« 2012年03月 | メイン | 2012年09月 »

2012年06月17日

『脳死・臓器移植Q&A50』山口研一郎監修 臓器移植法を問い直す市民ネットワーク編著(海鳴社)

脳死・臓器移植Q&A →bookwebで購入

「家族の同意による「脳死」臓器移植のおかしさ」

平成22年7月、改正臓器移植法により15歳未満も含めて家族の承諾で「脳死」での臓器提供が可能となった。あれから約2年。この間の15歳以上の提供は89例と急増したが、15歳未満は今回を含めて2例。移植を待つ側の思いはわかる。海外への移植ツアーを聞くにつけ、なぜ国内で解決できないのかというジレンマもわかる。だが、誰かに移植される臓器があるのであれば、同時に奪われる命があることを忘れてはならない。


今回の脳死臓器提供においても不可解な点が私にはあった。ニュースによると「今回、6歳未満で初めての脳死を判定した富山大病院(富山市)が15日、男児は事故で一時的に心肺停止となり、低酸素性脳症になったことを明らかにした。今月初旬に別の病院で治療を受けた後、富山大病院に転院したという。同病院によると、男児の家族に7日「重篤な脳障害を来しており、回復が難しい」と説明。その際に家族から臓器提供の意思が示されたという。9日になって「脳死という状況に近づいている」と家族に話した。記者会見した井上博病院長は、7日の時点で「脳死という言葉は使っていない」と強調した。」

これでは子が「脳死」に至る前に親は臓器提供を決断し、病院に申し出ていることになる。病院の説明でも低酸素脳症で重篤な脳障害が残る可能性を説明した段階での親の意思決定だった。これは「脳死」に至らせるための治療の差し控え、まだ見ぬ誰かの臓器として我が子が移植されるための保全的な治療に切り替えられたとしても、親は黙って容認するということである。なぜそんなにも早く決断がなされてしまったのか。思うに医師の説明どおり、どんなに治療しても重い脳障害が残るのであれば、家族にとっては「あの子が永遠に失われてしまった」ということなのであろう。低酸素脳症による遷延性意識障害と「脳死」の違いなど、家族にとってはどうでもいいことなのかもしれない。重篤な脳障害による植物状態で生き長らえる恐れがあるのなら、いっそのこと臓器を提供して人様のお役に立ってくれた方があの子のためだと思ってしまう。それも普段からこんなことを考えていない人にとっては致し方のないことだろう。


家族の同意により臓器提供のための準備が開始される。まだ「脳死」に至ってもいないのに、患者の身体への処置や親族への説明、臓器提供の打診が開始される。これはホントにおかしなことなのだ。臓器を奪われる側にも生きている限り可能性が残されているし、たとえ「脳死」に至っても細胞のひとつひとつは生存に向けてもがいており、五臓六腑の恒常をひたすら求めるのが生命である。世界各地で「脳死」からの奇跡的な治癒も報告されているように、脳の可塑性は未知数で、我々は脳についてまだ何も知らないと言ってもいい。そして、何より生存に対するどん欲さに、ドナーもレシピエントもないのである。


「脳死」臓器提供の事例が報告されるたびに、そこに倫理的問題がないか、そのつど検証しなければならないと思っている。もちろん愛する子を差し出したご両親の辛さは重々わかる。だが、「脳死」による臓器提供を美談で飾ってしまってはならないし、我々はどんな形であれ人の命を奪うことに慣れてはいけないと思っている。科学的医学的洞察力をつけ、命のリレーの意味を問い続けたい。それが細胞レベルでの回復可能性に賭ける前に臓器を取り出されてしまう「脳死」の人への弔いであり、家族や医師の早すぎる決断を抑止する力にもなるのだから。

本書は臓器移植法改定後の2009年10月、「脳死は人の死ではない」「脳死からの臓器移植に反対する」「臓器移植以外の治療法の研究・確立を求めていく」という3つの共通の立場を掲げて結成した市民連絡会が、2011年に発刊。編集の神谷さんから手渡されてはいたものの、なかなか紹介する機会がなかったが、今回の6歳児への脳死臓器移植に際して再読している。さまざまな論点が提示されていたにも関わらず、議論が足りずに法制化されてしまった。だがいったん法律になれば人々の、特に現場の思考は停止する。


→bookwebで購入