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2012年12月24日

『世界で1番大切なことの見つけかた PRESENT』坂之上洋子(メディアファクトリー)

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「クリスマスシーズンを生き抜くために」

クリスマスって
幼い子どものいる家庭や 一緒に何気なく過ごす人がいる人には やってきて当たり前の年中行事のひとつだろうけど、 そうではない人にとっては、 悲しく、痛く、辛い1日。

どうやってやり過ごそう。
ブログもFBもハッピーな写真や言葉で
溢れ返っているし、


誰かの無垢な言葉が、
誰かの心には突き刺さって
時を凍らせてしまってる。


不特定多数の人が
一斉にお祭りをして、わたしは幸福だと宣言する
そんな恐ろしい時間がやってきた。
そして、今だけかもしれないけれど、
全然そう言う風に思えない人にとっては
みっともなかった記憶や、
二度と戻らない親密な関係が、
まるで走馬灯みたいに、何度も何度も頭の中で旋回して
一種のノイローゼ。


自分の記憶が、自分を傷つけてしまうの。
記憶は、そう、凍った心を溶かさないでおこうとする。


そんな、決して少数ではない人たちにとって、
クリスマスイブから新年に向かうこのシーズンは
いたたまれない季節。


テレビもいや、ラジオもいや。
そんなあなたにこの本を贈りますね。


もう、今日はクリスマスイブなので、
プレゼントには間に合わないかもしれないけれど、
わたしはわたし、って、思えるようになる。


ずっとあとで (P57)

失恋は素敵よね
泣いて反省して
やさしくなって


そしてあなたはもっと
きらきらと魅力的になる


あなたを選ばなかった
その人は
ずっとずっとあとになって


「ああ、もったいなかったです」って言うのよ
きっと

言葉にする(P74)


大切な人が
うまくいっていない時に
何もしてあげられなくて
辛かったら

それをちゃんと言葉にすること
何もできなかったら
「何もできなくてごめんね」って


自分に近い人にこそ
ちゃんと言葉にするのよ




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2012年12月16日

『海のいる風景 重度心身障害のある子どもの親であるということ』児玉真美(生活書院)

海のいる風景 重度心身障害のある子どもの親であるということ →bookwebで購入

「親子の間に横たわるもの」

子を授かると、新品の電化製品を購入するかのごとく、どこにも欠陥がなければいいとか、返品不可能なのだから、などと思ってしまう。重い障害のある児は生まれない方がいいとさえ言われてきた。だが、社会との接点で障害は生じる。社会の在り様や人々の接し方次第で、障害はほとんど気にならなくなり、まったく「なくす」こともできるのに、まるで障害を持って生まれたその子が悪いかのように、産んだ母親が悪いかのように、考え考えられてしまうのは、障害の何たるかを知らないからだ。親は秀でた子を求め、劣っている子は疎む。醜いことだが、これは我々の本能と社会に組み込まれた愚かさの一部である。そうではないことを知っている人は、このような書き出しをしてしまうことを許してほしい。現実問題として、この競争社会を生き抜くうえでの損得を考えてしまうと、親はわが子の生まれつきの性能では満足できない。そして親がひどく視野狭窄的な理想主義者であったとしたら、わが子の将来の幸せのために、さまざまな「コントロール」が行われる。
たとえば、過剰なおけいこ事や塾通い、まるで大人のような行為を小さな子に強要することなど、自発的に遊ばせず、時間の使い方に細かく口出し自由を奪うことなどだ。 わが子への介入には、たとえ愛情から発しているとしても、エンハンスメントの臭いがプンプンする。親はよほど意識的でなければ(自戒を込めて、)子を「世界でただ一つの花」とは見ないものだが、著者の児玉真美は海さんを育ててきた中で、社会や家族との接点で起きたさまざまな軋轢に傷つきながらも、その時々の心の揺れを丁寧に描写している。障害児を持つ母親がみな彼女のような鋭い感性を持っているとは言えないが、ほんの些細な悪意のない言葉が(ほとんどが善意から発せられている)いかほどに彼女たちを追いつめていることだろう。

