メイン | 心理/認知/身体/臨床 »

2009年03月07日

『良い死』 立岩真也(筑摩書房)

良い死 →bookwebで購入

「良い死?ではなくて、存在の肯定のためのあらゆる思考」

  しばらく更新を怠っていました。スミマセン。患者会の仕事も、ますます忙しくなる今日この頃です。先々週は、厚労省の「終末期医療の在り方に関する懇談会」第三回目にALSの友人のお供として参席し、高名なドクターの講話を聞いてきました。お二人とも素晴らしく人間的な医師で「かわいそうな患者からは呼吸器も停止してあげられるようにしたい」という同情的なお話をされました。たしかに傍から見ればそうなのでしょう。いくら手を尽くしても、治らないのでかわいそうにしかみえない患者群というのがあります。私の友人たちは、自動的にそこに分類されてしまうので、実はとても困っているんです。それに「希望どおりに死ねるルールを作る」という暖かいお申し出も、こちら側からみれば、自殺を容認してあげる、という大胆な話なんです。ずいぶん感じ方が違うでしょう?


「自分の意思が伝えられなくなったら、死なせてほしい」。私の友人たちはたいていそう願っています。そんな生は死より辛いと思って。まあ、そう思うのも致し方ないけど、果たして、その時に感じられる身体は、いま私たちが「死ぬほど辛いに違いない」と思っているように、ひどく深刻なのでしょうか?そこに、ひとつ考えるべきことがあります。また、そんな生には生きる価値がないのでしょうか。
 立岩さんに、初めてお会いした時、私は身近な人のそのような生に、どう対処すればよいのかお聞きしました。すると先生は、その時もこの本にあるようなことをお話しされました。「送信できなくても受信ができれば、それでよい」と。

 「世界の方が常に私より大きいし豊かである。だから、それを享受することの方がより大きくよいことだと考えるのが当然である」(p205)
 患者の「語り」や「ナラティブ」が流行っていることに対しては、
「それが生きていたり、病んだり、死んだりすることの意味を与えるものであるとは思わない」というのです。
 まあ、確かに病人が我が身の辛さや痛さを語っても、それで建設的な何かが期待できるということはあまりないのかもしれない。でも、その語りに耳を傾けた者は、当事者の気持ちを想像できるかもしれないのです。 でも、立岩さんは傾聴など役に立たないと思っていますし、病人の探求にも同情を示さないばかりか、「そうたいしたものは見つからない」と言い切ってしまう。
 だから、立岩さんの言葉そのままを受け取ると、病人は馬鹿にされたような気がしてしまうでしょう。そんな誤解もないことはないので、ここでちょっとだけ、立岩さんの論考を解説してみます。
 まず、語りあいを大切にする世界では、発信できなくなった途端に生きる意味さえ失ってしまうでしょう。それが、この社会の現実です。まとまった、意味のある言葉を発せない者たちは、それでも生きていかねばならないのですが、語れないからといって我慢して生きているのでしょうか。いやそうではない、というのが立岩さんの論です。
 立岩さんは、受信できる限りにおいては、「自分を囲むものの中にいられる」と言います。これなら、たとえ自分の内面を探求できず、自らを語れなくなったとしても、否定されませんから、より遠くまでいくことができます。立岩さんの論は一見とても冷たいようではありますが、実はもっとも弱い患者に寄り添える論なのです。
 たとえば、最重度のALSや遷延性意識障害、重度の精神知的障害児、アルツハイマーや認知症、脳血管性疾患の人も、自らの世界を語ることはできません。それでかわいそうだから、ということで医療を制限し、社会からだんだん淘汰されようとしています。そんなひ弱な存在は、健常者の生活からは隔絶されているところにあるので、私たちはまったく気がつかないけれど、本当にたくさんいます。 そして、言葉で彼らの存在を肯定しようとすると、それは難しく、そしてもろく、弱いのです。
 そのような現実を知らない人は、そんな生になっても「生きろ」ということが、傲慢だというかもしれないし、実際に立岩さんはそのように批判されていることもあります。でも、ぎりぎりの生を死なずに生きている大勢の人にとっては、「ただ生きろ」と言ってくれる立岩さんは、稀有で貴重な味方です。
 発信できないことを悲しまなければ、そんな生を否定しないですみますし、実際に、私たちだって大切な人に発した一言から誤解を生じさせた失態を思い出せば、極力語らずに、ただ互いを受信しあっているほうが、うまくいく。きっと長くいっしょにいられるでしょう。
 だから、存在の意味や価値を確かめようと努力すること事態がくだらない。そんなの当然のことだからと、簡略にしすぎかもしれませんが、そんなことを、立岩さんは言っておられるような気がします。

