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2010年02月04日

『検閲と文学――1920年代の攻防』紅野謙介(河出書房新社)

検閲と文学――1920年代の攻防 →bookwebで購入

「政治と文学」を論じ直すために(評者・成田龍一)

検閲とは、表現の自由の根本にかかわる問題である。思想史研究の鹿野政直は、『近代日本思想案内』(岩波書店、1999年)で、近代日本の思想の歴史的展開をたどるとともに、それを抑圧した法制に言及し一章を割いている。鹿野は、近代日本における思想表現がいかなる対抗関係のもとで実践されていったかという問題意識をもつが、紅野も同様に本書の副題を「1920年代の攻防」とし、表現をめぐる統制と抵抗を描き出そうとする。

近代日本の検閲の考察は、現象的な(ということは、傷を負った作品を主とする)言及が大勢を占めるとともに、いくつかの時期を焦点としている。近代の検閲の開始である「明治期」は発禁年表を含む詳細な考察があり、猖獗を極めた「昭和期」、さらに敗戦後「占領期」の(占領軍による)検閲にも関心が寄せられている。

このとき、紅野が着目する1920年代は、まだまだ手薄な領域である。この時期の雑誌を開いてみたときには伏せ字が多くあり、発売禁止となった書籍や雑誌が目につくにもかかわらず、なかなか1920年代の時期の検閲は主題化されなかった。

本書では、三つの主題が設定されている。第一は、検閲の概観である。紅野は、内務省警保局が実施する検閲に関わる法律として、出版法(1893年公布、1934年改正)、新聞紙法(1909年公布)を取り上げ、検閲の手順をたどってみせる。

検閲には「届出主義」(「事後の検閲」)と「検閲主義」(「事前検閲」)があり、この時期には「届出主義」が取られていた。処分として、行政官庁の「発売頒布禁止権」、司法官憲の「発行禁止権」があるが、いかなる手続きで検閲がなされ、処分を防ぐためにどのような出版社(編集部)との事前の措置がなされていたかを、あきらかにする。

同時に、「取締内容の曖昧さが担保」されてもいて、「恐るべき強面の検閲官は見られないが、検閲ではないと言いながら検閲係が存在し、編集者が「検閲係長代理」の綽名をつけられるような、奇妙で不思議な実態」がみられたともする。

こうしたなか、紅野は、出版社が校正刷り(二通)を内務省(警保局図書課)に提出し内々的に検閲を受け、その指示により掲載を案分する「内閲」に着目した。「べつなルール」として1920年代に「慣例として実施されていた「内閲制度」」を説明した個所が、おそらく本書の中心となろう。

「内閲」により、削除が「指示」され、予定目次や広告の段階でも掲載中止が「示唆」された可能性を紅野はみているが、出版社の側から見たときには、発売頒布禁止を回避するため、「削除」や「掲載中止」をおこなうこととなる。伏せ字は、編集部が行った「内部検閲、すなわち自主規制の結果」であり、「すでに内務省からの通達」があり「それを内面化することで導入された規制」としている。

しかし、こうした努力にもかかわらず、「予定外のアクシデント」ともいうべき事態がおこる。製本―納本をしてからの「発売頒布禁止処分」である。それが本書でのいまひとつの主題となるが、その前に第二の主題である改造社に触れておこう。

改造社の検閲が本書の主題となった背景には、改造社の史料が近年、大量に発見されたことがある。本書では、改造社の出版活動が述べられるなか、1919年4月に雑誌『改造』が創刊されたことが述べられる。

『改造』も検閲に関わる傷跡は少なくないが、1926年7月号の頒布禁止(二編の戯曲である藤森成吉「犠牲」と倉田百三「赤い霊魂」が筆禍にあった)に着目し、さらに1927年9月号の中里介山「夢殿」の該当ページ切り取りに言及する。

そして、第三に紅野は、頒布禁止に対抗する動きに着目する。執筆者の側も、統制と規制に甘んじていたのではなく、『新潮』合評会(金子洋文、佐藤春夫、広津和郎、山本有三)が声をあげ、文藝家協会により「発売禁止防止期成同盟」(1926年7月)が結成され、浜口雄幸・内務大臣を訪問、さらに内務官僚たちに面会したことが紹介される。

