« 「河出ブックス」 いよいよ発売です! | メイン | 石原千秋×紅野謙介 対談「今、「教養」を呼び戻すために」その2 »

2009年10月24日

石原千秋×紅野謙介 対談「今、「教養」を呼び戻すために」その1

河出ブックス創刊から2週間、おかげさまで早々に重版が決まったタイトルもございます。

さて、今回は、この創刊に際して弊社の『文藝』(2009年冬号)誌上で行われた、『読者はどこにいるのか』の石原千秋さんと、『検閲と文学』の紅野謙介さんの対談をお送りします。

新書ブーム以後の「教養」のあり方を問う、読み応えある内容になっております。3回にわけてアップいたします。

:::::

【教養という「動詞」をいかに動かすべきか】

――この一〇月より選書シリーズ「河出ブックス」を立ち上げる運びとなりました。ここ最近の新書ブームもあり、選書を出すにあたって「では、新書と選書はどう違うのか」としばしば問われます。創刊に加わっていただいたお二方にまずお伺いしたいのですが、昨今の新書ブームをどのように捉えていらっしゃいますか。

石原●僕らの学生時代には研究書と新書は地続きでした。たとえば、知らない固有名詞ばっかり出てくる越智治雄さんの『近代文学の誕生』(講談社現代新書)、論の展開が高度な中西進先生の『万葉の世界』(中公新書)を学生時代に読んで、ものすごく難しかった記憶があります。でも、これを読めないようでは国文学科の学生として恥ずかしいという思いがあった。『ゴリラとピグミーの森』(岩波新書)とか『羊の歌』(同)のような薫り高いエッセイもありましたが、あの頃の新書は研究書の水準を落とさずに書かれたものも少なくなかったと思います。

各社が新書に参入するようになったきっかけは筑摩書房が創刊した「ちくま新書」が成功したからではないかと思うんですが、今年創刊一五周年を迎えるちくま新書は『フーコー入門』など西洋哲学のビッグネームのスタンダードな質のいい入門書にゆるやかにシフトしていた。しかも、それが必要とされる時代になってきていた。その辺りから新書の役割が少し変わってきたと思うんです。

紅野●やはりある時期から、内容や文体も含めて明らかな変化を遂げてきた経緯がある。確かに新書といえば、それで充分な勉強はできるし、あるいはそこからものを考えていくことのできる出発点としての嚙み応えが新書全体としても確実にあった。一九六一年の丸山眞男『日本の思想』(岩波新書)などは、その後、批判にさらされたけれども、古典というべき評価を受けたし、ひとつの思想書でもありました。でも、その啓蒙性が批判を受ける時期が来る。そしてさらに上から目線の啓蒙がなくなり、この一五年か二〇年ぐらいの間に起きた市場の変化で、大勢はとにかく分かりやすいものに移っていかざるを得なくなり、新書の乱立状況を呼びましたよね。

石原●新書ブームが成立した一つの要因はニュー・アカデミズムだと思うんです。ニューアカが一九七〇年代の終わりから八〇年代に知の世界を席巻したけれど、初期は色々な名前がマッピングされないまま紹介されていた。ミシェル・フーコーは構造主義の一員だ……というような紹介すらあった。お祭りみたいに華やかで楽しかったけど、それを整理する役割を『フーコー入門』のような新書の入門書が担っていった。社会科学や人文学はニューアカの時代にかなり重装備の理論武装をしたじゃないですか。それを啓蒙する仕事を新書が引き受けたのだと思う。

紅野●そうですね。ただそれが五、六年あるいは一〇年ぐらいのスパンでガラッと変わりましたよね。重装備を逆さにして軽量化する形で進んでしまい、ボディスーツを身軽なものに変えていかざるを得ない傾向にあった。僕は石原さんのように書き分けることができず、新書をずっと書けずにいます。何故書けないのかといえば、自分の能力の問題でもありますが、求められていくものが軽くなり始めた真っ最中で対応できなかったからのような気がしているんです。重量級の新書もあるわけですが、一方、たとえば「十五分でわかる日本文学史」とか、そういう企画になってしまうわけですよ(笑)。

僕自身はたいして重くもない存在だけれど、そういう自己認識以上に軽くなることを求められているのを感じていました。しかし、そういうのは、分かる部分を整理するだけであって、実は分からないことは分からないままでしょう。思想にしても現実や歴史の問題にしても、分からないことだらけなのに、現在の新書はともかく分かるように見せなければならなくなった。実際我々がやっている研究って「ここまでは分かるけどここから先はよく分からない。分からないことに関してはこういう推測をしてみますが……」というところまでやって、後は別の人にバトンタッチしていく以外に無い。