  ただ、生の在り方はそのように認められるとしても、身体が存在する限り、痛みは具体的に感じられるもの。「ここです痛いのは。辛いのはこのことです。早く何とかして!」と訴えられないという状況は、もしかしたら、死に匹敵するほど辛いのかもしれないと、医療者や患者はそのことを言うのですが、立岩さんは彼らの心配には、具体的には応えられません。
  痛みの緩和についても、モルヒネに頼るのはよいのかとか、介護する人がいないとか、治療するお金がないとか、現場でのトラブルの処置を問う終末期の議論もあるはずなのですが、この章は次の言葉で締められてしまいます。
「一身の生存のためのことは、いくつかのことに気をつけながら、した方がよいのだという、陳腐といえばまったく陳腐な処世の術が導かれる。」

  こうして、立岩先生はここでは理論だけで終わってしまうんですが(そうでない著書もあります)、その論の検証のために、ぴんからキリまである「陳腐な処世の術」対策のほうを引き受けているのが、この私の仕事ということになります。つけ加えますと、先生はよく皮肉な言い方をされますが、私たち現場の者の仕事にはいつも敬意を払ってくださっています。



→bookwebで購入

2007年08月24日

『生きることを学ぶ、終に』 ジャック・デリダ[著] 鵜飼哲[訳] (みすず書房)

生きることを学ぶ、終に →bookwebで購入


 デリダを読み、「生き残り」をどう生きるか考えよう.

 都内は先週、記録的猛暑で最高気温を更新したが、昨日も、そして明日もあさっても、私はALSの人たちの付き添い(目撃者として)である。彼らの生き方は真夏も真冬も関係ない。むちゃくちゃである。喉から呼吸器を着けている者も、嚥下障害で唾液さえ上手に飲み込めない者も、この暑い最中に「宣伝活動」をやめないし、気力も衰えない。重病人の自覚がない。
 昨日のKさんは、練馬区包括支援センター主催のケア研究会で講師を依頼されていた。2年前は奥さま以外の排泄介助をあれほど嫌がっていたのに、それが今では区内のケアマネやベテランヘルパーたちが教えを請う排泄被介助の当事者である。その上、彼はトイレ介助の演習DVDを自作自演で作成してきた。

また明日は、独居の女性ALS患者といっしょに、青森で開催される日本難病看護学会のシンポジスト。そのため、私たちは二ヶ月前から航空券を予約していた。朝一番のJALは7時半、羽田発だ。ところが、彼女の呼吸器の型番では、離陸時と着陸時は止めなければならないといわれ、生命維持装置を止めろといわれて怒った彼女は突然キャンセルしてしまった。だから、明朝は青森に私はこのまま空路。彼女は陸路。

この人たちが、あまりに平然として見えるので、一般の人にはさぞ不思議にうつるだろう。しかし、当人たちにはそれが「フツウ」になってしまっている。死が眼前に迫っている生だが、とにかく彼らは最期まで生きることに忙しいだろう。忙しすぎてどう生きようなどと学ぶ暇がないから、生きている限りとにかく、前へ前へと進むしかない。
 