また『改造』1926年9月号に、「発売禁止に対する一抗議」とともに、特集「発売禁止に対する抗議」を掲げ、『新潮』も同様に、特集アンケート「発売禁止制度に対する批判とその対象」をおこなうなど、「文学、演劇、映画というジャンルを超えて、新たな運動が始まろうとしていた」ことに、紅野は着目する。

検閲との関係で作品を論ずるとき、(1)作者が負った傷として、見ること/表現することが規制され、相互批評もままならないことが指摘される。また、(2)出版社の傷も記される。そして、(3)「文学者たちが自分たちの権利の維持のために企業と交渉する」経験を有していたことが、対抗する運動の背後にあることをいう。いずれも的確な指摘だが、議論としては、読者がどのように傷ついたかも視野に入れ議論してほしかったと思う。

こうした三つの主題を貫く紅野の関心は、「政治」にある。『改造』1926年7月号の発売頒布禁止に関しては、まず「犠牲」の公演禁止があり(演劇の検閲は警視庁保安部保安課が担当し、事前の脚本の検閲であった)、次に雑誌の発売頒布禁止となる。

このことを指摘したうえで、紅野は、1926年7月に筆禍処分が集中する「ミステリー」を見出す。そして紅野は、これを疑獄事件の多発などを挙げながら「政党政治の迷走」という政治的な背景から説く。普通選挙の実施という、(成人男性たちの)国民化の政治状況のなかでの出来事とするのである。

そのため(といって、よかろう)、紅野の関心は、改造社が企画した「円本」の政治学的考察へと向かう。紅野は、円本の企画――32ページに及ぶ「内容見本」と一面を使った新聞広告の分析をおこなう。たとえば、円本は「文学の価値」を社会/政治のなかで「認知」させる試みであり、総ルビは「文学の民衆化」であり、「文学を「民衆」のものにすることによって恣意的な権力の介入に対して文学を確固とした地盤に打ち立てる」ものと解釈した。また、永井荷風は、そうした試みを見抜いていたともいう。

本書は、こうして、文学の「国民化」をめぐる「政治」の書となっている。紅野は「文学に介入してきた検閲制度と、それに対する広汎な抗議運動と内部対立」―「改正普通選挙法の施行を目前にして政治的主張を超えた幅広い読者の支持によって、文学の橋頭堡を示そうとした、そのような政治的パフォーマンス」を描くのである。

中里介山「夢殿」をめぐる動きは、こうした関心のもとで主題化される。おりから、「内閲」が廃止された直後であり、『改造』1927年9月号が「夢殿」のために検閲処分に会い、雑誌から「夢殿」の部分を切り取り、介山の連載は中断された。内閲廃止後の「新たなルールの適用」であるが、「民間」からの検閲の強化の圧力もあった時期の出来事と紅野は言う。

ふたたび文藝家協会により「検閲制度改正期成同盟」が結成されるが、文学者たちの一連の動きは表現の自由の擁護であり、「大正デモクラシー」のひとつの動きとなろう。「雑誌協会」「出版協会」も動き出し、「雑誌編輯者協会」が結成されるが、文藝家協会とは齟齬があり、検閲制度改正運動の亀裂―停滞もみられた。

このことを指摘したうえで、紅野はさらに、文学者たちの次々の代議士へ立候補に着目する(1928年2月の総選挙への立候補は菊池寛、藤森成吉。1930年2月は山本実彦、堺利彦、中西伊之助、室伏高信、1936年には中里介山が立候補した。また、応援者の文士も多数いる)。

すなわち、本書には1925年、26年に集中する「文学作品への検閲処分」、それへの抗議運動、円本を中心とする「文学の「民衆化」による広汎な読者層の獲得」、そして文学者たちの選挙への参加が記されることになる。

この時期は、さきの鹿野の提唱によれば「改造の時代」ということになる(『大正デモクラシー』小学館、1981年)。「大正デモクラシー」の後半期にあたり、それに先行する「民本主義の時代」を政治的に、より急進化する時期である。そのなかで、文学者たちも政治化していくことがここに明らかにされた。1920年代に着眼した、あらたな「政治と文学」にかかわる議論であるといえよう。

