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2007年05月28日

『香水―ある人殺しの物語』 パトリック・ジュースキント (文春文庫)

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 つい先ごろ、「パフューム ある人殺しの物語」という映画が、日本に上陸した。あちこちのブログで紹介されていたので、たぶんまだどこかで上映しているだろうと思っているうちに、時が経ってしまったのだが。

 本書はその原作。映画もベストセラーの小説も、香水の販売促進に一役買っているのは疑いようもない。読後はますますデパートの香水売り場を素通りできなくなった私は、先日フランス製の小瓶を買ってしまった。私にしてみれば高い買い物になった。1万円という値段だけではない。海外土産でもなく、目的もなく、<ふらっと自分のために香水を買う>という行為は贅沢の極みだ。だが、新しい香りは常に衝動を連れてくる装置でもある。
 私は、日常的に香水を振りかけないと生きていられないようなヘビーユーザーではないし、瓶が空になるまで使い切ったこともない。ところが海外の友人と久しぶりにハグしたりすると、ふわっと濃厚な体臭につつまれる。彼らは香水と体臭を入り混ぜて、鼻腔に強烈にアピールしてくる。そんなとき、自分が幼い子どものように思われる。香水を纏う習慣がない私は、いったいどんな風に匂うのだろう。かと言って香水プンプンなどと言われるように、多くの日本人にとって、他人と香りを共有できるのは石鹸やシャンプーのほのかな香りくらいまでで、カラダの匂いが自己主張したりすると、とたんに交際に支障がでることもある。だから、私たちの文化では、無臭は悪いことではないのだが、この小説の主人公グルヌイユは生まれついての無臭体質であるがゆえに、彼にとっては人格そのものを表現する体臭に、異常な執着をもってしまう・・・。グルニュイユの嗅覚を通して、人間性の極みとしての<体臭>が描かれる。

 著者のパトリック・ジュースキントは1949年生まれのドイツ人で、新聞記者や編集者をしながら戯曲や小説をわずかばかり書いた。この『香水 ある人殺しの物語』は、85年に発表されたとたん、ドイツでベストセラーになり、23カ国で翻訳され1500万部以上が売れたという。日本での出版は、池内紀の翻訳で1988年。その池内の文章がとにかく素晴らしい。
 海外の小説は翻訳者の腕次第。良く悪しくも訳者によって書き直されるといってもいいが、本書は日本でもかなり売れたという。2003年に文春文庫から発刊されるにあたって、池内自身があとがきを寄せている。「読み直して、思い知った。このような翻訳の力わざは、自分にはもう、とてもできない。だから文庫本として再生するのがうれしい」と。(というが、彼はカフカの翻訳でも素晴らしい仕事をしている)

 当初、文庫本の表紙カバー画はワトーの「ユペテルとアンティオペ」であった。
布の上に横たわる赤毛の美少女は裸身で、この小説の重要なモチーフ。表紙は時として映画の予告編の役目を果たしている。私は映画の評判を先に聞いたので、いずれDVDで観ようと思い、活字を先にしたが、その時期どこのインターネット書店でも本書は売り切れ。
最近、やっと中古で入手したのだが、知らぬ間に増刷され今なら簡単に入手することができるようだ。だが表紙は変わった。映画「パフューム」のイメージなのか。でも私は以前の表紙カバーのほうが好きだ。

 先に読むか、それとも観るか。迷う楽しみがあるが、私は読むほうを先にお勧めしたい。なぜなら、翻訳者の力量もそうだが、言葉が嗅覚を刺激する不思議な感覚をまず楽しんでいただきたいから。それに、脚本家や監督の意図も見えてこよう。映像が先だと、想像力が鈍るだけではなく、原作者の感性から遠のくような気もするし、映像化の段階で加減乗除されたものが何だかわからない。
 では、問題の場面から、ちょっとだけ引用する(ネタばれにならぬよう祈る)。
 

 「グルヌイユは立ち止まった。心をしずめて嗅いでみた。あの匂い。たしかにしっかり捉えている。
 一本の帯としてセーヌ通りを下ってくる。まぎれもない匂いである。しかし、この上なく微妙で、
 こまやかな匂い。胸が激しく動悸を打っていた。大急ぎで来たせいではない。胸がこんなにも
 はやるのは、当の匂いを前にして途方にくれているからである。グルヌイユは何か別の匂いと
 比べようとした。だが、うまくいかない。いかにも新鮮な香りだったが、スイートレモンや橙のような
 新鮮さではない。ミルラやシナモンやミドリハッカや梨や樟脳や松の実ともちがう。五月の雨や、
 氷のような北風、あるいは泉の水の鮮度ともちがう・・・・」pp58.

