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   <title>勝田有子の書評ブログ</title>
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   <updated>2009-12-28T00:17:37Z</updated>
   <subtitle>勝田有子（精神科医）</subtitle>
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   <title>『精神分析臨床を生きる―対人関係学派からみた価値の問題―』サンドラ・ビューチュラー　著　川畑直人・鈴木健一　監訳　椙山彩子・ガヴィニオ重利子　訳(創元社)</title>
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   <published>2009-12-27T03:29:21Z</published>
   <updated>2009-12-28T00:17:37Z</updated>
   
   <summary>  →bookwebで購入 「臨床への信念」 　サンドラは、長い黒髪と大きな黒い...</summary>
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<name>勝田有子</name>
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         <category term="心理/認知/身体/臨床" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
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<p><span class="purple">「<strong>臨床への信念</strong>」</span></p>
　サンドラは、長い黒髪と大きな黒い瞳を持つ、身の丈150センチ足らずの小柄な女性だ。けれども、こぢんまりとした佇まいからは、地に足の着いた確固たる意気が伝わってくる。殊のほか印象的なのは、彼女が語る時の真剣な瞳と、穏やかに微笑む時の和らいだ瞳で、それは彼女の情熱と慈愛、そして誠実さと厳しさを物語っている。本書には、サンドラのふたつの眼差しが、随所に注がれている。

　本書の原題はClinical Valuesで、副題をEmotions that guide psychoanalytic treatmentとする。日本語版のタイトルは、したがって相当な意訳だが、サンドラの寄って立つ学派と何よりも本書の意図を明瞭に汲んでいる。サンドラから直接に指導を受けた川畑・鈴木の両氏をはじめ翻訳陣の方々は、誠意の伝わる翻訳作業をしてくれた。

　冒頭で強調されているように、「精神分析の治療に関する膨大な文献は、発想を豊かにすることよりも知的情報を与えることの方が多い。…知恵よりもむしろ説明の方が優先されている感じで、下手をすると知性は育まれても、気持ちや精神は犠牲になってしまう」。「無味乾燥な言語が頻繁に用いられる」。「心や魂には響かない」。「専門用語を使うと、私たちはぎこちなくなってしまう。…ある特殊な専門職の文化に属しているという自覚は得られるが、それ以外の人生のさまざまな経験に接触しなくなってしまう」。これだけ畳み掛けるように精神分析の専門書に異議を唱えているだけあって、本書の文章と内容は異彩を放っている。

　サンドラが平易な日常語を旨とすることは、彼女の講義でも有名で、専門用語の咀嚼に躍起となりながらも、内心は辟易している多くの聴講生に、驚きと感銘を与えている。本書においても充分に発揮されている彼女のそうした特質は、無骨な分析用語や詩的すぎるファンシーな語句とは縁がない章立てを一瞥すれば、歴然としている。各章のタイトルは、好奇心・希望・親切・勇気・目的感覚・感情のバランス・喪失に耐える力・統合性・理論を生かす、となる。いずれも、臨床家として必要とされながら、公式の場所では書かれることも語られることも稀なテーマである。

　いずれの職業（に限らず）集団にも言えることだが、特定集団の常識が世間では非常識であることは少なくない。分析業界も例外ではなく、土俵が患者さんとの密室空間であること、しかも守秘義務という厚いカーテンに覆われていることは、その傾向を募らせる。様々なタブーや掟、それらについて延々と続く論議は、業界外部の人間の理解を越える。たとえば、約束された時間や料金という枠組みを重視して、時間延長は一分も妥協しないとか、患者さんにコメントを求められても沈黙するとか、冷淡と思われかねない態度をとることを分析訓練生は推奨される節がある。患者さんの願望を易々と満たさないことによって、彼らが自分の（無意識の）願望に気づいていくことを促すという理論的整合性があることはある。そもそも、冷淡と思われたくないという治療者側の願望よりも患者さんの利益を優先することは、実際のところ、難儀この上ない。けれども、この「冷淡」は「剥奪」にすぎず、分析家は自らの掟を絶対視するあまり、患者さんをいっそう苦しめる医原病を招いてはいないか、という反省が分析家自身からなされて久しい。そして、それが内輪の派閥闘争の火種になったりするのが、フロイト以来の業界史の一側面である。　

　「精神分析とは何か」という問いを巡る絶え間ない自省と闘争の歴史は、「人間とは何か」を問う真摯な探究の表われである。けれども、この真摯さは、意固地さや盲目的信仰と紙一重になりやすい。アメリカで精神科医といえば精神分析家を意味したほどに分析が隆盛を極めていたのは昔話で、精神科医療のなかで分析がマイノリティであるという現実は、分析家が真摯な探究をするのに都合のいい状況とは言えない。難解な概念を弄する象牙の塔へ引き篭もったり、薬物治療に偏りがちな精神医療を闇雲に攻撃したり、自己防衛の方策は尽きない。あるいは、自虐に傾いて精神分析自体を攻撃することもありうる。視野広く現実を見据え、謙虚さを備え、防衛を自覚しつつ、なお自らの生業(なりわい)、つまりは生活の糧であるところの臨床を問い続けていくことは、至難の業ですらある。精神分析に限らず、特定の価値を真理として掲げることの不可能性が唱えられるなか、それでなくても密室のなかで孤立しがちな分析家にとって、燃え尽きる危険性はいつも目前にある。

<blockquote>簡潔に言うと、燃え尽きは、職業への信念の喪失に対する反応であると私は考えている。燃え尽きた分析家は、もはや自分の選んだ領域の持つ価値を信じることができない。燃え尽きの核心にある喪失は、積み重なったものであり、出世に対する期待の喪失、患者と収入を文字通り失うという喪失、メンタルヘルスケア業界をとりまく、やる気をなくさせるような雰囲気によって起こる自尊心の喪失、特定の患者の治療に対する希望の喪失、経済的な事情で患者をとめどなく受け入れなくてはならないという状況から起こる誠実さの喪失感覚などがある。もちろん、根底にある分析家個人の性格的問題も関係する。しかし、私たちの仕事の側面には、特にすべての喪失を沈黙のストイシズムをもって耐えるようにと迫られるところがあり、それが燃え尽きにつながる要因になりやすい面があると思う。</blockquote>

