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2007年09月18日

『住まいと家族をめぐる物語―男の家、女の家、性別のない部屋』西川祐子(集英社)

住まいと家族をめぐる物語―男の家、女の家、性別のない部屋 →bookwebで購入

「「部屋」育ちのこれから」

 「日本型近代家族モデルと、その容器としての住まいのモデルの変遷」をたどる本書は、「住むこと」すなわち「生きること」ととらえ、容れものとしての「家」とその中身である「家族」のありかたを相互から照らしだすことによって、日本の近代のありようを問う。
 十四に分けられた章立ては、大学で教鞭をとる著者が、一つの章を半期の講義の一回分の授業に見立てたもので、そこには実際の授業の受講者たちの声も反映されている。 

 授業のなかでくりかえしあげられたのは、近代以降の私たちの住まいと家族のモデルの変遷を示した以下の図式である。

 家族モデルの旧二重構造――「家」家族/「家庭」家族
 住まいモデルの旧二重構造――「いろり端のある家」/「茶の間のある家」
 家族モデルの新二重構造――「家庭」家族/個人
 住まいモデルの新二重構造――「リビングのある家」/「ワンルーム」

 家父長制によって支えられ、二代三代にわたる大家族が一同に住まう家と、そこから独立し夫婦とその子どもを一単位とする家庭を築いた者たちの住まう家。戦後、核家族化とともに登場した公団や団地を経て、高度経済成長の終息ののち一般化したLDK式の住宅と、さらにそこから、通学や就職のために家をでた若者たち個人の空間である部屋。このふたつの二重構造をふまえながら、「住まいと家族をめぐる物語」は読み解かれてゆく。

 本書の副題にある「男の家」とは家長、あるいは戸主たる夫・男性が「住まいの管轄者」として機能していた「いろり端のある家」あるいは「茶の間のある家」であり、「女の家」とは高度成長期、不在がちとなった夫にかわり、専業主婦たちがその夢や所有欲をわが家に託すべく「住まいの管轄者」となった「リビングのある家」、のこりの「性別のない部屋」とはまったき個人の空間としての「ワンルーム」となる。

 「男の家、女の家、性別のない部屋」。この副題には、女性史、ジェンダー論を専門とする著者の問題提起のしかたが表現されている。こうしたテーマを設定するにあたって、住宅の問題をあつかう建築史や、家族の問題をあつかう家族論、あるいは近・現代史のあいだをとりもつものとしてあらわれるのは、授業のなかでの受講者たちの声、彼らによる議論やレポートにみられるそれぞれの「住まいと家族をめぐる物語」である。それは、私が私の育った家が「男の家」でも「女の家」でもなかったと感じたように、かならずしも新旧の二重構造にぴたりとあてはまることはない。生きかたの数だけ、住まいかたがある。
 だからこそ、読み手は著者の示した住まいと家族のモデルの新旧の図式に、自らのたどってきた住まいと家族のかたちを照らし、それぞれ「物語」のありかたとその行く末を思いめぐらすことができるだろう。

 この図式でいえば、私は「茶の間のある家」で生まれ育ったといえる。とはいえ両親は共働きで、父はマスオさんのような妻方同居であったので、そこが父親の管轄による「男の家」であったとは思わない。また、高校入学と同時にLDK式の家に転居したが、そこはたとえばニューファミリー世代の両親を持つ友だちの(私の両親は戦中生まれである。どんな住まいと家族のなかで育ったのかは、たとえ同年でも、両親の世代によって変わってくるだろう)、専業主婦である母親の城のような「リビングのある家」=「女の家」のようでは決してなかった。
 のこるは「性別のない部屋」だが、こちらは思い当たるところがある。結婚をして夫とふたりで住みはじめたのは、「男の家」でも「女の家」でもない。それは「男・女」のどちらでもない以前に「家」ではなく、双方の実家の長男と長女の自室が合体したような「部屋」だった。

 まわりを見まわすと、私と同じ世代には、そのような空間で子どもを生み育て、家庭を運営してゆく夫婦が増えてきているように思う。子どもが成長し、一戸建ての家を持つにいたれば、また状況は変わってくるかもしれないし、「夫は仕事・妻は家庭」式の夫婦のばあいなら、そこはかぎりなく「女の家」化するかもしれない。しかし、私たちの世代が家族の容れものとしてつくりだしつつあるのは、かつての「男の家」でもなければ「女の家」でもない、大きな「性別のない部屋」とでもいうような空間である気がするのだが、どうだろう。

 ところで私の育った「茶の間のある家」はかなり変則的な間取りの、なんとも奇妙なおんぼろアパートだったので、物心ついてからは、LDK式のお家にたいそう憧れたものだ。そうした家が商品住宅として一般化したのは一九七五年前後だと本書にはあり、子どものころ、日曜日の新聞に入ってくるマンションや建て売り住宅の広告の間取り図を、自分の部屋はどこがいいかなあ、と飽きずにながめていたことを思い出した。
 そして、そんな子ども時代の憧れとはかけ離れた住環境にいる自分を省みつつ、この先のわが住まいを思い描いてみる。それはまさしく生きかたの問題と繋がっているわけで、なるほど「住むこと」すなわち「生きること」だと、われに返るのである。「部屋」育ちである私たちの世代が、これからどんな「家」をつくりだしてゆくのかは、私自身の問題もふくめて、興味のあるところである。