 結局、その「神聖な芳香」に引き寄せられ、驚異の嗅覚を持つグルヌイユがたどり着いた匂いの源はひとりの少女だった。テーブルに向かってプラムの実を剥いている娘の齢は13,4.
グルヌイユは「何百、何千もの匂いといっても、この一つの香りと比べれば何ものでもない。」と思い、
「この匂いを自分のものとしない限り、人生にいかなる意味もないことは明らか」だと知る。
そして背後から近づき、「におい立つ体臭を丸ごと嗅いだ。やわらかな風を呑むようにして呑み込んだ」
成りゆきで殺してしまうのだが、その娘の香りを「わが身に刻印」した彼は、「これからの生のためのコンパスを発見した」のだった。グルヌイユはこうして猟奇的な香水調合師への第一歩を踏み出していく。
 やがて、特異な方法を開発し少女たちの匂いを収集するために、連続殺人者となったグルヌイユのたどり着く先は公開処刑場なのだが、彼がおとなしく死を迎えるわけがない。この処刑場シーンは前代未聞で、映画でも相当話題になった。だから、ここばかりは小説よりも動画のほうが衝撃的であろう。だが物語はまだここで終わらない。・・・この続きはまずは小説で。



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2007年05月23日

『レヴィナス―何のために生きるのか』小泉義之(NHK出版)

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何のために生きるのか。


答えは意外にシンプルだ。
だが、そのような、本書に書かれたままが、
レヴィナスの本意かどうかはわからない。

ここに描かれたのは、レヴィナスの言葉を借りた
小泉先生による「他者論」と思われる。

小泉先生によれば、レヴィナスはこうだ。

人間はいつでも何かを享受して生きている。
食べ物、機械、引きこもりなら、その狭い部屋も・・。
享受することにおいて、人はあくまでも自分のために生きている。
だから、私たちはエゴイストである。
自分の人生を享受する、幸福なエゴイストである。

病人のエゴイズムも小泉先生は肯定する。
ただ生き延びるだけでも、現に幸せに生きていると。
すると、呼吸器を享受している者の声も聞こえてくる。

享受において、私は絶対的に私のために存在する。
私はエゴイストであるが、他者に対してエゴイストであるということではない。
私は独りであるが、孤独であるということではない。
私は無垢な独りのエゴイストである。(p29)

ただ、レヴィナスの、あるいは小泉先生のいう
エゴイストとは他者のエゴを認めるのである。

他者はあるとき、エゴイストの前に公現する。

自分のために生きる私たちが、
その人のために生きたいと願う相手として。

殺す対象ではなく、肯定し分かち合う存在として
出現するのだ。
たとえ、それが「苦痛をもつ存在」であっても。

ここでは小泉先生の同僚の立岩さんによる文章が引用され
二人は声をそろえて、そのような他者の傍らで、
「精神の強度」を持つことを語りだす。

それは、選択的中絶に即して語られるのだが、
末期や不治と呼ばれる病いにも当てはまるだろう。

私たちは、彼らの苦痛をどのように想像するのか?

そのとき、実は私たちは「苦痛を凌駕する存在」を
すでに想像しているのだと小泉先生は言う。

そして、私たちにこそ「精神の強度」が
ありさえすれば、そのような他者に対峙しても、
殺すことはなく、「歓待しない理由はない」。

「いや、そうではない」という声が聞こえてきそうだ。

だが、この行(p54)に至ったとき、
私の母(何年も寝たままの病人)は、やっと救われた。
そのとき母は再び自分の<顔>と<名前>を
娘の、この私の前に取り戻したのである。

娘はそれまで、母のことを苦痛に満ちた身体、
死にたくても死ねない無駄な延命、
無念で惨めなひと、慈悲の対象、としてしか、
見ることができなかった。

だが、母は死なずに生きている。

このようにしても、
まだ生きているということは、すでに
苦痛を凌駕して生きているのである。
私がまだ知らぬ幸福のうちに。
それはまた、「私」という、
母の他者のためでもあろう。

こういえば、また批判されるであろう。
あなたたちこそ、自分勝手にそう思いたいだけだ。
かわいそうに、という声が聞こえる。

そうかもしれない。
しかし、母のこのような在り方も、
幸福な生の在り方のひとつなのだと思えるようになってから、
私は母だけではなく、その他の他者の生に対しても、
過剰に心配したり干渉したり批判したりしなくなった。
たとえば、自分の子どもにも寛容になれた。
その人のあるがままを自分とは違う生と認めて、
見守っていられるようになったのである。
私の手、私の判断が、身近なこの人たちに
常に善を成すとは限らないから。
教育も介護も同じこと。危害に通じる道でもある。

2003年、仕事帰りに立ち寄った喫茶店の本棚から
偶然手にとったこの本を、私は泣きながら読んだのだった。
コーヒーも音楽もよかったが、あの時、私は小泉義之氏に会いたいと
心から願った。(そしてそれは早くも翌年には叶うのだが)

本書では、レヴィナスも小泉調になる。
だが果たして、本当のレヴィナスは、こんなに挑発的で、
左翼的で、病人びいきであったのか・・・。

デリダもマルセルも、その他の哲学の先人も、
小泉先生の筆にかかれば、
形而下がとても気になる形而上学になる。
これは『病いの哲学』参照のこと。

ただし、やっぱり小泉先生は哲学者なので
社会学者のようにはいかない。
公共的に語らないのだ、そうだ。
(とはいえ、『「負け組」の哲学』では
相当の大声で形而下の我々に向かって、叫んじゃっているが)