本書に対し、紅野は「いわゆる文学テクストの解釈や分析はほとんどない」が「あえて」その「方法」を採ったという。紅野は「文学者や出版人たちが立っていたその当時の場所であり、言説の場」を描こうとしたという。「彼らに見えていた現実の認識地図」。「文学の政治/経済的な文化基盤」を考えたいとした。

紅野の衒いであるように見えるが、しかし、ことは文学研究の方法と対象に関わっている。紅野のこの書を、あらたな「政治と文学」の書とするとき、かつての1930年代、また敗戦直後からの1940年代半ばから50年代にかけて、前衛党との関係で論じられていた「政治と文学」の議論とは、大きく趣きを異にしている。

彼我の「政治と文学」の論じ方――問題意識、対象、方法の差異に、80年間の推移を見出すことができる。1930年代から50年代(この射程は、さらに1970年くらいまで延ばすことができよう)までの議論と、21世紀初頭の「いま」とは「政治と文学」をめぐってある断絶が見られる。プロレタリア文学の再論など、再び「政治と文学」が論じられようとしているなか、本書の議論は見過ごすことはできない。

あらたな「政治と文学」の議論のために、本書はその領野を提示しており、ぜひ手に取っていただきたいと思う。

(成田龍一・歴史学者)


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2009年11月30日

『読者はどこにいるのか――書物の中の私たち』石原千秋(河出書房新社)

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評者:高野優(フランス語翻訳家)



今回は書評をお届けします。フランス語翻訳家の高野優さんが、創刊ラインナップ『読者はどこにいるのか』について書いてくださいました。高野さんは、ヴェルヌ『八十日間世界一周』やファンタジー『アモス・ダラゴン』シリーズから、『モラル・ハラスメント』『自己評価の心理学』といった心理学読み物、『カルロス・ゴ-ン 経営を語る』まで、幅広いジャンルをこなす人気翻訳家。それこそ「読者はどこにいるのか」という問題意識から無縁ではいられない翻訳家という立場から、この本をどのように読まれたのでしょうか。お楽しみください。

*****

本書は「読者および読者の仕方」について書かれた本である。その中心にあるものは、「読者はもっと自由に本を読んだほうがいい」ということだと思われる。少なくとも、僕はそう読んだ。したがって、おもにその観点からこの本について話したいと思うのだが、最初に断っておくと、僕は別に本書の内容を詳しく解説しようと思っているわけではない。この書評はもっと個人的なもの――翻訳者という「原書を読み、その内容を読者に伝える」という特殊な立場にある人間が、本書を読んで、さまざまな刺激を受けながら考えたことをまとめた、かなり個人的な読書日記のようなものである。

本書ではまず最初の2章を使って、文学研究の中心が作家論から作品論、テクスト論に推移していった経過をたどり、テクスト論の時代の到来とともに「作者から自立した読者が誕生した」と説く。このあたりのことはこの「書評空間」の読者諸氏のほうが僕よりもはるかに知っているはずなので、詳しい説明は省くが、要するに、「読者が読書を通じて作者の真意を探る読み方」から「読者がテクストと交流しながらそこに自分なりの新しい世界を発見する読み方」ができるようになったということだろう。すなわち、そこにいたって初めて、読者は「作者の真意」という幻想からはずれて、自由に読書ができるようになったのである。

【実際に見た映画より面白い?】
では、「自由に読む」というのはどういうことか? 個人的な話をする。
昔、唐十郎率いる劇団状況劇場の怪優大久保鷹とお茶を飲んだ時に、「唐十郎が映画を見て帰ってくると、素晴らしい映画だったと言って興奮して内容を話し、それを聞いて劇団員が実際に見にいくと、つまらない映画だったということが多い」という話を聞いたことがある。唐は実際の映画の内容と自分が映画を見ながら想像した内容を一緒くたにして話すので――なにしろ、あの想像力である――劇団員には非常に面白い映画に思えてしまうのだ(このエピソードは沢木耕太郎の『若き実力者たち』(文春文庫)にも載っている。大久保鷹と会った時の記憶と沢木耕太郎の本を読んだ時の記憶が頭のなかで結びついてしまったのか、あるいはそれほど有名なエピソードなのか……)。