 ところでデリダ。残念ながら、私には難解すぎてわからない。だけど、いくつか著書は読み、その謙虚で暖かい人柄を思い浮かべたりはしていた。彼の訃報を知ったのはいつだっただろう。そういえば、青土社の若い女性編集者が、慌てて知らせてくれたのは3年前だった。また、その翌年には、大学院で小泉義之先生とデリダの『死を与える』とE.ルディネスコとの対談『来るべき世界のために』を読んだ。だから、デリダには縁があるように感じられていた。というよりも、私の周囲の博学の人たちが、私に「デリダ」「デリダ」と囁くから、次第に好きになってしまったのかも。
 ただ、この『生きることを学ぶ、終に』は、難解ではない。私にも身近に、わかったように感じられる。まず表紙のデザインと薄さに惹かれたのは隠さないでおこう。 文中で、デリダは自分の病いを見つめながら、生や思想を語っている。デリダによれば、生き残りとは「死よりも生きることの、すなわち生き残ることのほうを好む生者の肯定」(P62)。そう語っているデリダも、進行癌に侵されながらも、生き続けることを肯定的に指し示している当事者である。

ALSのような生、虐げられた者たちの死にぞこないの生が、死を脱構築してきたのである。

 歴代の哲学者たちが、「気遣いに満ちた死の先取り」(p62)をして、必ず訪れる瞬間に備えて覚悟を構築していく中で、デリダは全く違っている。つまり彼に言わせると、「享楽することと、迫る死を思い悲嘆に暮れて泣くことは同じこと」になる。そして、「自分の生を思い返すとき、私には、自分の生の不幸な瞬間まで愛するというチャンス、それらを祝福するチャンスがあったと考える傾向があります。」(P64)とも言い、生を最期の一滴まで飲み干そうとしている。どこを読んでも哲学者の最期の覚悟が伝わってくる。
そしてまた、私にはまったく新しくはないのだが、デリダは次のように言う。

「<生きることを学んだ>ことはけっしてありません。実にまったくないのです!生きることを学ぶとは死を学ぶことを意味するでしょう。これは古い哲学的思想です。私はその真理を知っていますが、それには従っていません。」(p23)と。
 本当に私はこれと同じ言葉が「現前する」場に、しょっちゅう立ち会っている。だから、デリダは死んだが、デリダの哲学を継ぐ者は、そこここにいる、ということだ。その言葉は、呼吸器の排気と呼気の合間に交わされる。文字盤をはさんで目と目で応答可能な、親しい者同士の会話の中で。
「私は、死を受け入れることを学びませんでした。私たちはみな猶予中の生き残りです」(p23)と。




→bookwebで購入

2007年05月23日

『レヴィナス―何のために生きるのか』小泉義之(NHK出版)

レヴィナス―何のために生きるのか →bookwebで購入

何のために生きるのか。


答えは意外にシンプルだ。
だが、そのような、本書に書かれたままが、
レヴィナスの本意かどうかはわからない。

ここに描かれたのは、レヴィナスの言葉を借りた
小泉先生による「他者論」と思われる。

小泉先生によれば、レヴィナスはこうだ。

人間はいつでも何かを享受して生きている。
食べ物、機械、引きこもりなら、その狭い部屋も・・。
享受することにおいて、人はあくまでも自分のために生きている。
だから、私たちはエゴイストである。
自分の人生を享受する、幸福なエゴイストである。

病人のエゴイズムも小泉先生は肯定する。
ただ生き延びるだけでも、現に幸せに生きていると。
すると、呼吸器を享受している者の声も聞こえてくる。

享受において、私は絶対的に私のために存在する。
私はエゴイストであるが、他者に対してエゴイストであるということではない。
私は独りであるが、孤独であるということではない。
私は無垢な独りのエゴイストである。(p29)

