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2009年10月26日

石原千秋×紅野謙介 対談「今、「教養」を呼び戻すために」その2

 

河出ブックス創刊に際して行われた『文藝』誌上での対談の第2回です。

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【連鎖する読書としての役割】

紅野●今までの総合雑誌というのは、様々な事象がセグメント化されながら載っていて、それらを投げ与えられながら自分で取捨選択して読んで考える、という流れになっていた。でも今は、その中のある部分だけがひとかたまりに持ち出されて、一定の見通しなり解決なりが与えられると満足するという状況に変わってきている。色々なものを繫ぎ合わせて考えていくという雑誌の形態に対して、皆がついていけなくなってきた。

石原●なるほど。そこから選書の話に移っていくと、さっき僕が言ったタレント本、政治家の本、お金儲けの本、時事問題の本って、選書にはほとんどないんですよね。だから昔新書がやっていたものを選書が受け持つようになってきたと思うんです。読者数の問題もあって、新書だったら一万数千部は刷らなければいけないけど、選書は基本的にその半分でいいわけです。読者層と読者数の問題がテーマと質を決めていく力として強力に働いている気がします。

紅野●そう思いますね。かつての段階において新書と選書は区分がなされていて、新書の方はもちろん研究書的なものもあったけれど、選書はさらにクラシックでありハイレベルだった。現状を考えると、かつての新書にあたる部分がいま選書なのですね。新書・選書とひとくちにいっても、そのときどきの人文系書籍出版の地図のなかで位置が変わってしまうところがある。

石原●新書ブームが教養から離れていったもう一つの理由は、論じる対象としてのビッグネームがいなくなったこと。近代的思考を更新する現代的思考が出尽くして次が出てこないという状況です。つまり、グランドセオリーというか、大きな物語が出てこなくなった。だから、かつてのようにフーコーを押さえればいいとか、デリダを押さえればいいといった前提がなくなってきた。新書が教養を手放さなければいけなくなった要因がここにもあると思うんです。

しかも、ニューアカのあとに来たカルチュラル・スタディーズは情報量が勝負だから、おそらく新書に合わなかったんですよ。一時期の講談社選書メチエがカルスタを集中的に出しましたが、新書という器、つまり原稿用紙二百数十枚ぐらいでは無理だったんです。新書にはカルスタ入門はあっても、カルスタというモードそのものは見送らなければならなかった。だから、カルスタがモードだったこの一五年間に新書は人文学から離れてしまった。新書はカルスタを教養にすることができなかった。

だからこそ、選書がもう少し突っ込んだ形で受け持ってくれるようになればいいなという期待を持っているんです。一二〇〇円程度であれば学生にもすすめられるわけですから。そういう期待があるんです。ところで、今回の河出ブックスはどういうコンセプトなんでしょうか。

――「連鎖する読書」と呼んでいるのですが、色々なジャンルをまたがって読むことができ、全く知らないジャンルに手を出してみようと思ったときに、軽すぎも重すぎもしないけれども、そこには歯ごたえがある、そういったクオリティのものを揃えたいという考えがあります。

他に、狙いの一つとして、歴史のファクターを積極的に入れていくつもりです。現在の読者が、分かった気にさせてくれる情報に飛びつく事実と、ある程度のボリュームの本が読めなくなった事実はどこかで結びついている気がしています。その中にあって、歴史的経緯を踏まえて時間のファクターを入れ込んだ作品を通じて、時間をじっくりかける読み方を提案したいのです。また、そういう作品に飢えた新たな読者も生まれてくるのではないかという期待も持っています。

石原●新書で歴史のジャンルといえばもちろん中公新書だけど、選書であればメチエがピンポイントでやっていますよね。メチエとの差異化についてはどういうふうに考えているんですか?

――テーマ設定をあそこまでマニアックにせず、ポピュラーなテーマ、ともすれば時事的な話で済まされがちなものにも歴史の視点を入れていく。ポピュラーなテーマ設定でありながら……

石原●それを時間軸に沿って説明できる人を、ということですよね。そうすると書き手はある程度の年齢でないと難しくなってくるんじゃないでしょうか。メチエって、若い書き手を発掘しているじゃないですか。博士論文を改稿したものも結構ある。若手を発掘するのはすごくいいことなんだけど、時間軸に沿って説明する仕事は、人文学の場合、やっぱりある程度の年季が必要になってくるんじゃないですか。

紅野●確かに年季も必要なんでしょうけれど、蓄積型の学問だけではない部分もある。先ほどの教養と教養主義の問題でいえば、歴史学って実は際限がなくなってきている。「あれも知らなきゃいけない、これも知らなきゃいけない」っていう話になってくると、どうしても重くなってしまう。

僕は「学生はこういう本を読まなければいけない」というような課題を掲げるつもりはないんです。「これについて何か考えなくてはいけないな」と感じたときに、選書のような立ち位置の本が手に取れるような形であればいい。時間と歴史の問題でいえば、今現在の自分の問題とはすぐに繫がらないかもしれないけど、そこにある間接的な線を引けるかどうかが大事で、その線を繫いでいくのは、教員や大学の果たすべき役割ではないかなと思っているんです。

石原●それはまったく同感です。大学でそれができるのは演習ですね。講義はどうしても教師がストーリーを作らざるを得ませんが、演習では断片を再構成してストーリーを作るのは学生ですから。これからの大学は演習重視で行くべきだと思っています。

歴史や時間に関しては、たとえば日本語の乱れ問題なら、時間軸に沿った知識がないまま、今現在だけを見ている。現在と自分が過ごしてきた過去とを比べて、今は乱れているって騒いでいるだけの人がほとんどじゃないですか。そうではなく、きちんと時間軸を導入して日本語について書いた本があるのは非常に大切だと思うんです。

紅野●この対談が出るころには選挙も終わっているけど、大体政党の党首がさ、「責任力」なんていう言葉を使うんだから(笑)、それこそ本当に乱れているわけでしょう。逆に言うとそこまで乱れているのだから、あまり「乱れ」ということを言わずに考えなければいけない。もし自分なりの美意識を持つのであれば、その中において首尾一貫させるしかない。

文法ってある段階のある地域の文法をとりあえず標準文法としましょう、みたいな話で出来上がったに過ぎないわけです。自分達の使っている言語と違う言語状態が現れたら、それを「乱れている」と言う。その発想になっている限りにおいては、一元論だけなんですよ。大事なことは「乱れ」と言われかねない言葉の揺れている現在そのものに寄り添いながら、そこで起きているものを見ていくことではないでしょうか。

石原●ほんとにそうですよね。今の学校文法は基本的に平安時代の貴族の日本語を基準にしているわけで、そこから見れば、たとえば江戸時代の日本語なんて例外だらけで大乱れですよね。だから日本語乱れ論者は戦後に標準語を強化した時代に育った人たちに多い。それは歴史的な経緯のひとコマにすぎないということを、ちゃんと理解しておいてもらわないと困るんです。


 

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