それはともかく、唐十郎の映画の見方と同じような読書ができるなら、これほど自由な読み方はない。しかし、本はそんなに自由に読んでもかまわないものなのだろうか? 僕はフランス語の翻訳教室を開いているが、教室でよくこの唐十郎のエピソードを引き合いに出す。そして、「普通の読者としてなら、自分の想像を自由に交えたこういった読み方は素晴らしいと思います。それは読書を豊かにしてくれます。しかし、翻訳者としては自由な想像は抑えて、もっと作品に沿って読む必要があります」と話をする。というのも、翻訳の初学者の想像力は、読解力の不足から時には唐十郎以上に奔放で、「自由に読書を楽しむ」としたら、これ以上によい方法はないと思われるものになっているからだ。けれども、翻訳をすることを考えると、はたしてその読み方でいいのだろうかと悩んでしまうのである。

はたして誤訳になるような読み方は、よい読書の仕方と言えるのだろうか? 読書を通じて奇想天外なイメージを楽しむということで言えば、僕は繰り返すが「普通の読者」にだったら「誤読」さえ許されるのではないかと思う。清水義範の『江勢物語』のなかに「スノー・カントリー」という短編があって、川端康成の『雪国』の英訳本を外国人が書いたものだと思って学校の宿題として訳し、英語教師を呆れさせる学生が出てくる作品があるが、この学生の読み方は見事に自由奔放である。しかし、である。

【小説の精読者(リズール)と小説の普通読者(レクトゥール)】
本書の著者、石原千秋は現代国語の入試問題の作成者であり、解説者であり、批判者でもあり、『教養としての大学受験国語』(ちくま新書)、『小説入門のための高校入試国語』(NHKブックス)、『受験国語が君を救う!』(河出書房新社)など、多くの本を著している。そういった本の要旨は、「入試問題に出てくるテクストは国語を道徳教育と考えている問題作成者の意図に沿って読むべきで、受験生は自由にテクストを読むことはできない」というものだと思う。そこで著者は「読者はもっと自由に読んだほうがいい」と書くのだが、その自由はいったいどこまで保証されているのか? 特に翻訳者にとって……。

翻訳はまず訳者が原書を読み、その内容を解釈することから始まる。そして、日本の読者が日本語の小説に対してそれぞれちがった解釈をするように、翻訳者は原作に対してそれぞれちがった解釈をする。だとしたら、翻訳者にとっては「テクストは自由に読んでいい」と言われたほうがありがたい。「原文の文章の端々に表われている「はずだと思われる」作者の意図を伝える」ことなど不可能だからである。翻訳者は作者本人ではないのだ。作者が書いたものを自分なりに解釈して、それを伝えるだけなのだ。では、どこまで自由に解釈するか? 唐十郎式の解釈や、「スノー・カントリー」のような誤読はとりあえず避けるほうが賢明だろう。しかし……。

実を言うと、本書を読みながら、腑に落ちないところが3つあった。

まずは第四章で著者がフランスの文芸評論家アルベール・ティボーデの『小説の美学』(生島遼一訳、人文書院)から引用して、読者を文芸評論家などの専門的な読者「小説の精読者(リズール)」と、小説といえば娯楽として手当たり次第に読む大衆「小説の普通読者(レクトゥール)」のふたつに分け、「小説の精読者(リズール)」が読みの可能性を広げようとするのに対して、「小説の普通読者(レクトゥール)」は小説を娯楽作品として享受するだけと書いた部分。この部分を読んだ時、僕は最初、「精読者」はテクスト内の文脈を無視することができないので読みは制限され、むしろ「普通読者」のほうが文脈を無視して、唐十郎や「スノー・カントリー」のように自由に読めるのではないかと思った。

また、第七章の「性別のある読者」で、著者が江國香織の『きらきらひかる』は、男性の読者でも女目線で読むことを勧めている部分を読んだ時も、これはむしろ、読者に制約を設けているので、「自由に読んだほうがいい」という趣旨とは合わないのではないかと思った。

もうひとつ、最後に第八章で著者が「テクストはまちがわない」という立場から東野圭吾の『容疑者Xの献身』を読みといた時も、「テクストはまちがわない」という立場をとったら、読みは制限されるのではないかと思った。