 重度障害児の場合、一種の治療やケアが過剰に行われることがある。日本はまだまだ大人しいのだが、海外の重度障害者はとんでもない介入に直面してきた。そんな生命倫理に係わる事情を収集し、自分のブログに公表しているのが児玉真美だ。
「こんな恐ろしいことが、世界のどこかで起きている」とばかりに、海外の生命倫理が翻訳そのものとして流入し、舶来はなんでもありがたがる学者の一部に警告する。海外事情を日本語訳しブログに掲載、更新するのが「私の仕事」という。児玉の無料奉仕のおかげで、どんなにひどい侵襲的作為的な行為が、いわゆる「自立」「自己決定」「自己選択」が保障されているはずの自由の国で起きているのかを、知ることができる。
児玉のもう一冊の本。『アシュリー事件』もお勧めだ。そこでは、まだ6歳の重複重度障害児、アシュリーにも両親の意向により「ホルモン大量投与」「子宮摘出、乳房芽摘出」が「治療」として行われた。それもアシュリーのQOLのために…。アシュリーが「在宅生活を続けられるために」親が考案し実施した「成長抑制」。アシュリーの身体が大人になれば介護も重労働になってしまう。そんな成長には「用がない」とし、知能の程度に合わせて子どもの身体のままでいることが、「合理的」であるという理由で、幼い子の身体に医療的介入が親の希望で行われたのである。
読めば読むほど醜い事実が判明していくのだが、アシュリーに行われた医療介入は本人のためとの理由から身体への深い侵襲が行われた。父親は「アシュリー療法」と名付け、その詳細をブログで公開しているが、賛同者は少なからずいるようだ。
「親なら許される」という態度が障害児にとってどれほどの脅威をもたらすことか。
ネオリベ生命倫理学者らの持論ひとつひとつに毅然と反論している後半も読みごたえがある。

アシュリー事件から生命倫理を考えるhttp://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara



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2012年12月07日

『弱いロボット』岡田美智男(医学書院)

弱いロボット →bookwebで購入

「ひとりでできないもん、って、つぶやいていたんだけど」

ロボット開発の話かと思いきや、そうではなかった。この本は私に「違う話」をしたがっている。いや、もちろん著者の岡田美智男さんは優秀な科学者でロボットの開発者で、そして、彼が執筆したのはロボットの話だ。独創的な発案で誕生したさまざまな、コミカルなロボットたちが次々に登場する。そしてそれらのロボットの愛らしさについてはここで言うまでもないのだが、たいしたこともできないそれらのロボットの存在理由が、なぜか、じんわり心に沁みた。

読書の真髄は、読み手に意味が託されているところにある。読み手にいかようにも読まれ、委ねられ、託される本が良本である。誰もが読書を通して秘密の関心事の解を読み取ろうとするのである。ちょうど、この本を読みだした時の私は人生最大のストレスに見舞われていて、いかにしてこれを回避できるか、手放せるかが関心事であった。

親しい人との接点や、仕事をして糧を得るという営みの中での、他者との関係において、とても悩んでいた。当然、私は私の身勝手さや不明瞭さ、失敗を許さない。私は真面目にも、きちきちとやるべきことを分担し分担された。仕事でも私生活でも、相手がいれば、最初から私のすべきことは相手によって規定されてしまうと思っていた。思いやりのあるつもりで、相手や第三者の意図を私は想定し、あらゆる可能性に配慮して、予測し、大きな網を張って、近未来を待ち構えてきた。他者がいれば、そのほとんどの営みが、そういった双方向性である(べきである)からには、相手の立場から自らの位置を決めるのだ。よい行いとは、ほぼそんな発想で始まっている。
そして、岡田さんの初期ロボット開発においても求められていたのは、そういった余地のない流暢さだったという。しかし岡田さんは疑問を持ってしまった。そして、いわゆる「非流暢なメカニズム」に惹かれて、関心が移っていったという。何かおもしろい研究テーマはないかなあ、ということで参照されたのが「関西弁」。コミュニケーションにおける相互のシンクロニーでは、相手の言動を予測しなければ次の手が出せないというのではなく、むしろ自分の発話の意味さえ相手に投げ出して、委ねてしまうことのいい加減さに、面白さを発見される。関西弁にある一種の軽快さだ。相手のどんな反応に対してもおおらかに対応できる、という安心感みたいなもの。そして、それが「賭けと受け」という概念として像を結んでいった。

たとえば、一歩踏み出す時の地面は自分が歩いていると同時に「地面が私たちを歩かせている」。歩く時、着地について我々は何かを考えているわけではないが、地面に身体を委ねている。そこに受けと賭けの関係が生じる。ということで、自分は常に主観的に振る舞っているつもりだが、実はそうではないのかもしれない。ためしに、意識を主から従へと切り替えてみる。すると著者が言うように、「投機的な振る舞い」ができる私が感じられるようになり、世界が新鮮に見えてくる。
他に委ねる生き方については、私も拙著『逝かない身体』の主要な要素として、重度障害者の生として描いたことがあったのだが、岡田さんはそれを、ロボット製作のコンセプトとして使ってしまった。
たぶん岡田さんは、何もできなくなってしまった植物状態の人とか、末期患者の生のあり方についても同じように考える人なのだろうなぁと漠然と想像ながら、実はかくいうこの私こそが、たいへん頑固にキチキチと、誰かに期待し、誰かと自分とはこうあるべきだという常識に固執していた。「ひとりではなにもできない。ひとりでは生きられない」そう呟きながら…。

だから、もう、近くにいるたくさんの誰かさんには期待しないで無計画に委ねたいと思う。そうして、私を委ねるところから、がちがちした関係をひらいていく。そのためにも、私をまず柔らかにしていこう。自分をひらくヒントがあった。新しい視座を与えてくれた。この一冊も「ケアをひらく」シリーズである。
 


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