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2007年10月23日

『〈病〉のスペクタクル 生権力の政治学』 美馬達哉(人文書院)

〈病〉のスペクタクル 生権力の政治学 →bookwebで購入

「「健康」は義務なのか?」

  今回も神経内科医が書いた本を紹介する。   著者の美馬先生とは先日、某書店が企画したイベントで久しぶりにお会いしてその後、飲みに行ったが、正面に座られた美馬さんのステキなネクタイ、よく見ればアニメ柄である。きっと研究者のステレオタイプを「裏切られて」喜ぶゲストの顔が見たかったのだろうが、本書でも一種の「裏切り」を目指していると美馬さんは言う。前書きにもあるように、医学医療を確固たる独自の学問分野としている「既存の知の制度」に喧嘩を売るつもりだ。そしてまた、その医学と社会が作ってきた数々の言説も。 だから、初っ端から「健康増進法」が批判される。

 国民が健康増進に躍起になり、その脇で病気の恐怖を煽るメディアの宣伝があると、病気の恐怖と予防が反照しあうような事態を招いてしまう。そしてそれは、発病した人々を「義務を守れない人々」とラベリングし、人為的状況的差別を引き受ける立場に追いやることになる。
 先ほど地下鉄のつり広告に、「メタボでクビになりました」という週刊誌の見出しをみたばかりだが、まさにこのような状況を美馬さんは困ったことだと思って、「健康増進に役に立たないばかりか、病的な主張を広げている」と言われたくて、本書の執筆を目指すことになったという。

  そんな美馬さんのことを「病的」とは呼ばないまでも、「ひねくれ者」と呼ぶ社会学者の立岩真也氏を相手に2時間超。対談は書店のカフェに陣取って行われ、最初は硬かった美馬さんの口も、立岩氏に煽られて滑らかになった。
  医療批判は社会学の十八番。そしてついでに患者側から言わせていただくと、医療が社会的難問を多く抱えていることは疑いようもない事実だ。しかし、現実を見ているはずの臨床医はなぜか沈黙してしまっている。フーコー以降、医療がひとりひとりの「顔」を、すなわち患者の生活や個別性を消去していることは指摘されている。そうして、政治は医療によって、少数の者を静かに淘汰してきたか、あるいは奴隷化してきたのだが、その「手先」となって働く人々は現実が直視できないのだと、稀少疾患の者は常々ため息交じりに考えるのである。医療従事者が自己を棚上げせずに業界を省みることは難しいらしい、と。*
 しかし、美馬さんの語り口を聞けば、彼が今でも京大の付属病院で週一回診療をしている現役の臨床医だということを忘れてしまいそうになる。医学には内部から風穴を開ける必要があり、それができるとしたら同業者しかない。そしてそれは社会学や医療社会学とはまた別の手法、さらに言えば、学問と臨床といった領域を横断するような別の手法があるはず。私はひそかに美馬先生に期待している。

 * もっとも「医者に患者の気持ちなどわからない」、というのもステレオタイプである。

  さて、美馬さんが紹介しているスペクタクル(壮大)な事例は、SARS、鳥インフルエンザ、エイズ、ES細胞、脳死、脳機能、がん、ストレス、そして難病、植物状態という風に、各国の政治経済史から病いにまつわるエピソードを拾ってきたもので、そういった意味でも本書はスペクタクル(豪華)で、各テーマは拡散し収束しようがないが、それぞれ独立した豊かな科学読み物になっている。
 たとえば、第六章では脳の視覚化が検討されるが、CTスキャンの装置の最初の発売元は、あのEMI、ビートルズのレーベルとしても知られている会社であるというエピソードが紹介される。また、「タンタン」としか言葉を発することができない者の脳のスケッチと美馬さんの「脳」の三次元構成画像が並べられ、病変部位が図解されたりしている。その「タン」としか発声できない男は、医学的には異常で病理的な存在に振り分けられても、「タンタン」に極めて変化に富む身振りをまじえて考えていることはほとんどが表現できたという。歴史的な事例の紹介の中に「医学」と「生活」の断層があらわにされる。

 立岩氏も指摘していたが、各テーマの可能性と方向性が章ごとに一つずつ、ここで示されたと考えれば、それぞれについて膨大な研究が積み残されていることになる。だとすると、私はどの部分を担当することになるだろう・・(という風に読んでみると良い)。

 たぶん、あとがき「アウシュビッツの回教徒」の章は、こちら側に向けられた美馬さんからのエールと私は勝手に解釈している。それは、「合理的な市民社会の価値観が、人間固有の活動的生活(ビオス)としての政治の領域に基礎を置いている」ことを、批判せよという風に聞こえてくる。
 確かに、私の周囲には民主主義社会において、ビオスから分離させられそうなマイノリティが集まっているが、それは植物状態などと呼ばれる重度の脳障害をもつ人、人工呼吸器と経管栄養とナースコールの日常的利用者、他者によって終末期と呼ばれるような人たちである。政治的弾圧により「生ける屍」とも「これが人間なのか」とも呼び捨てられてきたような人たちも入るだろう。現代のゾンビ、つまりあるQOL指標によれば「ゼロ以下のQOL」と一方的に評価されるような、ゾーエとして存在する生である。しかし彼らの尊厳は、社会政治の中に彼らを位置づけ、人間としての基本的な権利を復権させる研究と実践(それでもなお生き、なお生かすこと)によって細々と守られているのである。