だが、賢明なる読者諸氏はもうお気づきだろう。上の3つが腑に落ちないと考えたのは、この書評の評者の読解力不足のせいである。評者はこの書評を書くために1週間考えつづけ、ある時、はたと気づいた(気づくのに時間がかかったし、また見当ちがいの気づき方かもしれないが、読書をするというのは、そういった個人的なものである)。で、何に気づいたかと言うと、
・自由に読むためには文脈(制約)を無視しなければならない
・別の文脈(制約)にしたがって読めば、ある文脈(制約)に縛られた読み方から自由になることができる
ということである。
 
本書をあらためて読めばわかることだが、「普通読者(レクトゥール)」は読書をする時にさまざまな「社会的制約」を受けている。国語入試問題を読解する受験生たちも、国語は道徳教育に使われているという社会的な制約のもとで作品を読まなければならない。物語の型にしたがって、小説を娯楽作品として消費してしまうというのも(もちろん、そういった読み方や、そんな読み方をしたほうがいい作品があるということも認めたうえで)、社会的、文化的な制約のひとつの表われだろう。著者はそういった制約から自由になって、テクストの内部にある別の「文脈」を掘り起こすという創造的な読み方を勧めているのだ。新しい文脈を発見することによって、古い制約から自由になる。それが「精読者(リズール)」である。「スノー・カントリー」のような誤読を「自由に読む」こととして勧めていたわけではなかったのだ(本を自由に読むための方法だと考えれば、誤読もまた有効だと思うが……)。

江國香織の『きらきらひかる』を女目線で読むというのも、小説は歴史的に男目線で書かれ、女性でさえも男目線で読むことが強制されてきた「社会的制約」から自由になり、男性も女目線で読むことによってテクストの新しい価値を発見しようということだ。以前、教室でそうと気づかず男目線で書かれた小説をテクストにした時(自分が男だったので気づかなかったのである)、女性受講生がいっせいに主人公に反発するのでびっくりしたことがあった。それゆえこの話はよくわかるし、『きらきらひかる』も女目線で再読してみたいと思う。ただ、翻訳ということで言えば、たとえばハードボイルドのような類型的な男目線で書かれた本は、男目線で読み、男目線で訳すことがオーソドックスな訳し方になるだろうと思われる。もちろん、そこであえてちがう読みをして訳すのも、翻訳の範囲の設定の仕方によってはありだと思うが……。

話がそれた。ここで言いたいのは、読者は自分が受けている制約(男目線で読んでしまうこと)に対して意識的になり、別の制約を設けること(女目線で読むこと)によって、より自由な読書ができるようになるということである。

最後の「テクストはまちがわない」という立場から読むというのも、「テクストはまちがわない」という制約を設けることによって、テクストの外部にある常識から自由になり、テクストの内部にある新しい文脈を発見しようということだと考えられる。つまり、「社会常識に照らしてテクストに書かれていることは起こるはずがないので、これは作者のまちがいである」と軽々しく断定しないで、テクストどおりに読めば意外な側面が浮かびあがってくる。それを楽しもうというのである。ここでもまたある制約を設けることによって、読者はこれまでの制約から自由になれる。「自由とは不自由になることと見つけたり」である。ちなみに著者は筑摩書房から『テクストはまちがわない――小説と読者の仕事』という本も出している。

【「テクストはまちがわない」のか?】
だが、実は翻訳者として言うと、僕は「テクストはまちがわない」という立場をとることはできない。「テクストはまちがわない」と考えるのは、ある場合には社会常識も含めたその作品の内外にある文脈を無視することにつながる。だからこそ、自由になれるのだが、そうやって常識的な文脈を無視していくと、誤訳を頻発してしまうことになるからだ。作者はよくつまらない勘ちがいをする。特にフランスの作家は……。それなのに、「テクストはまちがわない」という立場からテクスト内部の整合性を求めていくと、原文には書いてない状況を翻訳者が想定したとんでもない解釈がたくさん出てきてしまう。常識的に考えてまちがいだと思えることは、作者がまちがえたのだろうと思って解釈を進めていったほうが、翻訳者にとってはいい場合が多いのだ。