新書と選書を比較する上で「教養とは何か」というアプローチは大事だとは思うけど、教養って、たとえば「伝統」という言葉と同じように、実体として考えてしまうと重くなるし、どこまで行っても教養の奥には辿り着けなくなってしまう。教養主義というのはそうした実体論だったと思います。しかし、教養というのは実際には動詞であって、働きかけて「問題」を見つけたときに呼び出される。そのときに必要な道具や考え方へ導かせる材料が「教養」で、それを呼び出す能力があればいいものだと思います。

石原●たしかに、学問と教養との関係はおっしゃる通りですね。一九七〇年から七五年のわずか五年間に大学進学率が二〇パーセント弱から三〇パーセント弱まで一〇パーセントも上がった時期がありました。あの五年間に教養主義が大きく変質したんです。

その変質を上手にからめとったのがニューアカの運動で、大学が大衆化した時期と、ニューアカが知の世界を席巻した時期がほぼ一致するんです。ニューアカがなぜ大衆化できたかというと、実体化された教養、つまり知識量ではなく思考のパターンをテーマにしたからですよ。思考のパターンをひっくり返そうという運動だった。あるいは、見えなかった思考を見えるようにする運動だった。それは、大衆化した大学生にとって入りやすい新たな教養だったと思うんです。

僕の見るところ、現在の新書の軽量化は文学と現代思想の方面に強く現れていますね。前者は文学部の衰退を背景としていますし、後者は現代思想がもはや思考ではなく、思考の前提としての情報となったことを意味しています。

紅野●七〇年から七五年っていったら、まさに石原さんや僕が大学生になるころじゃないですか。大学進学率が一〇パーセント上がって、かなりの人たちが大学に行く状況の中で我々自身も実際に大学に入ってみて、「大学で勉強しているだけじゃなくて、外で本でも読まないと教養は身につかないな」と思い始めていく。六八年くらいに学生運動が起きて大学自体が批判されるわけだけど、その外側にある「知」を信じている部分があった。それがニュー・アカデミズムによってもう一度批判に晒されるんだけれど、それでも本の形で提示される知性に対して、「教室にはないかもしれないけれど本屋にはあるかもしれない」って思う部分があった。だからこそ本をどういう形態で出していくべきか、そのスタイルにいろんな模索があったのだと思う。

各出版社が本のスタイルとして選書・叢書式を一斉に出そう、つまり今から一五年前の新書ブームとは違う、三〇年、四〇年近く前の段階で叢書・選書形式の本に、みんなで向かっていく気分があったわけです。それが先ほど挙げた大学の外にある新たな知性だった。多くの叢書・選書の出発は、六〇年代末から七〇年代にかけてです。それは僕らのような学生をターゲットにしていたのでしょう。ニュー・アカデミズムの登場は八〇年代でしたね。僕らはすでに大学を出たあとで、教師をしながら大学院などに行っていた。彼らの活躍はすごくまぶしく見えました。ニューアカの特徴としては本の形態そのものにも意識的で、まったくそのコンセプトを新しくしましたね。しかし、対抗して変化したときは新鮮だったんだけど、変わりきってしまったところで今度は市場原理にとりこまれる側面があった。

石原●あの頃、筑摩書房には筑摩叢書、岩波書店には岩波全書というシリーズがありました。筑摩叢書は教養そのもので、好きでした。岩波全書は教科書的でしたが、レベルが高くて、僕みたいな学部生には歯が立たなかった。僕は、新書が教養から少しずつ外れていった要因が四つあると思っているんです。一つはタレント本が書かれるようになったこと。二つめは政治家が新書で本を出すようになったこと。三つめはお金儲けの本が出てきたこと。最後は、新書で時事問題を追い始めたこと。これらを引き算すると僕たちの時代の教養が浮かび上がってくるでしょ。僕たちの時代の教養には、この四つの要因を批判的に見るスタンスがあった。

いまこの四つの要因によって新書が書かれることで、新書の寿命がすごく短くなってきていますよね。わかりやすい例では、小泉改革を批判した新書はもう命を失ったわけです。小泉改革を歴史的に検証する資料にはなるかもしれないけど、現在形の命はもうない。総合雑誌の特集一つ分ぐらいが新書になってすぐ出てしまうことが新書の寿命を短くさせていますよね。でも、教養からの離脱はマイナスばかりじゃない。たとえば貧困問題に関連して『ベーシック・インカム入門』(光文社新書)が新書で出たインパクトは大きい。僕は外出するときには必ず専門外の新書を持っていきます。これで世の中のことが勉強できますよ。


トラックバックURL

このエントリーのトラックバックURL:
http://booklog.kinokuniya.co.jp/mt-tb.cgi/3425