　サンドラの言う信念 ( Faith ) という言葉は、臨床を重ねるごとに重さを増してくる。メンタルヘルス業界のなかですら存在する、精神分析についての偏見や誤解を声高に正すことは難しい。業界の常識に内在する深い人間洞察と独りよがりの非常識を弁別することは、ひとえに個々の分析家の感情的・知的統合力、つまりは人間性と器量に委ねられている。多くの分析家は、臨床での対人関係（自分と患者とのあいだ）で起きることに献身し、自問を続けるほかない。「治療とは本質的に生死に関わる苦闘である」とするサンドラの言葉は、大仰でもなければ、尊大でもない。精神分析臨床への信念を育み、維持するためにはどうしたらいいかを真剣に自問する分析家の誠実な覚悟である。

　サンドラのふたつの瞳の共存は、厳しさが冷たさとは異なること、優しさが弱さや甘やかしとは異なることを体現している。その一端は、本書のなかで散見されるサリヴァンやエーリッヒ・フロムへの切れ味の鋭い批評と彼らの恩恵への感謝にも窺える。厳しさと優しさの共存が望まれるのは、分析家にかぎったことではない。それは人間としての軸が問われる事態なのだ。臨床家である自分は何者なのか、という基盤を蔑(ないがしろ)にした理論書が続出するなかで、『精神分析臨床を生きる―対人関係学派からみた価値の問題―』は、臨床家としての信念の結晶に触れられる貴重な一冊である。
　2004年に出版された本書の精華は、分析界の栄誉であるグラディーヴァ賞を獲得した “Making A Difference In Patients' Lives: Emotional Experience In The Therapeutic Setting” ( Psychoanalysis In A New Key Book Series, 2008 ) へと引き継がれている。サンドラが執筆へと精力を注ぎ始めたことは、わたし個人にとっても、希望の贈り物である。
<br></p>
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   <title>『蛇を踏む』川上弘美(文春文庫)</title>
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   <published>2009-11-17T12:48:30Z</published>
   <updated>2009-11-18T00:27:01Z</updated>
   
   <summary>  →bookwebで購入 &quot;&gt;―平成版『死者の書』― 　先頃、新聞で川上未央子...</summary>
   <author>
<name>勝田有子</name>
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         <category term="日本文学（小説/詩/戯曲/エッセイ等）" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
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<p><span class="purple<strong>">―<strong>平成版『死者の書』―</</strong></strong></p>
　先頃、新聞で川上未央子の作品についての書評を読んだ。彼女の著作は読まず嫌いであったけれど、興味をそそられたので読んでみることにした。一冊読んで感心したので、次々に読み進めてみた。そうして、やがて気づいたことには、わたしの読んでいたのは川上弘美であって、未央子ではなかった！名前を覚えきれないどころか、歌手やタレントの顔が誰も彼も同じに見えるようになって久しいが、こうした老化現象が作家にまで及んだのかと思うと、切なくなる。そうは言うものの、瓢箪から駒とはこのことで、未知の作家に出逢えた上に、心動かされたことはもっけの幸いであった。

　わたしがこうした勘違いをしていた頃、滅多に観ないテレビで、偶然、バカリズムなるお笑いタレントを見かけた。「サルカニ合戦」の動物などを人間に置き換えての紙芝居であったが、これが滅法おもしろい。サルを吉田さんとか、ウスを菊池さんとかに置き換えただけなのに、痛快になることこの上ない。テレビを観て高笑いする底の抜け方をするのも悪くない。とはいえ、底の抜けた後であれこれ空想するのはいつものことで、当時は川上未央子とばかり思っていた川上弘美の諸作品を積み上げた脇で、昔話について考えていた。

　洋の東西を問わず、お伽噺の多くには、動物が登場する。動物だけの場合もあるし、動物と人間のやり取りになることもある。わたしたちは、動物が人間同様の言動をしていることに、何ら疑問や滑稽を感じずに受け入れているわけだ。幼い頃には、動物と人間の境が曖昧なのだろうか。動物が人間になったり、人間が動物になったりすることに、訝(いぶか)ることもなければ、眉をひそめることもない。ここまで来れば、アンパンマン、ウルトラマン、ハリーポッターへのハードルはないも同然となる。後は、勧善懲悪や美醜の問題が、それらの世界への熱狂を左右していくような気もする。

　川上弘美作品に馴染みの方々ならば、このあたりで合点されることだろうが、彼女の作品には、昔話並みに動物が続々と登場する。1996年の芥川賞受賞作でもあり、本書の表題ともなっている「蛇を踏む」では、公園で蛇を踏んで以来、母親になりすました蛇が自宅に居着くこととなる。この蛇が、50がらみの母親姿で、「ヒワ子ちゃん蛇はいいわよ、蛇の世界は暖かいわよ」と蛇の世界へネトネトと誘い込む。「お母さんは蛇なんだからヒワ子ちゃんが蛇なのは道理なのよ」とか何とか口説いて止まない。この蛇パワーを、グレートマザーだとか「呑み込む母親」だとか精神分析的に解釈する無粋をしても始まらない。ここはひとつ、幼心(おさなごころ)に返って物語を鵜呑みにしよう。

　続々と登場するのは動物に限らない。無生物すら蠢(うごめ)き、正体を変え、人間の世界へと越境してくる。「クナニラ、クナニラ」と囁く先祖代々の霊の宿るゴシキという名の壺、女の姿をした鳥に浚(さら)われて蒸発した曾祖父、家の石や柱の間に混じって住んでいる「ねこま」なる生き物等々が湧いてくるのだから堪らない。思わず、一切衆生悉有仏性と唱えたくなる。つまり、川上弘美作品はモノノケ図鑑なのだ。じっとしていないモノノケが、人間世界を跋扈(ばっこ)して、ややもすると占拠し始める。

　人間はというと、これらのモノノケに肝を潰すでもなく、訪れと存在をひたすらに受諾する。踏まれた蛇は、「踏まれたらおしまいですね」と大仰な台詞を吐くが、踏んだヒナ子の方は、母親に化けた蛇の用意するつくね団子に箸をすすめ、酌されるままにビールを飲み干していく。モノノケの躍如たる世界にあっては、時に人間の影さえ薄くなる。字義通り、薄くなる。蛇との同居歴20年を越えるコスガさんは、「影が薄くなっていた」。「目や鼻や口は色が抜けて、少しのっぺらぼうに近くなっていた」。挙句に、本書収載二作目の「消える」では、家族が消えていく。しかも、こうしたフェイドアウトや蒸発に遭遇しても、人間たちは慌てふためかない。

