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2007年08月31日

『長新太―ナンセンスの地平線からやってきた』土井章史・編(河出書房新社)

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「チョーさんに恋する」

 先日、長新太の回顧展をみた。題して、〈ありがとう!チョーさん 長新太展ナノヨ〉(於・大丸京都店 九月八日~十月八日まで、横浜そごう美術館にて開催)。
 デビュー当時の漫画など初期の資料をはじめ、『はるですよふくろうおばさん』 『ちへいせんのみえるところ』 『つきよ』などの原画に接し、会場の子どもたちといっしょに夏休み気分を味わうことができた。

 子どものころからなじみのある長さんの絵本だが、その魅力をほんとうに思い知ったのは学生になってから。ことに、色面主体の絵本の、一見おもむろで、あっけらかんとした筆さばきがつくりだす、あの茫漠とした空間がたまらなく好きだ。
 大学では美術を専攻していたから、絵というものを意識的にみるようになっていて、だからといって長さんの絵を「アート」だとみなしていたわけではない。むしろ当時、私は「アート」に辟易としていた。お勉強の一環として絵をみるという、その息苦しさのなかで、ひとにとって「絵をみる」という経験が何なのか、美術鑑賞とは何かを自問していた当時の私だったが、そのもやもやを吹き飛ばしてしまう威力が長さんの絵にはあった。いや、それでもすこしは美術学生の眼でみていたところもあったと思うけれど。
 たくさんの作家のお話に絵を寄せた長さんだが、私はやはり「長新太さく・え」のものが好きだ。楽しいが、それだけではない。子どものころにも、長さんの絵を眼にすると、なにやら割り切れない感じをぼんやりと抱いたものだが、大人になってそれが「ナンセンス」というものなのだと学習しても、長さんの世界の「それだけでないなにか」を上手く説明することはやはりできない。

 展覧会でみた『ころころにゃーん』の原画。これは長さんの遺作となった絵本である。うずくまるねこのなんともいえない表情、その背中からちいさな玉がわき出してころころ、それが子ねこになってにゃーん。ころころ、にゃーん、ころころ、にゃーん。ただそれだけ、意味なんてない。ふとしたときにあたまに浮かんで、ひとりで「ころころ、にゃーん。ころころ、にゃーん。」とつぶやいていたりする、ああ楽しい。
 ちなみに長さんには『ごろごろにゃーん』というすばらしい絵本があり、私はそれも大好きである。『ころころにゃーん』では、『ごろごろにゃーーん』のすごさがさらに凝縮され、純度の高いエッセンスとなって詰まっている。

 さて、本書は、絵本はもちろん、デビュー当時の漫画やそのころ参加していた同人誌、装幀や雑誌での仕事、漫画とエッセイの再録、長さんの奥様へのインタビューからなる。

 編者である土井章史氏は、フリーの絵本の編集者であり、吉祥寺にトムズボックスという絵本の店を経営し、同名の編集プロダクションを主宰、自費出版を請け負うほか、長新太をはじめ井上洋介、宇野亜喜良、真鍋博らの絵本や過去の作品集の復刻、茂田井武・武井武雄・初山滋の三人の足跡を伝えるための絵文庫など出版している。また、「あとさき塾」という絵本のワークショップでは新たな絵本作家の発掘養成をしている。

 絵本とともに生きる土井氏が長さんに魅せられたのはいまから二十五年まえ。それからというもの、その仕事を「後追い」するかたちで、絵本・漫画などの著書のみならず、雑誌に寄せたイラストやカットにいたるまで、過去の作品を収集してきた。

 「そのうちだんだん、だんだん、だんだんのめりこんでいって、現在のぼくがいる。そしてまた、どうしてぼくは長新太が好きなのかしら、と問うてみる。つねに問うてみる。でもわからない。恋とはこういうものかしら。たしかに、ぼくは長新太という作家と、この作家が生み出す作品に、恋をしているようだ。」

 これまで数々の絵本の仕事にたずさわり、また編集者として長新太の絵本も手がけてきたうえでのこの編者のつぶやきである、いいなあ。
 たしかに、長さんの魅力をことばにするのはむずかしい。意味のあることばを発するよりも、「ころころにゃーん!」と叫んでしまったほうがはやい気がする。恋に理由なんてない、というのと、たしかににている。そこが長さんのナンセンスの王様たるゆえんだろう。土井氏の長さんへの恋心によって編み出されたこの本によって、またよりおおくのひとたちが長さんに恋をしてしまいそうである。

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2007年08月28日

『いい子は家で』青木淳悟(新潮社)

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「いい子はたいへん」

 主人公が、「そこそこの関係」をつづけてきた「女ともだちのマンション・ルームにたどり着いたのだった」との冒頭の、その筆の矛先は「女ともだち」との「関係」へは向かわず、くるりとまわれ右して「家」へと戻る。