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2007年09月05日

『誠実な詐欺師』 トーベ・ヤンソン・著 冨原眞弓・訳 (筑摩書房)

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「私のなかの「カトリ」と「アンナ」」

 海辺のちいさな村。観光客がやってくるのは夏のあいだだけで、長い冬には訪れるひともなく、村は雪に閉ざされる。

 カトリは弟のマッツとくらしている。村ではよそ者のしるしとされる漆黒の髪と、ひとを不安な気持ちにさせる黄色の瞳。彼女の望みは、誠実な仕方でお金を手に入れること、そして、愛する弟に、彼の夢であるボートを与えること。
 確かな計算能力と判断力とで、カトリは村人たちの手に負えない問題、税金の申告や遺産相続、隣家との境界についてなどを、恐るべき明快さで解決してゆく。しかしそのあまりの公正さ、賢明さ、斟酌のなさは、それまで潜在的であった人びとのごまかしや敵対関係を晒してしまう。
 問題が起こったときはカトリをたよりにする村人たちだが、だれも彼女と親しくつきあうことはしない。カトリはお礼を受け取ることはしないし、めったに笑わず、無駄なおしゃべりもせず、愛想も言わない。人びと何の気なしに採用する、コミュニケーション上の手練手管の一切が、彼女には欠落している。それが彼女流の誠実さというものなのか。道ばたで遊ぶ子どもたちも、カトリが通りかかるとその手をとめて黙ってしまう。

 アンナは挿絵画家で、村のはずれの森にある屋敷にひとり籠もり、森を描くこと、その情景をわがものとすることだけにその力を注いでいる。地元の名士であったのだろう父と母の大きな遺産を受け継いでいる上、作家としての収入も充分にあり、何不自由なくわが道を貫いてこれた彼女は「悪意を剥きだしにする必要に迫られたことがな」く、「いやなことは忘れる尋常ならざる能力をもちあわせている」。ひとを疑うことを知らず、あらゆる人たちから必要以上のお金を請求され、支払っていることに気づこうとしない。猜疑心にかまけているよりも、彼女は芸術に心を砕く。それがアンナの生きる上での無意識の流儀なのだ。

 カトリは自らの望みを果たすため、アンナに近づく。お人好しであるというよりも、実務的なことへの無頓着さと怠惰とで、彼女がこれまで知らぬ存ぜぬを決め込んでいた、彼女に対するあらゆる不正を、カトリが持ち前の公正さと計算高さとで検証し、適切なものとする。その見返りとしてカトリは報酬を得るというわけだ。
 村人たちの例にもれず、アンナもまた、カトリの手によって明るみに出されたこと--恵まれた身の上で、そうとは知らずにすますこともできた悪意や欺瞞を目の当たりにせずにはいられない。いちどあきらかになってしまったことは、もう修正がきかない。そうして、彼女がこれまで疑うことなくきた自身のアイデンティティさえもがぐらつきはじめる。
 こうしてかいつまめば、気の毒なのはアンナのほうにみえるが、アンナもまたカトリを脅かし、その夢を台無しにしてしまう。アンナの「ゆきすぎた善意には怖るべきものが潜んでいるのだが、いまのところだれもそれに気づいていない。」。それほど彼女について知る者はいない。カトリと同様、アンナもまた孤独である。

 はじめて読んだとき、私はアンナの無自覚さとおめでたさからくる罪深さを耐え難いと感じた。つまり、そのとき自分はカトリの容赦のない誠実さに共感していたので、カトリの側から物語を追っていた。けれどもいくどか読みかえすうち、どうやらアンナに通じる部分も思い当たるのだった。
 物語のなかのふたりの女性はどちらもあまりに個性的で、お互いに似通ったところは全くないが、読み手はきっと、カトリとアンナそれぞれの持つ要素を、自らのなかに多少なりともみいだすのではないか。

 ただし、カトリの弟、マッツだけは別格だ。村人たちからは「頭がすこしたりない」とみなされ、どこでも頭数には入れられず、軽んじられている彼を、カトリもアンナも愛している。マッツもまた、アンナとカトリ同様、きわめて個性的で、たったひとりきりの自分の世界を強烈に持つ者だが、「雪のようにきれい」なマッツの無垢を、だれも脅かすことはできない。そのことを知っているふたりは、彼に特別の敬意を払う。彼女らは、その点でだけは一致している。
 だれにも立ち入ることのできない自我のカタストロフィは、トーベ・ヤンソンの作品にたびたび現れるモチーフだが、カトリとアンナ、ふたつの個性の応酬に、どちらからも不可侵のマッツの存在が、ともすれば息詰まるふたりの確執に不思議な親和をもたらすこの物語はとりわけ美しい。

 さて、このふたりの女性の確執の顛末は、あきらかにされぬままである。読者にゆだねられているかのような結末もまた、ヤンソンの物語にはおおいが、後味の悪さはない。
 作者が筆を置きつつ、指さすさきにあるのは闇ではなく光だ。揺るぎない個性によって、互いを打ちのめしてしまったカトリとアンナの行く末は、それまでにはない可能性にみちているはずだ。彼女たちのアイデンティティは、崩壊したのでなく解放されたというべきだろう。私はこれを読みかえすたび、自分のなかのカトリとアンナに照らし、「これまでの私」をふたたび乗り越えられるような気にさせられるのである。


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