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2008年03月14日

『体の贈り物』レベッカ・ブラウン[著] 柴田元幸[訳] (マガジンハウス)

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「ケア小説における引き算の効果」

  高校の友人で最近はケア関係のライターやっている石川れい子から、『家庭の医学』を薦められたのが、レベッカ・ブラウンを知ったきっかけ。その時はただぱらっと見ただけ。正直言えば、介護事業をしている私が人様の介護話を読んでも楽しいかなあと思ったりしてた。当事者にとって良い編集者やライター、学者とは、啓発的で教育的な友人であって、常日頃からオルグすべき作家を紹介してくれたり、新刊を送ってくれたりするのだ。ありがたいことに。
ただし、不勉強な当事者の場合、貴重で無視できないはずのアドバイスの多くは日々の雑事の後回しになってしまうのだが、やっと芽が出たから、悦べれい子。レベッカ・ブラウンは私も「良い」と思う。 この種の小説の多くで、ケアラーの感情労働がテーマになり、要するに私たちにしてみれば、何かが過剰に描かれるのが常である。それが体験者にとっては重苦しい。また、病人話も大方がそう。『モリー先生との火曜日』も大変に評判が良いのだろう。でも私には辛い記述が多かった。というのも一般読者と違って私たちは行間を、意図的に隠されたり事実や、盛り込まれた物語を読んでしまうから。それは裏読みといえばそうなのだろう。しかし、患者の体験、家族の体験、介護者の体験だけが、飾りなく描かれてもいいと私は常々思ってきた。

  ここでレベッカは、エイズで死にかけている人たちとヘルパーのやりとりを描写しているが、ドラマティックな何かが起きるわけでもないし、病いの体験から何かを学べというわけでもない。西海岸の陽射しの差し込む白い部屋にやせ細った人が横たわっている。定時にたずねてくるヘルパー(作家)は、エンシュア入りのパンケーキを用意し、バスタブにお湯を張り、ハーブエッセンスを数滴落とす。ジャムと石鹸の香りに、嘔吐物と汗のニオイが混濁すると、窓を開けて空気を入れ替え、服を脱がせ風呂にいれて、丁寧に洗い、湯冷めしないようにしっかり毛布で包んで話を聞く。そんな介護の様子がリアルに描かれているだけであるが、文面では語られない情感は十分に伝わってくる。また、エイズ末期の者の生活も何通りも語られる。彼らは、UCS(アーバン・コミュニティ・サービス)のホームケアサービスを受けながら、ホスピスの順番待ちをしているのだ。それは長いリストのはずだが、自分の番は意外に早く回ってきてしまう。そんな彼らをホスピスに見送るヘルパーたちに神話などない。エイズ患者にとってのホスピスとは、ひっきりなしに友人が死ぬ場所、だから友人を作る気もなくなるような場所。一度入ったら二度と出てこられない場所、ただ死を待つだけの場所であるから。
   私たちは、ホスピスや死をモチーフにした多くの名著に差し込まれた過剰な何かを、この小説を通して改めて知ることができる。余計な感情表現を一切排除した文体に光る何かも。



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2008年03月02日

『閉鎖病棟』帚木蓬生(新潮文庫)

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「閉鎖しているのは病棟なのか?」

久しぶりに小説を読んだ。本書を手にとったのは、確か東京駅地下の本屋だったと思う。
 商売柄か、題名にまず惹かれた。『閉鎖病棟』。そしてまたちょうどその頃、厚生労働省で障害者団体の交渉があり、私は精神と知的障害者の交渉の様子を、彼らの背後から聞いた。身体障害も辛いものだが、精神障害もかなり辛いものだ。まず、知的障害は「健康そう」で「頑強」に見えることもあって、介護の必要性が一般になかなか理解されない。精神障害は何でも自分でできるように見えてしまうが、いったん頭の中が嵐になれば自分で自分をコントロールできない。身体麻痺以上に彼らは自立困難になるのである。 この小説に出てくる者たちも、ある者はそのように生まれつき、ある者は運命に翻弄されてそのようになってしまった。そして吹き溜まりのような精神科病棟に漂着し留まっているのだ。

作者の帚木蓬生は精神科医である。だからなのか、小説に描かれた病棟には生活臭が満ちていて、従来の小説に描かれてきたような精神病者の脅威は感じられない。むしろ、中盤では患者同士が誘い合って、梅見の散歩に出かける場面や、患者自身の自作自演の演芸会の様子が滑稽にのん気に描かれる。ここでは寄り合い所的な病棟の連帯が伝わってくる。こういう平和な生活が長く続けばいいのに、とさえ思い出す読者を、作家は待っていたかのように、抑えた筆致で今度は淡々と患者たちの過去の重さを描いてみせるのである。病棟がどんなに平坦な日々を用意してくれても、彼らの多くは自分の人生から逃げ切ることができない、とばかりに。
ある者は、唐突に始まる陰惨な物語の中で、その生い立ちから紹介され、ある者は最後まで、なぜここに来たのかが伏せられている。チュウさん、秀丸さん、クロちゃん、ストさん、博士、昭八ちゃん、敬吾さん、まだ中学生の島崎さん・・・。
 ほとんどの者に共通して言えることだが、彼らの障害も、彼らの運命も、人知及ばぬ定めによるものだ。彼らのせいではない。障害は一人で背負うものではないことを、この作家は百も承知である。しかし小説は現実同様、残忍に容赦なく患者たちを追い詰めていく。そして、精神障害がもたらすリアリティだけが、弁護なしに塗り重ねられていくのである。
 だからこそ、読者は知的障害と精神疾患の鈍さと鋭さを、家族や病棟での出来事を、擬似体験せざるをえない。彼らの過去には、理由のわからぬ堕胎も、親族殺人もあり、本人でさえ、なぜそうなったのか、どうしたらよいのか、わからないのだ。不安のうちに身の回りで事件が起こる、という感覚を、読者は体感してしまうので、作家の戦略どおり、精神障害に対するステレオタイプは消え失せてしまう。
 しかし、病棟での平和もそう長くは続かない。
クロちゃんが行方不明になり、死体で発見される。そして、病棟で殺人事件が起きるのを境に、小説の中心人物たちに的が絞られ、後半部は前半部では伏せられていた情感が一挙に溢れ出す。その構成力に圧倒される。初版は平成九年。山本周五郎賞受賞作品。

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