　この自若の態は、達観とか諦観といった抹香臭いものではないのだが、シラけた現代人の距離感とも違って、登場人物はむしろ昔気質(かたぎ)ですらある。「蛇を踏む」では、闘うヒワ子ちゃんが見られるものの、物語の登場人物は概して受け身で、自分に執着しない。我執がないことでは徹底している。ほとんどの名前がカタカナ表記されていることによっても、無我の特徴は増幅されている。サナダさんも、ニシ子さんも、ヒロ子さんも、カナカナ堂も、漢字を剥奪されてカナ文字にされると、途端に‘主体’を稀薄にする。
　もっとも、モノノケにしたところで、確固たるアイデンティティを持っているわけではない。そこには、「ゲゲゲの鬼太郎」のモノノケ百科にある個性やバイタリティがない。邪(よこしま)な横暴もない代わりに、正義や善意があるわけでもない。意図がないのだ。モノノケは‘いる’だけで、これまた‘いる’だけの人間と馴染みとなって、「教訓のない寓話」は進行する。

　『蛇を踏む』は、かつて、わたしたちが何ら違和感を覚えずに心躍らせていた昔話の荒唐無稽への通気口となる。バカリズムのパラドックスに底を抜かすのは、わたし（たち）が換気不良の人間世界に蟄(ちっ)居している証拠かもしれなくて、幼児がバカリズムに高笑いすることは想像し難い。けれども、川上弘美の通気口は、さらに向こう側に繋がっていて、その先には、混沌とした生暖かい世界が底もなく拡がっている。それは、ひょっとして彼岸と呼ばれる世界かも知れなくて、川上弘美作品のモノノケは、あの世とこの世を往来するチャネラーだとしたら腑に落ちる。実際、彼女の作品には死者がしばしば現われる。『蛇を踏む』は、実のところ、日本人の死生観を描いた平成版『死者の書』なのかも知れない。
<br></p>
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   <title>『ハロルド・ピンター〈１〉温室／背信／家族の声』ハロルド・ピンター　貴志哲雄(ハヤカワ演劇文庫)</title>
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   <published>2009-10-22T06:57:40Z</published>
   <updated>2009-10-22T13:26:24Z</updated>
   
   <summary>  →bookwebで購入 ―「現実」をめぐる劇作家の支配― 　戯曲を読むことは...</summary>
   <author>
<name>勝田有子</name>
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         <category term="演劇/映画" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
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<p><span class="purple">―<strong>「現実」をめぐる劇作家の支配</strong>―</span></p>
　戯曲を読むことは小説を読むのとは違った体験となる。当然のことながら、戯曲では、台詞が物語の構成要素のすべてといっても過言ではない。それに比べれば、小説はトガキで埋め尽くされているようなものだ。ところが、自分たちの日常生活を振り返って見ればわかるように、声になって現れる言葉などは人間関係の氷山の一角に過ぎない。それどころか、その一角は往々にして嘘や欺瞞に満ちている。しかも、それら偽りの巧みさ、稚拙さ、露骨さ、隠微さ、無邪気さから悪意にいたるグラデーション、つまりは罪の深浅には、計り知れない幅がある。だからこそ、ドラマは鑑賞するには面白く、生きるのは肩が凝る。
<br>　そういう具合であるから、戯曲を読むと、活字化された声（言葉）に込められた意味や意図、そこに炙(あぶ)りだされる人間関係の綾を想像することになる。声の音調はもとより、見えない表情や物腰、間合いまでもが必然的に想像されることになる。

　ところが、読者に想像を要求するまでもなく、すべてが御膳立てされている戯曲もあれば、生半可の想像では歯が立たない戯曲もあって、ピンターの作品は歴然と後者に属する。ベケットやイヨネスコなどを嚆矢(こうし)とするいわゆる「不条理」演劇の系譜に連なるとされるピンターのこと、「わからない」台詞に遭遇することは確実で、「家族の声」にいたっては、台詞の掛け合いの蝶番が外れている。それに加えて、時空間にも飛躍がある。そもそも、どこまでが現実でどこからが空想・夢想・譫言なのかという境界すら鮮明ではない。台詞だけが剥き出しのまま突きつけられる。だから、「いったい何が起きているのか。何が起こったのか」という「現実」が見えない。

　「背信」は、収められた三作品のなかでは最も「わかりやすい」戯曲だが、物語が始まりから終わりまで経時的に流れて行くといった従来の戯曲展開の安心と受動の恩恵は期待できない。不倫を題材としたこの作品では、時間軸の移動（過去と現在が往来する）によって、誰が何をどこまで知っていたのかという「現実」の心許なさが浮き彫りとなっていく。「実は知っていた」ということは、「知っている」という事実を一方が他方に隠蔽していたというもう一つの背信を意味している。背信・裏切り（原題は“Betrayal”）は、単なる男女間の不倫だけを意味しない。登場人物は、だまし絵のように織り込まれた「現実」の傀儡(かいらい)となる。

　結果として、わたしたちは「現実」の不条理を突きつけられるわけだが、それだけならば、観客を煙に巻く気紛れなナンセンス劇と変わらない。ところが、ピンターの作品には不条理を不条理で終わらせないものがある。かくもバラバラで滅裂に近い会話の総体が示すものは、現実というものの脆さ・頼りなさ・虚構性であるにもかかわらず、ピンターの作品はその現実を見据える確固たる視線、それに対処する姿勢を感じさせる。描写される現実はたとえナンセンスであっても、生きることをナンセンスにはしない意志がある。そして、作品の見かけとは対照的なリアリズムを提示している。たとえば、上記の「背信」のだまし絵は、ピンターという傀儡師が緻密に構築した「現実」である。

　台詞だけで構成された戯曲には、読者が想像を自在に駆使できる自由があるように見えて、実は戯曲ほど作者の意図に支配された文芸もない。戯曲はそもそも声として発語され、生身の人間によって演じられるという肉体性を前提として書かれる。読者の感受性や思考という原野に放たれるものとしてではなく、役者の身体という現実の枠のなかに投げ入れざるをえない運命のもとに書かれている。演劇とは、その肉体性を通じてこそ表現され伝えられる芸術の形である。
　もとより自閉的な文芸の世界にあって、演劇は現実に開かれているのみならず、映画とは違って、一回性という現実を重視した芸術でもある。そこでは、役者の身体や開演時間といった現実の制約を受容せざるをえない。しかも、舞台は観客という生身の人間に曝(さら)されている。演出家・役者・観客をはじめとする多重の現実フィルターが、巻き戻しを許さない環境のなかで対峙する。戯曲とは、元来、現実に支配され、現実に挑む芸術なのだ。劇作家の表現した現実は、数多(あまた)の人間による現実の多様性に耐えられる支配力を持たなければ拡散してしまう。さりとて、支配的すぎる現実は、観客をはじめ他者の現実を度外視した圧制になりかねない。ピンターがもっとも忌避し、告発してきた圧制の複製となりかねない。
　「わかりやすい」戯曲にこそ支配はあって、ただわたしたちはその支配に鈍感になっているだけだ。わかったつもりの作者とわかったつもりの観客の思惑が一致すれば、舞台はわかりやすいものとなる。けれども、ピンターはわかったつもりの現実を分解していく。台詞だけという不自由さのなかに組み込まれた見えざる意図の構造が、「わからない」という不自由な現実にわたしたちを曝し、現実理解を変容させる化学反応へと誘っていく。

