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2009年10月28日

石原千秋×紅野謙介 対談「今、「教養」を呼び戻すために」その3

河出ブックス創刊に際して行われた『文藝』誌上での対談の第3回(最終回)です。

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【発想の奥行きに応えていく選書として】

石原●選書と新書は書き手にとってどのように違うのかなと考えた時に、本屋さんに長く置いてもらえるというメリットは大きいと思うんです。これは選書の物質的基礎を考える時には重要なポイントで、大きい本屋さんでも新書って既刊分はもちろん、毎月の発行点数も完全に新書コーナーのキャパシティーを超えてますよね。ところが選書はそれほどでもない。

それに街の本屋さんがどんどん消えていく反面、大型書店は増えているわけで、そうなると大型書店としても頻繁に入れ替えずに売れた分を補充すればすむ選書の棚を持っておくのは、非常に助かるわけです。書き手としても、そういう形で安定した棚に自分の本を置いてもらえるのは、書こうとするテーマにも影響を与えるんです。

紅野●当初、選書や叢書が出来たときも、出版市場の変化の中で一定数を確保しつつ、棚の中に置いて提示できる量にしなければならないという発想が生じていたんだと思うんです。それがもう一回、別の形で甦ってきているんじゃないかと思いますし、先ほど石原さんが言われた、グランドセオリーやビッグネームが見えなくなってきた、そのことに若い人たちも気付き始めている。

そういった人達に向かって、少なくとも何かを考える手がかりになるようなものがあれば、それこそが教養のとっかかりになると思うんです。教養って、そのようにして一つ一つのパーツを自分の中に取り込んでいって、組み合わせてまた次を見つけるためのものだから。

石原●はじめは断片的であって構わない、教養はそれを吸収して発酵させて新しい何かを見出すための装置のような側面がありますね。実体化するのではなくて、動かすための装置として教養が機能してくるのではないかな。さっき「責任力」って言葉が出たけど、実は「教養力」って必要なのかもしれない(笑)。

自分で断片を時間軸や平面に構成できる人もいるし、そうでない人もいる。だから、断片を発酵させる装置としての力を持っている、これが理想の選書だと思うんですよ。河出ブックスが今後「教養力」のように、情報を動かしていく力を選書自体に植えつけてくれると大学生にも大学院生にも勧めやすいし、非常にありがたいなと思います。

紅野●新書は発想の転換というか、ものを考え始めて煮詰まったときに、切り替えていくためのシフトチェンジのような役割を果たすものとしてある。選書の場合は発想の切り替えだけでなく、奥行きを考えなければいけないと思わされるし、「ちょっと探りに行こう」と思ったときには、いくつもの入り口が見えてくる。河出ブックスも、そのようなシリーズになるといいなと思うんです。

―─最後に、今日お話しいただいた、選書の役割についての話を踏まえて、今回ご自身がお書きになった河出ブックスの中身について簡単にお聞かせいただけますか。

石原●今回の『読者はどこにいるのか』は、これまで僕が書いてきた読者論と新しく考えた読者論とを再構成して書いたんですけど、我々書く立場の人間にとっても、新書を書く場合、選書を書く場合、単行本を書く場合って、それぞれ異なる読者像を考えるわけです。

では読む人は様々な書物の中で自分がどういう読者として振る舞えばその本がよりよく読めるのか、そういう意識を持ってもらえたらいいなという願いがあったんです。だからサブタイトルを「書物の中の私たち」としたんですが、それこそ歴史的に成立した近代読者としての私たちが書物の中で抽象化されて、読む主体となってどのように振る舞えばいいのかということを書きました。

紅野●僕の『検閲と文学』のテーマは、自分が抱えてきた色々なテーマを研究してきた中で派生してきたものなんです。僕自身は検閲を最初から意識して考えてきたわけではない。しかし、これまでも日本の近代文学の場合は否応なく発売禁止問題が関わってきました。だから意識はしていたんですけど、特にそのこと自体は考えていなかった。

たまたま中里介山という作家の「夢殿」という小説を考える機会があって、当時、その小説の掲載頁が切り取られて売られたということが分かった。発売禁止ではなく雑誌の一部が破られているんです。「出来上がった雑誌の頁を破るとは一体どういうことなんだろう」と考えて、調べ始めたんです。ピンポイントの狭いところから始めたんですが、この狭いところからどこまで広いところへ行けるかということをやってみようと思ったんです。

作品についてはほとんど分析をせずに、文学者たちが検閲を巡ってどのような形で結びつき、運動を起こしてきたのかを書いてみました。これは私流の「実録ヤクザ映画風日本近代文学史 検閲暗闘編」なんです(笑)。

(『文藝』2009年冬号より)


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