 彼は、「この穏やかな家庭に波風たてたくない」のである。二十歳もとうに過ぎた男が、女ともだちの部屋での外泊を「親への配慮が煩わしくて」なしにしてしまう、そんな家庭がはたして穏やかといえるのか、というふしもないではないが、彼はとても心やさしく、ことを荒立てるのが苦手な「いい子」であるのはたしかなようだ。
 それよりなにより、すこしまえまで「何をするでもなく家にいて」、女ともだちと会うほかは仕事をするでも学校へ通うでもなく、「いまだに小遣いをもらう身」であることだし、父親は仕事で帰りがおそく、兄は家を出ており、「母親が家で一人夕食を用意して待っているわけで、ごく自然なこととして夜は家に帰るようにしていたのである」。

 さてその「母親」であるが、息子であるところの主人公は「頻繁に外出するようになって、あらためて母親の異能力というものを意識しはじめていた。まだなにもいわないうちから知っているとか、隠しても見抜かれてしまうとか、気づいたら自然に仕向けられていたとか、そういうところがむかしからあった」のだという。
 これはなにもこの母親にかぎったことではなく、女であれば少なからず持つ「異能力」だと思う。主人公くらいの年頃の男ともなれば、それを恋人や妻に感じるようになったりするが、彼は「女ともだち」にそれを感じることはない。どうしたって「母親」の異能力のほうが脅威なのである。

 話はすこしずれるけれど、この「女ともだち」のということばを本編の書き出し二行目に認めたとき、この物語への予感に、ある実感がとっさに引き寄せられたような気がした。
 「彼女」とも「恋人」とも書かれないのは、その女が主人公にとってそう呼びならわすほどの間柄でないからだろうが、ただ「ともだち」と書いては「そこそこの関係」が何のことやらわからない。ちなみに「ガールフレンド」というと、英語では肉体関係をともなう相手を指し、日本語においてはそこのところはあいまいで、どうとでもとれるが、作者がそのことを意識したかどうかはしらない。また「女ともだち」というのもたぶんに含みのある表現といえばそうで、だからときに弁解っぽく「ただの」という前置きがつけられたりする。
 ただし作品中の「女ともだち」は、「彼女」でも「恋人」でもなく、「ただのともだち」でもなく、「ただの女ともだち」でもなく、さらには「女ともだち」にときに感じられるある含みもきわめて希薄なのである。そこに主人公をとりまく世界が透けてみえるようで、読者である私はぐっと身を乗りださずにはいられないのだった。
 案の定、彼の外出の動機である「女ともだち」は、母親には「男ともだち」と報告される。おそらくこの母親には、たとえそれが「ただの女ともだち」だったとしても、その「ただの」を了解する感受性はない。だから、外泊はおろか、外出するのでさえ、息子は母親にたいして細心の注意を払わなくてはならない。

 話はもどって、母親の「異能力」だが、彼女は主婦としての長年の家事労働への従事によって、その力を研ぎ澄ませてきたかのようだ。かずかずの家仕事のなかでも、彼女はとくに洗濯に熱心で、息子の服や靴を洗うことにたいへんな執着を示す。息子が外出した翌日などはことに。昨日の服を洗いがてら「ついでに洗うから」と起き抜けの息子の寝間着を脱がしにかかり、いつもの部屋着の着がえた姿をみては「またそれ着ちゃったの?」とのたまう。息子にしてみれば、外出することへの母親の反応に気を揉むあまり、起きてすぐに外出着に着がえるのを控えているというのに。
 しかしそんな小細工は通用せず、おそらく母親は今日息子が出かけるのか否かをすでに察知している。主人公いうところの「異能力」は、女であれば少なからず持つと私は書いたが、それは女のなかでも「母親」というものにより強く宿るものなのだ。

 「異能力」ということであれば、自分の家も含め、自宅周辺の家々の屋根に、そこにいるはずのない家主である父親たちが、おのおのしがみついている姿がみえてしまうという主人公もまた、なにやら不思議な力の持ち主であるといえる。また、仕事をやめ突然舞い戻った家でのゲーム中「やい課長、やいやいやい」と叫びだす兄にしても、定年退職後、あるとき鼻や口から得体のしれない黒いものをもくもくとあふれださせて主人公を翻弄したのち、妙に意気軒昂となった父親にしても、やはりどうかしている。
 それまで主人公にとって「母の待つ家」であった家庭が、兄の離職と父の退職とで、にわかに四人家族となった。収入のない大人が四人、ひとつ屋根の下で暮らすようになったのは、主人公にとっては「波風たてたくない」どころか一大事であろう。そこで彼が家族へ提言すべく用意した対策は「これからはあまりぜいたくしないようにしなければ」ということで、立場上、家計に口だしできないのはもちろんとしても、その提言すら口にだせずじまいなのは彼が「いい子」すぎるゆえであろうか。
 それにしても、いささか壊れ気味らしいほかの家族にくらべてもなお、「異能力」を持つ母親の不気味さはやはり際立っている。

 表題作ほか「ふるさと以外のことは知らない」「市街地の家」のあわせて三編を収録。どれも「家族小説」というよりはただ「家小説」と呼ぶほうがふさわしそうな物語である。


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2007年08月23日

『整体。共鳴から始まる 気ウォッチング』片山洋次郎(筑摩書房)