　昨年末に食道癌で他界したピンターは、後半生において政治色を前面に出し、個人の欺瞞のみならず、社会・国家の欺瞞を告発し続けた。ピンターのリアリズムは政治的言動と不可分となる。そのあたりの事情については、訳者である喜志哲雄が編集・翻訳した『何も起こりはしなかった』（集英社新書）を参考にされたい。書評空間でも<a href="http://booklog.kinokuniya.co.jp/nisidou/archives/2007/05/post_22.html">西堂行人氏が書評している</a>。

　昭和3年に岸田國士を編集者として出発した演劇雑誌「悲劇喜劇」を刊行し続けている早川書房といえども、今のご時世に戯曲集を文庫で発刊するというのは天晴れというほかはない。ハヤカワ演劇文庫からは、ピンター作品に限らず、国内外の戯曲の数々が続々出版されている。戯曲に臨むのも、読書の秋には一興かと思う。
<br></p>
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   <title>『エーテル・デイ―麻酔法発明の日』ジュリー・M・フェンスター　安原和見　訳(文春文庫)</title>
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   <published>2009-09-09T03:58:40Z</published>
   <updated>2009-09-09T06:01:58Z</updated>
   
   <summary>  →bookwebで購入 「医療史の分水嶺を生きた群像」 　麻酔のなかった時代...</summary>
   <author>
<name>勝田有子</name>
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         <category term="自然科学/ポピュラーサイエンス" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
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      <![CDATA[<p>
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<p><span class="purple">「<strong>医療史の分水嶺を生きた群像</strong>」</span></p>
　麻酔のなかった時代、外科手術は何を当てにしていたのか。ざっと羅列するとこのようになるらしい。ちなみに、これは欧米の場合。１）アヘンの使用。２）アルコールの使用。３）心頭滅却。４）催眠術。５）氷冷却。６）失血による失神。７）手術部位だけを露出させるような箱や袋に患者を閉じ込める。８）痛みの程度や時間について患者に嘘をつく。
<br>　当然のこと、痛みをコントロールするにはどれも不完全だった。手術されるくらいなら病気の進行に身を任せた方がましと考えた患者も少なくなかったし、手術を前に自殺した者もいた。ところが、驚いたことには、麻酔なしに四肢切断はもとより、開胸手術（心臓や肺の手術ということになる）までがなされていたという。上記の３番目、心頭滅却が冗談ではなかったわけだ。加えて、今日のような手術衣と外科手袋といった外科医のシンボルもありはしない。手術衣は、なんと冬外套であった。年季が入るほどに、外套は飛び散った血潮でゴワゴワになり、それとは不釣り合いに、手術台には真っ白なリネンが引かれていた。患者は覚めたままそこに寝かされて、怪奇小説さながらの外套を見上げていたことになる。これが、1846年10月16日までの手術の実状だった。

　『エーテル・デイ―麻酔法発明の日―』は、吸入麻酔の導入という医療史の画期的事件の舞台と舞台裏を描いている。舞台はボストン、マサチューセッツ総合病院。世界初の麻酔外科手術の日となった「エーテル・デイ」の緊迫した１日から始まる本書は、即座に読者を引き込んでいく。医療の専門家には是非とも読んでもらいたい一冊だが、読者層を選ばずに満喫できる実話録であり、世界的発明をめぐる群像を描くドラマは、生き生きとした社会史・文化史でもある。

　新興国アメリカの潮流、親元であるヨーロッパに絶えず秋波を送るボストンという土地柄、そのボストンに苦々しい視線を向けるニューヨークやフィラデルフィア、「ヤンキー」の発見に対するイギリスとフランスの態度の相違、当時の医師・歯科医の社会・経済的地位、大道芸の役割、知識の大衆化による講演会の流行、高邁な倫理観に支えられた医学とビジネスの接点など、興味深い歴史的事情が、吸入法麻酔の発見（発明）家である３人のアメリカ人を軸として展開する。

　科学少年のまま成人した高名な化学者・地質学者（医者でもある）チャールズ・ジャクソンは、事あるごとにフランスの威光を求める。気の多い歯科医ホラ・ウェルズは、いつも貧乏くじを引かされている。高等ペテン師のウィリアム・モートンは、一攫千金のために先手を打つことに余念がない。この3人のアメリカ人が揃うことによって初めて、エーテル麻酔が実現し、外科手術の門戸は拡がり、人類に福音がもたらされた。エーテル法は、独立後100年に満たないアメリカが生んだ初の世界的発明だった。

　「エーテル・デイ」が、なぜ1846年なのか。どうして1846年まで患者も医者も絶叫の手術に忍従しなくてはならなかったのか。答えは、「バカの壁」の一語に尽きる。

　19世紀前半、エーテルや笑気ガス（亜酸化窒素）は大道芸人によって巷間に知られ、社交パーティや学生の余興に使用されていた。後年リボルバーで一躍有名かつ富豪になったコルトも、その特許申請資金集めのために、ひと嗅ぎ25セントの笑気ガス・ショーを巡業する大道芸人だった。エーテル・デイのたった一年前には、或る医学生が、学費稼ぎのため、ブロードウェイの大劇場で笑気ガス実演会をして、爆発的人気を得ている。つまり、エーテルや笑気ガスに意識を失わせ、痛覚を麻痺させる効果のあることは、大衆周知のことだった。
　他方の専門家はというと、1800年に亜酸化窒素の研究書がイギリスで出版され、そこには「外科手術の際に利用できるかもしれない」とまで記されている。それに続く専門書が幾度も亜酸化窒素の効能と可能性について触れ、しかもこれらは欧米の専門家によって広く読まれていた。それにもかかわらず、画期的発明のお宝は、半世紀にわたって、社交の暇つぶしと大道芸の種として埋もれていたのだ。