 あ、そうか。美馬さんの本で改めて分かったような気がするが、アガンベンも気がつかなかった「その領域に内在している希望のモメント」を、私たちはとっくに発見している。そして、今、美馬さんが興味を抱いておられるという脳神経倫理をめぐる諸問題については、脳にダイレクトに働きかけるインターフェイスを用いて、ゾーエと双方向のコミュニケーションを図ろうとするような「病的な主張」に加えて、その実践をする者のひとりとして、私にも手伝えることがあるかもしれない。

 


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2007年10月09日

『ヒトラーの震え 毛沢東の摺り足――神経内科からみた20世紀』 小長谷正明(中公新書)

ヒトラーの震え 毛沢東の摺り足――神経内科からみた20世紀 →bookwebで購入

「多彩な著名人の病状から歴史を診断する」

医者の書いた本がしばらく続く予定である。今回は神経内科医。
著者の小長谷正明氏の医学論文は、私でさえいくつかは存じ上げていたのだが、著者みずから、あとがきで「今回はさまざまな考え方をもっている読書人向けに書いた」とあるように、本書は一般人に向けて執筆された。確かに神経内科的に考察された有名政治家の評伝は、肩が凝らない読み物になっている。

 ある日、小長谷氏がテレビを見ていると、左手を震わせているヒトラーが映った。注文の寄稿に何を書くべきか迷っていた氏はあっと声を出し、目をみはり、猛然とワープロを叩き始めたという。テレビを見てると病気の人が映る。直ちに無意識的に病名を診断してしまうというのは職業病という病であろうが、診断目的で歴史を紐解くと歴代の独裁者に神経難病のなんと多いことよ。

 表題の「ヒトラーの震え」はパーキンソン。「毛沢東の摺り足」はALSだ。またレーニンは動脈硬化だったらしいが、その原因を「強い言葉で同じことを繰り返すうちに考えの幅が狭くなり、頑固になる」アジ演説に筆者はみてとる。後を継いだスターリンもまた同じようにして言葉を失った。マルクス主義が「教条的で荒っぽいイメージになってしまったのは、ロシアで最初にレーニン主導のマルクス主義革命がおこったからかもしれない」。指導者の病歴から小長谷医師は歴史を遡りこう分析するのである。

 やがて、体調を崩したレーニンは共産党の独裁体制を強化するために、後継者として政治面ではトロツキーを、党中央委員会書記長にはスターリンを推薦した。トロツキーは断ったが、スターリンは受諾し、レーニンの脳梗塞の悪化に伴い代わって政権を操ることになるが、彼もまた脳梗塞、しかもパラノイア(誇大妄想)で、治療しようとする者は要人暗殺の疑いがかけられた。主治医のヴィノグラードフも医師団陰謀事件のかどで逮捕されラーゲリに送られてしまっている。そうして主治医を逮捕してしまった後は、獣医の心得のある警備兵にアドバイスを受けていたという。

 スターリンの後、フルシチョフは平和裏に追放され、ブレジネフに続くが、著者の調査をもっても、彼の病名は定かではない。だが、文献からは、重症の動脈硬化か多発性硬化症、脳軟化により判断力はなく、最後の二年間は側近の思うがままであったことは十分推察できるという。そして、アンドローポフ、チェルネンコと病身で統治能力のない書記長が続き、最後のゴルバチョフの時には社会主義共和国連邦の崩壊は、もはやコントロールできないものであった。そこで、マルクス主義国家の成立から崩壊までのことあるごとに「指導者たちの脳の疾患が深く関与していた」となる。ソ連だけではなく、アメリカ歴代の大統領もまた脳の疾患に苦しめられてきたというから、東西で政治という檜舞台の裏に神経難病や脳の器質的疾患が潜み、統治者をコントロールしていた。

 著者はできる限り彼らの診断書や医学文献を取り寄せて、その所見から医学的客観性を保ちつつ、歴史のうねりを診断した。その解説がいかにも難病オタクっぽくて、そしてそうであるがゆえに素人にも十分楽しめ、かつ著名人の病状の克明な解説により、怪しく難しげな神経難病についての、絶好の初心者向けテキストになっているのだ。その点でも一読の価値があろう。

 また著者は最終章の最後でこう結んでいる。
「リーダーの存在感があまりに大きいとき、執務能力の低下・失は強いインパクトとなり、ときには秩序が崩れカオスをもたらしかねない」。
 そう言われると、本職の医者でなくとも私たちだって、テレビ画面に映る政治家の顔色、表情、歩き方、化粧のノリをつぶさに見ては、彼らの健康状態をお茶の間診断しない日はないだろう。ただ、こうも考えられる。現職の総理大臣に倒れられては情けなくもあるが、国にカオスをもたらすほどの政治家がいない国に住んでいるということは、もしかしなくても、私たち、幸いなのである。


 




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