しかし、それでもこの「テクストはまちがわない」という考え方に魅力があることは認めざるを得ない。たとえば、今年、僕はヴェルヌの『八十日間世界一周』(光文社古典新訳文庫)を訳したが、登場人物のひとりパスパルトゥーがカーナティック号に乗って香港を出発した日付が、大きな文脈で考えると11月6日でなければならないのに、原書では11月7日になっているということがあった。常識的に判断して、僕は11月6日にしたが、もし「テクストはまちがわない」という立場からここを読みとくと、カーナティック号はいったん11月6日に香港を出発したあと、途中で香港に戻り(きっと船長が帽子を忘れたのである)、11月7日に再出発したことになる。そして、そう考えたほうが、カーナティック号の航行速度とも合致する。こうした読み方は楽しいし、読みの幅を広げてくれることも確かである。翻訳をするのでもなければ、そういった自由な読み方をして、読書を楽しんでもいいのではないだろうか?

【純文学と中間小説】
さて、ここまで読んで、僕は本書から、
・読者はいろいろな形で制約を受けている
・だから、読者は自分がどういった制約を受けて本を読んでいるか意識したほうがいい
・そして、ある制約から自由になるには、別の制約を設けることが有効である
 というメッセージを勝手にひっぱりしだしてきた。

そこで再び、ティボーデの「小説の精読者(リズール)」と「小説の普通読者(レクトゥール)」の話に戻ると、著者は「小説の普通読者(レクトゥール)」は小説を娯楽作品として享受するだけの「テクストの消費者」で、文芸評論家などの専門的な読者である「小説の精読者(リズール)」は読みの可能性を広げようとする「テクストの生産者である」と説明する。この場合、「小説の精読者(リズール)」の仕事は、テクストのなかに新しい文脈を発見して、新しい作品の世界をつくりだすということである。そして、著者は「小説の普通読者(レクトゥール)」も、時にはそういった読み方をしたほうがいいと勧めるのだ。

では、翻訳者はテクストをどのように読んだらいいのか? ここであらためて考えてみたい。

だが、その話をする前に、本書では第四章で、小説を最終的には「類型的」なものにしてしまう物語の型について説明していること、第五章で純文学と中間小説のちがいに触れ、中間小説はむしろ「類型的」なものでなければならないとしていることを挙げておこう。以下の話はそれを踏まえたものである。

さて、「類型的」という言葉をキーワードにして、「小説の普通読者(レクトゥール)」と「小説の精読者(リズール)」についてもう一度考えてみると、中間小説は「小説の普通読者(レクトゥール)」のように類型的に楽しむ読みをすればよいのだし、純文学は「小説の精読者(リズール)」のように読みの可能性を広げて、作品の新しい価値を見つける読みをすればよいということが言えるだろう。もっとも、文芸評論家のような専門的な読者の場合は、類型的な小説に対しても新しい読み方をして「テクストを生産」しなければならないのかもしれないが、少なくとも一般の読者はそれでよい。翻訳者も然りである。

もちろん、中間小説と純文学はきちんとふたつに分けられるものではなく、中間小説のなかにも純文学的な部分があり、純文学のなかにも中間小説的な部分があるのだが、それはある小説の中間小説的な部分と純文学的な部分を読みわけて、日本語にする時には一般の読者がそう読みわけられるようにすればよい(実は書籍が商品であることを考えると、事はそう簡単ではないのだが、ここはひとまずそう言っておく。少なくとも、テクストに対してはそれでよいはずだから……)。そして、こういった読み方をした時、テクストの純文学的な部分については、自由な読み方をしていいし、自由な読み方が求められることになる。この点では、翻訳者も自分の読みを制限するさまざまな制約を意識して、もっと自由に読むことを心がけなければならないのだ。ただし、その結果、翻訳が「作者の意図」とはちがってしまった場合(その可能性は大きい)、これはテクスト論の立場から当然だとはいえ、まだまだ考えなければいけないことはあるかもしれない。僕自身は自由な読み方をすることに賛成である。