<blockquote>…そしてかれらの著作を読んだ何千何万という読者も、ほとんど知っていたのである。知る一歩手前まで来ていたのに、みぞを越えることができなかった。そのせいで、エーテルの麻痺効果が麻酔法に使えると気づくことができなかったのだ。
医学の進歩は不可能だったのだろう―これほど完璧に無知の足かせをはめられていた時代には。それは知識がないという文字どおりの「無知」ではなく、知識があっても見えないという意味での「無知」だ。</blockquote>

　この「バカの壁」を打破するのが、ペテン師のモートンにほかならない。にわか歯科医だった彼は、お人よしのウェルズが笑気ガスによって無痛抜歯を成功させたことに、宝の原石を見出す。自らの飼い犬（その名はニグ）をはじめ農場の動物を実験台にして、虎視眈々と原石を宝石にするチャンスを狙っていたモートンは、ジャクソンの肩書と人脈を利用して、着々とマサチューセッツ総合病院に接近していく。モートンはエーテル法が抜歯に有効と確認した翌日には特許弁護士と打ち合わせ、エーテル・デイの11日後には特許申請をし、事もあろうにアメリカ合衆国は特許を与えているのだ。この迅速かつ用意周到な算盤勘定によって、エーテル法は真に重要な医学的発見としては初めての特許を獲得する。

<blockquote>医学の進歩という神聖な領域が、損得勘定によって浸食される時代が到来したのだ。それは医学の進歩を支える精神をそこなったが、同時に進歩を加速させることにもなる。</blockquote>

　他方、モートンに学術的示唆を与えたジャクソンは、モースに電信のアイデアを施しながら発明者としての名を残せなかった過去を負い、モートンとの確執と迷妄を深めていく。ジャクソンは、

<blockquote>モートンのような男が自分の世界に入ってくるのを許すわけにはゆかなかった。その世界では、科学は教会のように組織され、ヨーロッパ的な考えかたによって支配されている。発見というのは大家だけにできるものであり、大家と呼ばれる権利を得るには、勤勉さだけでなく品格も必要である。</blockquote>

　と信じないわけにはいかなかった。

　電話も飛行機もなかった時代にもかかわらず、吸入麻酔法は驚くべきスピードで全米・ヨーロッパへ伝播していく。いかに麻酔法が望まれていたかを示唆する速さである。その勢いのなかで、特許は有名無実となっていくのだが、モートンはアメリカ合衆国を相手どって10万ドルの報奨金請求をし、挙句には特許監督不履行の訴訟を起こして、ロビー活動に明け暮れては身上を潰していく。茶番のように思えるが、下院議員は確実にその茶番に巻き込まれていくのだから呆れるほかはない。

　原因はそれぞれながら、３人の発明家は揃って人事不省・錯乱状態に陥る末期を迎えている。多くの勲章と妄執を宿して、彼らは他界している。

<blockquote>かれらの人生ははるか昔にいきなりねじ曲げられ、安楽な約束された人生からそれて、この瞬間を目指して走りはじめた。それ以前に予想していたとおりの人生を生きていたならば、狂気をさらすことも、自殺することも、名声に傷をつけることもなかっただろう。けれども、三人は人生をねじ曲げられてしまった。三人が三人とも、まったく同じ瞬間に。それは一八四六年十月十六日午前十時半を少しまわったときのことだった。</blockquote>

　ボストンの５つの図書館に捧げられた『エーテル・デイ』は、19世紀の歴史・人物を専門とするフェンスター女史のはじめての単行本で、日本では唯一の翻訳である。ノンフィクションの真骨頂を堪能できる力作で、他作品の翻訳が期待される。
<br></p>
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   <title>『蝶』皆川博子(文春文庫)</title>
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   <published>2009-08-24T14:31:28Z</published>
   <updated>2009-08-25T00:14:54Z</updated>
   
   <summary>  →bookwebで購入 「供養の花火」 　『蝶』は八篇の短編から成る。いずれ...</summary>
   <author>
<name>勝田有子</name>
</author>
         <category term="日本文学（小説/詩/戯曲/エッセイ等）" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://booklog.kinokuniya.co.jp/katsuta/">
      <![CDATA[<p>
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<p><span class="purple">「<strong>供養の花火</strong>」</span></p>
　『蝶』は八篇の短編から成る。いずれも20頁余りの小品だが、戦時を時代背景とした全編は、短さゆえとも言える凝縮した念を感じさせ、厳粛な光芒を放っている。時に妖気、時に殺気を放って風景を変えながらも、打ち上げられる花火のように、胸を衝く閃光の後には、重い音を身体に残す。余韻という言葉では片づけられない重さである。
<br>　実際、多くの登場人物が短命で、死んだ者、死んでいく者、殺された者、殺した者の挟間に、生き延びた者が生息すると言っても過言ではない。いずれの死に方も生き方も残酷と哀しみを負い、希望もないかわりに慟哭も怨嗟もない。いっさいの感傷は排され、彼らの時代の日常が、凍結されていたかのように冷徹に描かれている。

　何篇かに現われる少女の原型は著者かと察せられるが、昭和４年生まれの著者がこれらを作品化するのに、戦後６０年を要している勘定となる。戦死者に限らず、逝く者、逝った者への鎮魂の祈りを昇華するのに要した歳月なのだろう。『蝶』は、半世紀以上を経て放たれた、他に追随を許さない、供養の花火である。

　感傷はない。けれども、籠められた思いの丈は、挿入される詩や俳句に宿っている。解説の齋藤愼爾の言い得て妙な表現を用いるならば、それらは作品中に「象嵌(ぞうがん)されている」。
　各短編に配された詩篇や俳句の作者は、たとえば横瀬夜雨、薄田泣菫、伊良子清白といった詩人であったり、ハイネやダンセイニ、フォルといった西洋詩人であったりする。もっとも、上田敏や西條八十、堀口大學らの名訳が醸す古語調の西洋には、現代のわたしたちが失った西洋への異国情緒や当時の日本の面影が、彫り深く刻まれている。これらの詩句が冴え冴えとした白刃のように、また或る時は、凛とした草の花のように、時代を生き永らえ、無数の屍を越えて、語り継がれていく。
　白刃または草の花を語り継ぐのはこどもである。おとなにも難解なこれらの詩句は、大概の作品において、こどもによって諳(そら)んじられる。意味も解しないであろう年の端もいかないこどもに委ねられる象徴詩が、逝った者の遺し文のようにして、こどもに宿り、半世紀を経て、小説を紡ぎだす端緒となって蘇生している。

