが甘かったとなじられるのだろう。」
 もしもタビトがほんとうにいて、この本を読んだなら、著者に、「では津田三蔵はあなたにとって縁もゆかりもある人間なのですか?」などと問いかけてきそうではないか。

 結局、手紙の一件のゆくえはわからずじまいである。最後、これもまた唐突に、大津の花火大会とその人手、「ユカタ姿の女の子」が目立つという話題から、数日前に美容院で若い美容師にきいたエピソードで本書は幕を綴じる。
 その美容師が友人と誘い合い、浴衣を着て京都の祇園祭ででかけたときのこと、あまりの人ごみに歩くのもやっと、気がつくと、友人のひとりの帯(うしろの結び目をただ取り付けるだけになっている式の)の結び目が抜けて、どこかにいってしまっていた、その子は怒ったり泣いたりで…との、それは「笑い話」として紹介されるのであった。

   *

 2000年の大晦日、例外的に行われた送り火をみたかどうかの記憶がないのは、そのころの私が、人びとが無邪気にありがたがる「京都」らしいものにたいして、卑屈な抵抗感をもっていたせいだった。このときすでに京都へ住みはじめて何年かが経っていたが、毎夏、送り火がはじまったよ、と家人が教えてくれても知らぬ顔、人びとで埋めつくされた鴨川の河原にわざわざいってみるなど、思ってもないことだった。祇園祭にもいちどもでかけたことがなかった。私はタビトのように、みんながいくから私も、という行動原理を馬鹿にしていたのではなかったが、今にしてみると、はたしてどうだか。いまでは宵山には浴衣でも着て一杯飲みにでかけたくなる私だが、かつての「京都」なるものへの行き過ぎた嫌悪感と、著者を気味悪がらせたタビトのある思いこみは、たいしたちがいはなかったかもしれない、との思いもある。




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