たとえば、『兵士デカルト』の一節、
第四章 情念による制覇 エリザベト対デカルト

「エリザベトは哲学者が公的生活には全く無用であると示唆するのである。
デカルトはあっさり認める。デカルトは自分は「隠遁生活」を送っているから、
エリザベトに公的生活の格律を書き送ることは、
哲学者がハンニバルの前で「軍人の義務」を説くのと同様な無礼であろうと書き送る。」

(この章は、私=エリザベト、先生=デカルトのつもりで読むと楽しい)

小泉先生の「病い論」も「デカルト」も「負け組」もお勧め。
この続きは、またの機会に。



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2007年05月16日

『写真ノ中ノ空』 谷川俊太郎=詩、荒木経惟=写真 (アートン)

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 10日、東京八重洲の某所に国公立病院と主要な私立病院から神経内科医が集まっていた。
障害者自立支援法と医療制度改革とが病院経営に、ひいては難病患者の生活や意思決定にどのような影響を及ぼすのか、各地の情報を交換し今後の対策を練るために。
20余名も集まっただろうか、厚生労働省の研究班を構成する彼らは、日々の臨床と難病研究による政策提言の役割をかけ持っている。だが、療養環境は深刻化するばかりだ。
「療養場所を失った患者は、いったいどこへ行けばいいというのか・・」
日ごろは穏やかな表情も眉間に立て皺がよっていた。
難病と対峙する彼らの使命は、罹患した者の尊厳を支えQOLを高く保つこと。今はまだ治癒はできないし、原因も不明だ。だから医療の中でもストレスの多い領域だが、患者と共に歩み続けることはできる。難病は難破船にもたとえられる。船主は病人だが舵取りは医者である。同舟し何度も荒波風雨を乗り越えていくが、そんな風にして難病に魅せられた医者だけが、患者のそばに残っている。

 だが、当事者側の私の仕事は・・。そう、これは先生たちのように、自分で選び取ったものではなく、どちらかといえば天から与えられた類のものだ。当事者とは、結局つまるところどっか神がかりで、何の準備もなく突然走り出さなければならなくなった素人の、貧乏くじを引いた者たちの群像である。
ALSの母の介護から始まった難病との日々は私の生活を飲み込んだ。そして介護保障のために働き出して3年以上になる。
生きていることを否定され、生きようとしているのに死に追いやられる生と付き合う日々だ。今日も、永田町では、医療費削減の煽りを受けて、尊厳死と治療停止のルールは当事者を避けて形になろうとしているが、少子高齢化対策を叫ぶ掛け声の前に、生を慈しむ高齢者や重病人たちの現実は、人工呼吸器のこちら側からは、あまりに「リアル」だ。まだまだ生きられるのに閉塞感が漂っている・・・。

だから、   
ここで紹介するこの写真詩集は、難病の関係者のみならず、そんな風に生きづまった(息詰まった)人や、失速してしまった人と、そこに共にいる人たちに読んで欲しいとおもう。大きめのポケットになら入れて持ち運ぶことができるこの本は、秀逸な写真と詩で構成されている。
「空」を切り取り、いつでも参照できるようにしたものだ。

   

   空は何も見ていない  ただそこにあるだけ

   ヒトがヒトを愛しても   ヒトがヒトを見捨てても

   空は裁かない  いつまでも黙っているだけ

   呆けた母の上で  疲れた妻の上で  働き続ける夫の上で

アラーキーこと荒木経惟によるモノクロ写真は不思議なことに、空の青さをよりいっそう鮮明に心に映しだす。写真の上にカラーペインティングされた合成写真は、実在しない空なのだけれど、ノスタルジー漂うどこかで見た空だ。アラーキーは写真集『緊縛写巻』でも同様の技法を使い、「モノクローム(”死”)とカラー(”生)の融合だね、両性具有っていうか、生があって死があって、それが人生だからね」
と語る。

 その荒木が切り出し創造した「空」の写真は、谷川俊太郎の詩を伴って/伴われて表現力が増幅している。他方の谷川だが、実はALSとの縁は浅くない。今回は紹介しないが、またの機会に。彼の別の詩集の紹介もしたいので、その時にその事柄にも触れたいと思う。

  

  なにもかも失ってもこの空がある

  空は母だ

  どんなに甘えてもいい 空なら


            
 病院の上層階からだって、逃避先はある。長患いの病人からのプレゼントは、窓枠に切り取られた黄昏の空だった。健康な者は眼下に光の海や人々や車の列を眺めるために窓に近寄る。だが病人は、今日もばら色の雲が棚引く空に至り、遠く連なる灰色の雲の峰に立っている。
寝たきりで、瞼も重い彼らの想像力を侮ってはならない。彼らは一瞬にして空に解き放たれているから。

 

  このオフィスのこの天井の上またオフィス

  その天井の上またまたオフィスまた天井

  でも何十もの天井を垂直に突き抜ければ無垢の青



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