　短編の多くには、音楽がある。「象嵌」された詩句には、音色がある。詩のリズムそのものが音楽であることは言うに及ばず、実際、マンドリンやらピアノ、パイプオルガンなどの伴奏が詩に重ねられ、場面の要所で奏でられる。
　たとえば冒頭の「空の色さえ」では、ハイネの「空の色さえ陽気です。時は楽しい五月です」という詩句が、祖母によって、叔父によって、「わたし」によって繰り返し歌われる。祖母の歌うそれは、「歌詞はモダンだけれど、節は御詠歌のように哀調をおびて」いる。マンドリンを奏でながら叔父の歌うハイネは、「さても鯨の形のわるさ」までで、傍らで歌詞を黙読していた「わたし」は幾聯(れん)か先を目にして胸を衝かれる。

<blockquote>―「一人の子供が港に落ちた！」

―「海へはまって死んだとはさて美しい死に方だ。」

然し今、誰あって

泣こうなどとは思はない。

空の色さえ陽氣です、

時は樂しい五月です。</blockquote>

　無論、陽気でもなければ、楽しいはずもない。この乖離の意味を解し得ないままに、こどもの「わたし」は祖母や叔父よりも生き永らえて、そうして、わたしは「二つに別れ」ていく。一人は、歳月とともに齢を重ね、知りたくもなかった乖離の意味の断片を知らされていく。「もう一人のわたしは、祖母の家の二階にいる。そこには、うつろう時は存在しない。…わたしは歌う。空の色さえ陽気です。誰あって、泣こうなどとは思わない。誰が死のうと殺そうと、戦があろうとなかろうと、時は楽しい五月です。海は流れる涙です…」
　これ以上解説してしまうのは無粋でもあるし、実際、難しい。読んでいただくほかにない。ひとつ言えるのは、『蝶』の執筆は、この乖離した二人のわたしが融合する作業であっただろうし、齢を重ねた著者が、過去に封印されたまま歌い続ける自分を迎えに行く仕事だったに違いないと思えることだ。
　『蝶』のすべての作品は、亡霊の奏でる音色に乗って漕ぎ出す舟であり、その舟が灯すのは送り火でもあり、迎え火でもある。

　表題となっている「蝶」は、こどもも音楽も登場しない例外的作品である。ひとりの復員兵の戦後を描いた作品で、荒寥とした無彩色の世界と血と炎に凝縮される鮮紅色の世界が交錯する。最北の荒れ地、廃屋となった司祭館、薄い氷の下に透ける真夏の森の幻影、流氷の海原を疾駆する犬、石油缶に灯される焚き火などの視覚的映像が、寒風のなかで刻印される。そして、それら一切合財の戦後が、終末の銃声へと一気呵成に雪崩れて行く。銃声という音、あらゆる音楽を止める音、過去と現在の時間を繋げ、凍った時間に血脈を与え得る音が、氷原に響き渡る。後に残るのは、唯一の救済の音であるかも知れない二発目の銃声の予期である。
<br></p>
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   <title>『内田百閒( (ちくま日本文学 1) (文庫) 』内田百閒(ちくま文庫)</title>
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   <published>2009-07-08T12:53:47Z</published>
   <updated>2009-07-09T00:50:42Z</updated>
   
   <summary>  →bookwebで購入 &quot;&gt;「深入りしない物(もの)の怪(け)」 　内田百閒...</summary>
   <author>
<name>勝田有子</name>
</author>
         <category term="日本文学（小説/詩/戯曲/エッセイ等）" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
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<p><span class="purple<strong>">「<strong>深入りしない物(もの)の怪(け)」</</strong></strong></p>
　内田百閒の作品では、始終、男が歩いている。大概は、土手を歩いている。歩いているうちに、しばしば、物の怪が現れる。両者はしばらく同行し、いかにも物の怪らしい挙動があったりなかったりして、終いには、往々にして、男は涙を流す。歩いて、憑かれて、涙する。
<br>　物の怪は女だったり、狐だったり、父親だったりするけれど、中には最後まで正体の知れないこともある。「山高帽子」がその例で、幻の声が頓着される。主人公は自分の顔が無闇に大きくなったように感じ、閉居気味となり、出掛けても奇行が目立つようになる。そうこうするうちに、聞こえるはずのない声を聞き、出奔したりする。友人は彼が自殺でもしかねないと案じるが、当の本人は「疲れたらしい」と言って、どこか他人事のような悠長さで構えている。

　鈴木清順（監督）と田中陽造（脚本）が『ツィゴイネルワイゼン』で内田百閒作品を映像化したのは、かれこれ30年近くも前のことになる。原作は「サラサーテの盤」とされているが、「山高帽子」の幻聴場面もそっくり挿入されている。そもそも、藤田敏八も原田芳雄もよく歩いていた（食べてもいた）。大谷直子も切り通しやら橋やらを頻(しき)りに歩いていた。大楠道代にいたっては、のべつ幕なしに食べていた。健脚と美食の映画だった。
　『ツィゴイネルワイゼン』は内田百閒「怪奇譚」のオムニバスのような映画で、諸作品があざといほどにパッチワークされているのに、食傷するどころか蠱惑的で、とにかく衝撃的だった。鈴木清順の美意識は、内田百閒の淡泊な物の怪と健康な食欲を、濃厚な色彩と露骨なエロスへと換骨奪胎していて、その乖離は写真のネガポジのようでもあった。

　鈴木清順が、殊のほか「山高帽子」や「サラサーテの盤」に触発されたのも無理はない。それらでは、物の怪の配役に捻(ひね)りがある。物の怪の登場には、故人や狐といった憑くモノと遺族や偶々の遭遇者といった憑かれる者の配役が必須となるのだが、二作品の憑依関係はより錯綜していて、遺恨や怨念の翳りがある。その翳りこそを、人間模様の心理的解釈によってではなく、視覚的・感覚的官能によって拡大連想していったのが、『ツィゴイネルワイゼン』だった。ところが、原作はというと、翳りは翳りのままで、深追いされない。勿論、心理的解析などとは無縁のまま、物の怪の消息は絶える。