ただ、レヴィナスの、あるいは小泉先生のいう
エゴイストとは他者のエゴを認めるのである。

他者はあるとき、エゴイストの前に公現する。

自分のために生きる私たちが、
その人のために生きたいと願う相手として。

殺す対象ではなく、肯定し分かち合う存在として
出現するのだ。
たとえ、それが「苦痛をもつ存在」であっても。

ここでは小泉先生の同僚の立岩さんによる文章が引用され
二人は声をそろえて、そのような他者の傍らで、
「精神の強度」を持つことを語りだす。

それは、選択的中絶に即して語られるのだが、
末期や不治と呼ばれる病いにも当てはまるだろう。

私たちは、彼らの苦痛をどのように想像するのか?

そのとき、実は私たちは「苦痛を凌駕する存在」を
すでに想像しているのだと小泉先生は言う。

そして、私たちにこそ「精神の強度」が
ありさえすれば、そのような他者に対峙しても、
殺すことはなく、「歓待しない理由はない」。

「いや、そうではない」という声が聞こえてきそうだ。

だが、この行(p54)に至ったとき、
私の母(何年も寝たままの病人)は、やっと救われた。
そのとき母は再び自分の<顔>と<名前>を
娘の、この私の前に取り戻したのである。

娘はそれまで、母のことを苦痛に満ちた身体、
死にたくても死ねない無駄な延命、
無念で惨めなひと、慈悲の対象、としてしか、
見ることができなかった。

だが、母は死なずに生きている。

このようにしても、
まだ生きているということは、すでに
苦痛を凌駕して生きているのである。
私がまだ知らぬ幸福のうちに。
それはまた、「私」という、
母の他者のためでもあろう。

こういえば、また批判されるであろう。
あなたたちこそ、自分勝手にそう思いたいだけだ。
かわいそうに、という声が聞こえる。

そうかもしれない。
しかし、母のこのような在り方も、
幸福な生の在り方のひとつなのだと思えるようになってから、
私は母だけではなく、その他の他者の生に対しても、
過剰に心配したり干渉したり批判したりしなくなった。
たとえば、自分の子どもにも寛容になれた。
その人のあるがままを自分とは違う生と認めて、
見守っていられるようになったのである。
私の手、私の判断が、身近なこの人たちに
常に善を成すとは限らないから。
教育も介護も同じこと。危害に通じる道でもある。

2003年、仕事帰りに立ち寄った喫茶店の本棚から
偶然手にとったこの本を、私は泣きながら読んだのだった。
コーヒーも音楽もよかったが、あの時、私は小泉義之氏に会いたいと
心から願った。(そしてそれは早くも翌年には叶うのだが)

本書では、レヴィナスも小泉調になる。
だが果たして、本当のレヴィナスは、こんなに挑発的で、
左翼的で、病人びいきであったのか・・・。

デリダもマルセルも、その他の哲学の先人も、
小泉先生の筆にかかれば、
形而下がとても気になる形而上学になる。
これは『病いの哲学』参照のこと。

ただし、やっぱり小泉先生は哲学者なので
社会学者のようにはいかない。
公共的に語らないのだ、そうだ。
(とはいえ、『「負け組」の哲学』では
相当の大声で形而下の我々に向かって、叫んじゃっているが)

たとえば、『兵士デカルト』の一節、
第四章 情念による制覇 エリザベト対デカルト

「エリザベトは哲学者が公的生活には全く無用であると示唆するのである。
デカルトはあっさり認める。デカルトは自分は「隠遁生活」を送っているから、
エリザベトに公的生活の格律を書き送ることは、
哲学者がハンニバルの前で「軍人の義務」を説くのと同様な無礼であろうと書き送る。」

(この章は、私=エリザベト、先生=デカルトのつもりで読むと楽しい)

小泉先生の「病い論」も「デカルト」も「負け組」もお勧め。
この続きは、またの機会に。



→bookwebで購入