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2012年12月16日

『海のいる風景 重度心身障害のある子どもの親であるということ』児玉真美(生活書院)

海のいる風景 重度心身障害のある子どもの親であるということ →bookwebで購入

「親子の間に横たわるもの」

子を授かると、新品の電化製品を購入するかのごとく、どこにも欠陥がなければいいとか、返品不可能なのだから、などと思ってしまう。重い障害のある児は生まれない方がいいとさえ言われてきた。だが、社会との接点で障害は生じる。社会の在り様や人々の接し方次第で、障害はほとんど気にならなくなり、まったく「なくす」こともできるのに、まるで障害を持って生まれたその子が悪いかのように、産んだ母親が悪いかのように、考え考えられてしまうのは、障害の何たるかを知らないからだ。親は秀でた子を求め、劣っている子は疎む。醜いことだが、これは我々の本能と社会に組み込まれた愚かさの一部である。そうではないことを知っている人は、このような書き出しをしてしまうことを許してほしい。現実問題として、この競争社会を生き抜くうえでの損得を考えてしまうと、親はわが子の生まれつきの性能では満足できない。そして親がひどく視野狭窄的な理想主義者であったとしたら、わが子の将来の幸せのために、さまざまな「コントロール」が行われる。
たとえば、過剰なおけいこ事や塾通い、まるで大人のような行為を小さな子に強要することなど、自発的に遊ばせず、時間の使い方に細かく口出し自由を奪うことなどだ。 わが子への介入には、たとえ愛情から発しているとしても、エンハンスメントの臭いがプンプンする。親はよほど意識的でなければ(自戒を込めて、)子を「世界でただ一つの花」とは見ないものだが、著者の児玉真美は海さんを育ててきた中で、社会や家族との接点で起きたさまざまな軋轢に傷つきながらも、その時々の心の揺れを丁寧に描写している。障害児を持つ母親がみな彼女のような鋭い感性を持っているとは言えないが、ほんの些細な悪意のない言葉が(ほとんどが善意から発せられている)いかほどに彼女たちを追いつめていることだろう。

 重度障害児の場合、一種の治療やケアが過剰に行われることがある。日本はまだまだ大人しいのだが、海外の重度障害者はとんでもない介入に直面してきた。そんな生命倫理に係わる事情を収集し、自分のブログに公表しているのが児玉真美だ。
「こんな恐ろしいことが、世界のどこかで起きている」とばかりに、海外の生命倫理が翻訳そのものとして流入し、舶来はなんでもありがたがる学者の一部に警告する。海外事情を日本語訳しブログに掲載、更新するのが「私の仕事」という。児玉の無料奉仕のおかげで、どんなにひどい侵襲的作為的な行為が、いわゆる「自立」「自己決定」「自己選択」が保障されているはずの自由の国で起きているのかを、知ることができる。
児玉のもう一冊の本。『アシュリー事件』もお勧めだ。そこでは、まだ6歳の重複重度障害児、アシュリーにも両親の意向により「ホルモン大量投与」「子宮摘出、乳房芽摘出」が「治療」として行われた。それもアシュリーのQOLのために…。アシュリーが「在宅生活を続けられるために」親が考案し実施した「成長抑制」。アシュリーの身体が大人になれば介護も重労働になってしまう。そんな成長には「用がない」とし、知能の程度に合わせて子どもの身体のままでいることが、「合理的」であるという理由で、幼い子の身体に医療的介入が親の希望で行われたのである。
読めば読むほど醜い事実が判明していくのだが、アシュリーに行われた医療介入は本人のためとの理由から身体への深い侵襲が行われた。父親は「アシュリー療法」と名付け、その詳細をブログで公開しているが、賛同者は少なからずいるようだ。
「親なら許される」という態度が障害児にとってどれほどの脅威をもたらすことか。
ネオリベ生命倫理学者らの持論ひとつひとつに毅然と反論している後半も読みごたえがある。

アシュリー事件から生命倫理を考えるhttp://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara



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