　「山高帽子」では、憑かれたように疲れるのは主人公で、睡眠薬自殺するのは友人である。この友人を芥川龍之介に想定した『眠り姫』なる映画（原作は山本直樹の漫画『眠り姫』）もあるらしいが、わたしは観ていない。ともあれ、幻聴に襲われる主人公はあたかも友人の狂気を代理する媒介であるかのように登場する。自分の幻覚にも仄かに呑気だった主人公は、友人の自殺をも他人事とする。

<blockquote>　その知らせを受けた時、私はいきなり自分の部屋に這入って、後ろの襖を締め切った。
「野口は自殺した」と私ははっきり考えようとした。
　しかしそれは私には出来なかった。
　どうして自殺したのだろうとも思わなかった。
　ただ私の長い悪夢に、一層の恐ろしい陰の加わった事を他人事(ひとごと)のように感じただけだった。

　何日か過ぎたある夜明けに、突然私は自分の声にびっくりして目がさめた。何を云ったのだか解らなかったけれど、恐ろしく大きな声だった。咽喉一ぱいに叫んだらしかった。しかし別に悲鳴をあげるような夢を見ていたのでもなかった。寧ろ、ぼんやり頭のどこかに残っている後の気持ちから云えば、何かに腹をたてて怒ったのかも知れなかった。…</blockquote>

　内田百閒は、何に腹を立てていたのかを追及するでもなく、そのまま布団を被る。曖昧模糊としたものに輪郭を与えようとはせずに、放置する。涙して、悪夢に目覚めても、悲嘆や悔恨に暮れるでもなく、さりとて非人情というわけでもなく、あっさりとしている、と言うほかはない。

　「山高帽子」から19年を経て昭和23年に執筆された「サラサーテの盤」ともなると、筋立ても文章も緻密になっている。冴え冴えとした聴覚が、文頭から描かれる。宵の口の風雨が雨戸を鳴らし、それがいつの間にか止んだ静謐のなか、

<blockquote>　坐っている頭の上の屋根の棟の天辺で小さな固い音がした。瓦の上を小石が転がっていると思った。ころころと云う音が次第に速くなって廂に近づいた瞬間、はっとして身ぶるいがした。廂を辷(すべ)って庭の土に落ちたと思ったら、落ちた音を聞くか聞かないかに総身の毛が一本立ちになる様な気がした。</blockquote>

　幽(かす)かな音連(おとづ)れは、物の怪の訪れの予兆となる。

　「サラサーテの盤」は、他界した友人が主人公に貸したままとなった本やレコードを、妻を介して取り戻しにやってくるという筋立てだが、この作品では、誰もが何かに耳を澄ませている。そもそも、サラサーテの囁きが混入するツィゴイネルワイゼンのレコードに耳を傾けるという設定からして、頗る妖(あや)かしに満ちている。亡友は娘の夢に訪れるのだが、イタコのごとくうなされる幼女も媒介なら、物の怪のごとく決まった時刻に訪れる遺妻もまた、夢と現の境を往来させられる媒介である。

　その妻は、取り置かれていた亡夫の飲みかけのビールを主人公に注ぐのだから、もっと怖い。女が先妻への妬みを零し、物を取り返し尽くし、妄言の果て泣き崩れても、主人公は物の怪に接するように接している。つまりは、気配の訪れに感応しても、感情の内奥には触れない。内田百閒は、台詞や姿態を写すことには忠実だが、心理的奥行きには筆を伸ばさない。だから、遺妻も主人公も影の薄い物の怪であるかのように描かれていく。
　高等遊民なのか性格破綻者なのか、あるいは双方なのか、いずれにしても破天荒のままに他界した友人の人生にしたところで、内田百閒は事実だけを簡略に連ねて、感傷に傾くことは露もない。

　内田百閒の物の怪は、深入りしてこないし、作者もそれを深追いしない。その距離感は、精神的脆さを覆う防衛ではなくて、物の怪にも損なわれない内田百閒の素直な健やかさのように、わたしには思える。あちらの世界から物の怪が訪れても、あちらに浚(さら)われることはない。
　そういえば、「特別阿房列車」は、用もなければお金もないのに、大阪へのとんぼ返りをする話だ（これは怪奇譚ではない）。借金の方法から列車や相棒の塩梅まで、策略を練った挙句にようやく東京を出発したかと思うと、計画通りさっさと大阪を後にする。浚われてしまうことのない電車の旅を常とした内田百閒が書くと、怪奇譚もこうなるのかも知れない。
　
　内田百閒の36篇を収めた『内田百閒』は、ちくま文庫ならではの有難い一冊だ。夏の夜に怪談をどうぞ。
<br></p>
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   <title>『無能の人』つげ義春(新潮文庫)</title>
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   <published>2009-06-16T13:19:05Z</published>
   <updated>2009-06-17T08:05:55Z</updated>
   
   <summary>  →bookwebで購入 &quot;&gt;―「蒸発」不能者を慰安する水墨漫画― 　わたしに...</summary>
   <author>
<name>勝田有子</name>
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         <category term="日本文学（小説/詩/戯曲/エッセイ等）" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
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      <![CDATA[<p>
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<p><span class="purple<strong>">―「蒸発」不能者を慰安する水墨漫画―</strong></span></p>
　わたしには潜行する癖(へき)がある。石を拾う。随分前のこと、居間に転がった無数の石を一念発起して庭先へ放逐してからというもの、持ち帰る頻度こそ激減したが、石を見ると気がそぞろになる。ポケットを重たくして帰宅する日常の再発が、ふとした折に脳裏を過(よ)ぎり、その幸と不幸を秤に掛けていたりする。
<br>　けれども、石拾いと石売りの間には大きな懸隔がある。前者の延長にありながらも、後者は間違いなく世捨て人の範疇に足を突っ込んでいる。川本三郎は、「『無能の人』は、現代の隠者に近い生活をするにはどんな商売があるかとつげ義春があれこれ知恵を絞っている一種の、“就職情報”」であると評しているらしいが、この見解は正しい。

　それにしても、つげ義春の隠者生活には、妻子が付き物である。第三話まで顔が描かれなかった妻は、都合上、否応なく顔を見せ始めるが、息子にいたっては、冒頭から堂々登場し、鼻をすすり、熱を出し、泣き喚く。健気(けなげ)な息子は、母親のチラシ配りのパートを手伝い、夕刻になると、売れない石を並べた多摩川岸のテントに、父親を迎えに赴く。稀な家族旅行に興奮し切っては、気遣いで雁字搦めになる。薄汚れていて、頭もけっして良さそうでなく、おまけに不細工な少年は、ありうる限り両親に寄り添っている。顔を消去されていた妻にしたところで、夫の甲斐性のなさに始終文句を言いつつも、離縁の口上を脅しにするでもない。旅の発案に浮足立って、小躍りすらする。
　このような次第で、『無能の人』の隠棲は、所帯を無条件セットにしている。家庭崩壊しないという原則は、『無能の人』にとって不可侵のようだ。