というわけで、これが『読者はどこにいるのか――書物の中の私たち』を読んだ個人的な感想である。最初に書いたとおり、僕は本書を翻訳者という立場からかなり自分に引きつけて読んだので、本書のイメージを正確には伝えていないと思われる(実際はもっと知的な本です)。評者の力不足だということでお許しいただきたい。「書評空間」の読者諸氏なら、僕とはまたちがった立場で、本書の読書からもっと豊かなものを引き出すことができるだろう。「本を読む」ことについて、読者にいろいろなことを考えさせる面白い本である。僕は十分に楽しんだ。

最後にひとつだけ。本書には第六章で、「視点」や「語り手」という翻訳者にとって無関心ではいられない事柄も書かれている。個人的にはその部分を再読して、また本書と一緒に考えてみたいと思っている。楽しみである。


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2009年11月17日

『日本SF精神史――幕末・明治から戦後まで』長山靖生(河出書房新社)

日本SF精神史――幕末・明治から戦後まで →bookwebで購入

お待たせいたしました。
河出ブックス創刊第2弾、12月初旬刊行の2点をご紹介いたします。

*****

まずは、長山靖生さんの『日本SF精神史――幕末・明治から戦後まで』です。

長山さんは、評論家・文筆家。歯科医の傍ら、近代日本の文化史・思想史から、文芸評論や現代社会論まで、幅広く執筆活動を行っていらっしゃいます。

日本のSFの歴史は、なんと幕末までさかのぼることができます。それ以来、〈未来〉はどのように思い描かれ、〈もうひとつの世界〉はいかに空想されてきたのでしょうか。近代日本が培ってきたSF的想像力の系譜を、現在につながる生命あるものとして描く野心作です。

長山さんから読者のみなさんへのメッセージです。

「SFは新しいジャンルだと思われがちですが、日本ではおよそ150年前から、SF小説が書かれていました。未来を夢見ること、仮想現実や仮想技術を通して「リアル」をつかみ取ることは、近代日本の大きな推進力でした。まだSFという概念がなかった頃、「存在しないSF」に人々が込めた精神の軌跡をさぐりたいと思いました。」

目次(章タイトル)は以下のとおりです。

序 章 近代日本SF史――「想像/創造」力再生の試み
第一章 幕末・維新SF事始――日本SFは百五十歳を超えている
第二章 広がる世界、異界への回路
第三章 覇権的カタルシスへの願望――国権小説と架空史小説
第四章 啓蒙と発明のベル・エポック
第五章 新世紀前後――未来戦記と滅亡テーマ
第六章 三大冒険雑誌とその時代
第七章 大正期未来予測とロボットたち
第八章「新青年」時代から戦時下冒険小説へ――海野十三の可能性
第九章 科学小説・空想科学小説からSFへ
あとがき

めくるめく想像力の万華鏡をお楽しみください。

*****
そして、恒例、

長山靖生の「この〈選書〉がすごい!」

①鹿野政直『大正デモクラシーの底流』(NHKブックス、1973年)
大本教、農村の青年団、そして大衆小説という一見バラバラな民衆の動きを、土俗的な「もうひとつの大正デモクラシー」として捉える視線の確かさに、驚かされました。

②前田愛『幻景の明治』(朝日選書、1978年)
明治という時代が持っていた多様な側面を、意外な切り口から鮮やかに照射してみせる手腕に、学生時代の私は魅了されました。

③井上章一『愛の空間』(角川選書、1999年)
近代日本の性愛空間の歴史を探るという発想の卓越性もさることながら、それを真面目に、実証性と想像力を駆使してまとめあげた姿勢から、多くのことを教えられました。


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2009年09月25日

『検閲と文学――1920年代の攻防』紅野謙介(河出書房新社)

検閲と文学――1920年代の攻防 →bookwebで購入

「河出ブックス」の創刊ラインナップ紹介を続けていきます。紅野謙介さんの『検閲と文学――1920年代の攻防』です。

紅野さんは、日本大学文理学部教授。専攻は日本近代文学。メディア環境や多様な文化のひろがりのなかで文学をとらえる試みを続けていらっしゃいます。

大正から昭和へと時代が移り変わる激動のさなか、検閲の嵐が文学を直撃するのですが、その渦中の人間ドラマを描いてゆくのが今回の本です。頻繁に検閲処分を受けた『改造』を中心に、円本(文学全集)誕生の経緯も交えながら、文学史の裏面に迫ります。

