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2007年07月29日

『サマースプリング』吉田アミ(太田出版)

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書物になることで救われるもの

 著者は「声からあらゆる意味と感情を剥ぎとり音そのものとする、超高音ハウリング・ヴォイス奏法の第一人者」である音楽家。これは、1989年、中学一年生だった彼女の経験した「地獄の一季節のドキュメント」。

  生きているのが辛いから死んでしまうことに決めた。
  だって、世界は憂鬱、退屈、つまらない。
  生きているのは面倒くさい、無意味、しょうがない。
  何もかも嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌いな世界。
                     (「プロローグ」)

 団地と田んぼと畑、それにささやかな商店があるだけの名古屋市のはずれの住宅地で中学生になった「アタシ」。
 両親の離婚、母と祖母の狂気と暴力、不登校、拒食、自殺願望、自傷行為。絶望の淵で衰弱した少女のからだから漏れ出た声は人のものとは思えない「音」だった。

 さて、本書の「あとがき」を吉田はこう書き出す。
 「泣くほど嫌なことを何故、書かねばならなかったのか」
 1989年に十三歳だった彼女は今年三十一歳。そもそも、この原稿を発表する気ははなからなく、「ゴールも目的もないままで、ただ、書いて、読んで、そして思い出し、エピソードを追加して、また書いて、読んで、思い出して……という作業を密かに一〇年(!) も続けていたのだ。」という。まるで口寄せするように、彼女はながきにわたってあの年の「アタシ」に取り組んでいたのだ。

 著者にとっては読み返したくもなく、できれば封印したかったこれらのことばは幸か不幸か、一冊の本になった。私はなんども読むのをやめそうになった。本書をまえに、いまもどこかで、「アタシ」のように自らの絶望を切々と綴っているかもしれない少女たちを思い、彼女たちのことばがあふれかえっているさまを想像し、気が滅入るのだ。
 いっぽうで、こうして彼女のことばが書物としてかたちをなしていることが救いであるかのように、沈んだ気持ちがまたたくまに底をつき、するすると浮かび上がってくるようでもある。それは私が、根っから本という「もの」を愛しているせいかもしれないけれど。

 いまさらという気もするが、「文化系女子草書第一弾!」と銘打たれた本書。巻末の発刊のことばにはこうある。
 「書物は一冊だけでは存在できず、すべての本は、たがいに言葉という血を分けあっている。私たちの言葉は絡みあい縺れあっている。心底ウンザリしつつ、もう一度そこに、なけなしの希望を託す。…(略)…これら雑草の如き本も、誰かの本棚に血の繋がらない血族の位牌のように並べられるだろうか。」
 なるほど、そういうことだったのか。願わくば、本書が「アタシ」の「血の繋がらない血族」たちの手に届きますよう。

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2007年07月24日

『古本暮らし』荻原魚雷(晶文社)

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三十男の古本暮らし

 著者は学生時代から雑誌の編集やライターをし、現在は新聞社でアルバイトをしながらの執筆生活。出版社勤めの妻にかわって主夫もこなす。洗濯、掃除、ゴミ出し、布団干し、買い物、晩ご飯の支度、あとかたづけ、なんでもする。十九歳で三重県から上京して以来、古本屋へはほぼ毎日通い、部屋にたまってゆく本の整理に日々心を砕いている。高円寺在住。年金未納。もう若くはないが、年をとったともいえない三十七歳男子。

 そんな彼の書く、古本のこと、好きな作家のこと、生活のこと。
 好きな作家の本のパラフィン掛けに夢中になって腰を痛め、東京駅の地下通路の壁がすべて均一台になっているという夢のなかでたちくらみをおこす。
 「運動」にかかわっていた学生時代に吉行淳之介を知り、それまでの「自分の考え方や感じ方がゆらぎ」、何度も読みかえした。「それは十代から二十代にかけての自分を壊す作業でもあった」。
 「年に一回は読みたい」色川武大の『うらおもて人生録』。この本を読むと、「人生、一筋縄ではいかないなあと痛感する」。

 「三十歳をすぎて、自分の限界みたいなものが見えてきて、自分は自分にできることをやるしかないとおもえるようになった。もちろんその決意はしょっちゅうゆらぎ、いまだにぐらぐらだ。二十代に仕事を点々として、生き方が定まらなくて、世の中に出遅れてしまって、不本意な生活が続いた。それでもどうにかこうにか自分の場所のようなものがすこしずつだけど、できてきた。自分の場所のようなものができると、こんどはその場所を守ることばかり考えるようになって、だんだん身動きがとれなくなる。」(「成長するってこと」)
 
 もはや青年ではないが、おじさんともいえない微妙なお年頃の屈託が、どの文章にも発揮されている。無理はしていない、かといってひらきなおっては決していない。とりつくろうこともしないが、もちろんありのままというわけでもないだろう。彼の文章のちからなのだと思う。読むひとが読めば、これは文学というものかもしれない。

 「勝負をさけることが負けない方法だとおもっていた。戦わない生き方は、負けなのだということをいまさらながらおもいしらされた。準備だ、勉強だと時間かせぎばかりして、ぜんぜん勝負していない。だんだん生活が落ちついて、欲が出てきたせいもある。失うものが増えて、負けたくない気持が以前より強くなった。一か八かみたいな賭けができなくなった。」(「安吾万歳」)

 「だんだんポーズをとるのがめんどうくさくなってきた。どうせなるようにしかならない。成長したのかどうか。生活に追われると、ごちゃごちゃ悩むことがめんどうになる。それはよいことなのかどうか。そうやってふてぶてしいおっさんになってゆくのだろうか。面の皮が厚くなってしまうのだろうか。」(「紳士とは何ぞや」)

 こんなぼやきがいたるところにある。しかし、このままでよいというのではむろんなく、

 「『このままぱっとしないで……』というおもいがしょっちゅう頭をかすめるようになった。いかん、いかん。『今さら』とか『もう手おくれ』というかんがえをふりはらいつつ、なんとかもう少しマシな人生をおくれるように気持の立て直しをはかる。」(「練習と習慣」)

 「枯れる。力をぬく。三十歳くらいまでは、そういうのもわるくないかなとおもっていた。しかし、別に努力しなくても、力はぬけてゆくし、枯れていくこともわかったので、今は無理をしても好奇心や向上心をもちつづけたいとかんがえている。」(「時間がたらたら流れてゆきます」)

 こうしてもがきながら、彼は「古本暮らし」のただなかにいる。ぜんぜんできあがっていず、しかし自分の不完全さを把握できるだけの力はもっている。荻原魚雷、うだつのあがらなさが洗練されているなあ。しかしこれがひとつのスタイルと化してしまうのは危険かもしれない……って、これは女の老婆心ですね。ともかく、男のひとをうらやましいと感じるのは、こういう本を読んだときである。

荻原魚雷ブログ「文壇高円寺」

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