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「「気と共鳴」=「自然」?」

 1994年刊『気ウォッチング』(日本エディターズスクール出版部)に加筆、再編集をしたものの文庫化。
 野口整体の考えに基づき、自らの整体法を確立した著者が、整体における「気」と「共鳴」を手がかりに、現代人の身体と心のありようをとらえる。

 著者を知ったのは、書店にならぶあまたの美容・健康・ダイエット本のなかからみつけた『骨盤にきく』(文藝春秋)によってだった。
 「気持ちよく眠り、集中力を高める整体入門」というサブタイトルと、著者が野口整体の流れをくむ整体師であるというのがこれを手にした理由で、そこで知った骨盤の調整法や呼吸法にはいまでもお世話になっている。また、骨盤の収縮と弛緩、これに連動する身体と心のしくみを知ることによって、自分の心身の不調にも、あまり振り回されることがなくなったようだ。
 『骨盤にきく』は、いわゆる「骨盤ブーム」のなかで出された女性向けの整体入門書だが、本書はより詳しく、「気」と「共鳴」とは何かにはじまり、背骨とヒトのエネルギーと心身の症状の相関関係や各種「体癖」について、「気的」視点からみた近代的自我や家族、また日本文化についてなどが語られる。

 キーワードとなる「気」と「共鳴」だが、著者はまずはしがきにおいて、「気」について、「とりあえず『不思議なパワー』扱いだけはしないということを前提としておきましょう。」とことわりを入れ、つづけて「日本語のなかの日常語としての『気』と考えれば大体間に合いそうです。」と書く。
 「人と人、人と動物、あるいは人とモノでもその間に何らかのつながり、連続性、浸透性を実感する瞬間があ」り、「この共鳴する作用あるいは働き合う意思を“気”と呼びたい。」
 「気はエネルギーそのものと考えるよりも、存在と存在の間のつながり、関係としてとらえるべきである。」
 このように、著者は「気」についてことばを尽くしくりかえし語るが、その文字を追って頭で理解しようとするよりも、たとえば「気が合う」などのように、ふだん何気なく口にしていることばでだれもが了解しているその「気」が「気」であるのだといわれるほうがすんなりと納得がいく。

 さて、「気」とともに語られる「共鳴」であるが、本書でいう「共鳴」とは「気」とつねにともにある。よく、漢方では「気が滞る」といい、その結果として身体に何らかの症状があらわれるとされるが、それとはすこしニュアンスが異なるようだ。まずはじめに「気」があり、そしてそれが「共鳴」する、というのではなく、乱暴にいえば、「気」は「共鳴」であり、「共鳴」は「気」であるとでもいうような感じだろうか。ふたつは分け隔てのないものとしてある。

 本書からしばしば思い出されたのは、柳父章の『翻訳の思想 「自然」とNATURE』(ちくま学芸文庫)だった。これは、西欧語“nature”の翻訳語に「自然」という語が定着することによって、あるいはその課程で、もともとの日本語である「自然」と、“nature”の翻訳語としての「自然」の意味のずれを、文学者や評論家の文献をもとに追い、近代日本人の西欧文化の理解と誤解の軌跡をたどったものである。
 『翻訳の思想』によれば、西欧の“nature”は自己とは切り離されたもので、自己と自然は主体と客体という関係にあるが、そもそも日本人にとっての「自然」は、そうした主客の境目があいまいなもの、自己もまたそこにふくまれてあるものとされる。この両者の混同に、翻訳語としての「自然」をめぐる、日本人の西洋文化受容のねじれが生じることになる。

 それはさておき、そうした日本人の「自然観」は、近代以降を生きる私たちにも思いあたるところがあるのではないか。それは理屈でなく感覚的なもので、「気」というのはいわゆる日常語でいうところの「気」だといわれ、ああそうかと了解はしても、いざことばで説明しようとするとむずかしい、というのにちかい。あえていうなら、それはたとえばTVのハイビジョン映像で眺めることのできるような「大自然」=“nature”に対するものではなく、いまこうして空調の効いたマンションの部屋でPCに向かっている私をとりかこむなにか、に対するある感覚のようだ。

 そこで、本書における「気」と「共鳴」なのである。

 「『気が合う』のは意識や意図以前に『合って』しまうのであり、『気が付く』のも意図的発見ではなく、『思わず』自然発生的に立ち現れるのであり、『気持ちいい』も心持ちのことであり、身体そのものの気持ちいいとしか言いようのない感覚でもあり、居場所(環境)そのものの気分のよさでもある。意識-身体-環境のどこにも主体があるともいえるし、どこにも主体がないともいえます。この身体の内側から沸き上がり、のびのびと“何か”(=気)が世界に広がることが、深く息をしているということであり、安心感そのものであり、良く生きることそのものでもあります。」

著者によれば、「共鳴」する力は自己の意識が強固だと弱く、逆であれば強くなるという。「自己の自立性、個の能力を高めることが至上の目標のようになっている」近代以降を生きる私たちのうちに、“nature”の翻訳語以前の「自然」、主客の別があいまいな日本人「自然観」における「自然」が残されているとすれば、それはこんにちの片山洋次郎の説く「気」と「共鳴」のダイナミズムであるのかもしれない。


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