紅野さんから読者のみなさんへのメッセージです。

「本格的な言論統制の前夜、権力による検閲に対して文学者や出版人は政治的な立場をべつに、広範な抗議運動を展開しました。その顚末を追いかけた本書は大正末から昭和初期を背景にした日本近代文学史・検閲暗闘編のつもりです。」

目次(章タイトル)は以下のとおりです。

はじめに
第1章 検閲へのアプローチ
第2章 出版法と新聞紙法
第3章 山本實彦と雑誌『改造』創刊
第4章 「内閲」という慣行
第5章 二つの戯曲――藤森成吉「犠牲」と倉田百三「赤い霊魂」
第6章 一九二六年七月のミステリー
第7章 文藝家協会と発売禁止防止期成同盟
第8章 抗議運動の亀裂と円本の登場
第9章 中里介山『夢殿』と切取り削除
あとがき

第6章の「ミステリー」とは!?

*****

紅野謙介の、「この〈選書〉がすごい!」

「筑摩叢書や新潮選書もいいですが、網野善彦『無縁・公界・楽』や藤田省三『精神史的考察』、鶴見俊輔『太夫才蔵伝』など、それぞれの著者の代表作となっているものが並ぶ平凡社選書が企画と編集、それに応えた著者と三拍子そろって感嘆ものです。」

地に足のついた企画の数々は、わが河出ブックスも大いに見習いたいところです。


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2009年09月15日

『読者はどこにいるのか――書物の中の私たち』石原千秋(河出書房新社)

読者はどこにいるのか――書物の中の私たち →bookwebで購入

これから「河出ブックス」の創刊ラインナップを順次ご紹介していきます。
今回の創刊に際して、勝手ながら、ひとり「河出ブックス」だけでなく、〈選書〉という器全体が盛り上がってほしいという願いを持っております。そこで、各著者に「この〈選書〉がすごい!」という推薦の〈選書〉を挙げていただくことにしました。こちらもお楽しみください。

*****

まずは、石原千秋さんの『読者はどこにいるのか――書物の中の私たち』です。

石原さんは、早稲田大学教育・総合科学学術院教授。専攻は日本近代文学。夏目漱石から村上春樹まで、小説の斬新な読解に定評があり、受験国語に関する著書も多数お持ちです。

今回の本は、石原さんの作品読解の肝である「読者論」のエッセンスをギュッと凝縮していただきました。一方では生身の人間でありながら、一方では作品テクスト内の一機能である「読者」。その奥深き世界に読者をいざなってくれます。

石原さんから読者のみなさんへのメッセージです。

「いま、私たち大衆にとっては黙読が自然な本の読み方ですが、そういう私たちは書物の中でどのように振る舞っているのか、あるいは振る舞えばいいのか。ふだんはあまり意識しない読者の振る舞いについて、なぜ「読者」がテーマとなったのかというところまで遡って書いてみました。」

目次(章タイトル)は以下のとおりです。

はじめに 
第一章 読者がいない読書
第二章 なぜ読者が問題となったのか
第三章 近代読者の誕生
第四章 リアリズム小説と読者
第五章 読者にできる仕事
第六章 語り手という代理人
第七章 性別のある読者
第八章 近代文学は終わらない
おわりに

どうぞご期待ください!

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石原千秋の、「この〈選書〉がすごい!」

①江藤淳『漱石とその時代 第一部・第二部』新潮選書、1970年
作品論全盛の時代に、時代の中に漱石を位置づける試みは画期的でした。これを超える「時代の中の漱石」は、私のライフワークとして遠くにあります。

②小島毅『近代日本の陽明学』講談社選書メチエ、2006年
ちょっとした雑書にも「生存競争」という言葉が出てくるように、近代日本は強烈な社会進化論パラダイムの中で成立しましたが、水戸学派の陽明学も近代成立に深く関わっていたというのです。虚をつかれたような本でした。

③菅野仁『ジンメル・つながりの哲学』NHKブックス、2003年
「社会学の基礎を築いたジンメル」を手がかりに、「ほんとうの私」について考えたり、「秘密」「闘争」「貨幣」というジンメル社会学のキーワードから現代的課題を考察したりしています。良質の社会学入門です。


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