　総じて、妻子を道連れとした隠者生活は、貧乏に遣り切れない現実味を添え、人生をしみったれたものにする。一家ぐるみの極貧を引き受けて「就職活動」に勤しむという強迫的生活主義に満ちた『無能の人』には、徹底してロマンが欠落している、はずである。金の融通と生活臭は、ロマンに余地を残さないからだ。したがって（？）、このタイプの隠棲から純型隠棲へと移行するために必要なのは、「蒸発」にほかならない。その暁には、隠棲は歴としたホームレスとなる。ところが、つげ義春の不可侵所帯セットは、蒸発を断固として禁じ手とする。

　「蒸発」と題した第六話では、蒸発の既往が囁かれる古本屋の山井の過去が綴られるが、その山井にしたところで、ホームレスになるどころか、かつての家庭を去って、現在の家庭へ連れ込まれる顛末と来ている。この連れ込まれるというのが侮れない特徴で、あくまで転がり込むのではなくて、事情と状況（具体的には後家さん）が彼を新たな家庭に引き込むのである。徹底した無抵抗と受け身の姿勢は、怠惰と無気力の表徴であるが、つげ義春の反家庭崩壊思想がそこにも窺える。

　山井は自らのあり方を、「‘いながらにしていない、あってない（居て居ない）’と観想するための具体的方法」と形容し、宗教的解釈を施していたりする。事実上廃業している古本屋の店先で寝込む山井は、「どうせ私はいずれ帰るのだから、ほんのちょっとこっちに来ているだけですから」と、思わせぶりに彼岸と此岸を並べるものの、結局、彼岸という故郷（ホーム）を前提にしているのだから切なくなる。

　隠棲スケールに照らし合わせるならば、山井の半端な隠者生活は、蒸発の既往のある分だけ、主人公（どう見てもつげ義春自身の写し絵である）よりも純型に近く、稀代の放浪者よりも亜型に属する。後者の放浪者といえば、柳の家井月なる漂泊者（実在の人物らしい）や、第三話の「鳥師」など、所帯セットから外れた純型隠棲者を描くことに、つげ義春はかなりの紙幅を割いている。柳の家井月の辞世の句への情緒的共鳴と、鳥人の孤立超然とする姿への質朴な憧憬は、水墨画のように淡く全編の背景に控えているが、主人公は別段それに焦がれるわけではない。焦がれることすらしない、というのが『無能の人』の特徴である。

　漂泊と蒸発のロマンに惹かれながらも、家庭に留まり、さりとて生産的労働に勤しむでもない生活の惰性は、おそらく多くの社会人にとって、身に覚えのあるところだろう。蒸発する勇気とエネルギーには欠け、ホームレスになり切れない程度には責任感がある人々は、往々にして、家庭という此岸から漂泊の彼岸を夢見ている、とわたしは思う。
　けれども、大多数の人間は、そうした現実と夢を不承不承ながらも分別し、間違っても河原の石売りなどにはならない。そもそも、そのような職業など発想すらしない。夢を見るか蒸発するかの二者択一だけがあって、『無能の人』が示す中間状態、つまりは妻子込みの隠者生活など思いつきもしないのだ。
　そして、このありえないはずの半端さが、多くの潜在蒸発者を惹きつけて、感情移入を可能にさせる。二者択一という選択肢以外の可能性の提示、川本三郎いわくの“就職情報”は、蒸発不能者を少なからず慰安するのではないかと思う。石を拾えても石売りにはなれない自分などは、そぞろ神を語ってもそれに憑かれることはない。それでいて、その安泰が幸であるとは骨から達観しきれないから、拾われた石が放逐された今も、『無能の人』は我が家の居間に居場所を得ているのかも知れない。
<br></p>
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   <title>『山梔　（くちなし）』野溝七生子(講談社文芸文庫)</title>
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   <published>2009-05-09T15:53:04Z</published>
   <updated>2009-05-10T23:56:02Z</updated>
   
   <summary>  →bookwebで購入 「肉食系少女の曙」 　久しぶりに空恐ろしい小説を読ん...</summary>
   <author>
<name>勝田有子</name>
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         <category term="日本文学（小説/詩/戯曲/エッセイ等）" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
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<p><span class="purple">「<strong>肉食系少女の曙</strong>」</span></p>
　久しぶりに空恐ろしい小説を読んだ。怖ろしいのは冷血無比な殺人者でもなく、霊界・幽界の魑魅(ちみ)魍魎(もうりょう)でもない。芳香を放つクチナシを母の髪に添えようと、その繊細な小枝に届かぬ手を伸ばす少女こそが怖ろしい。

　『山梔(くちなし)』は、作者の心理的自伝と思しき作品で、阿字子という稀有な名を持つ少女の幼少期から女学校卒業頃までを記している。題名となるクチナシは、冒頭にしか現れないが、届かぬ花を手折るのは、閉居耽読を旨とし「魔法使」と綽名される美しい女性である。妖艶さを醸す「魔法使」は、夕暮れ時に予言する。
<blockquote>「私は世間の母親に云ってやるわ。あなた方の娘が、私みたいなものに、ならないように御用心なさいってね。でも大変大変お気のどくなけれど、阿字ちゃんは、どうも私みたいになりそうなのよ。あなたは、私の幼い時の鏡みたいだわ。どうも、どうもお気のどくね。」　</blockquote>
　果たして、予言は的中を越えて、阿字子はドスの利いた怖ろしいこどもへ成っていく。

　野溝七生子は、明治30年姫路に生まれ、昭和62年90歳で他界している。『山梔』は大正12年26歳で執筆された著者の処女作である。多作な作家ではなく、東洋大学で教鞭をとっていた野溝は、戦後30年近くを新橋第一ホテルに暮らし、鷗外とギリシャ語しか読まないという孤高・孤絶の晩年を送ったという。半生の婚籍外伴侶であった鎌田敬止の死から7年の後、野溝は亡くなって、今は同じ墓地に眠る。最晩年には、辻潤との往時の色恋沙汰（の真偽）を巡って、瀬戸内寂聴と熾烈な闘いがあったらしく、その事件との因果関係は知れないが、被害妄想・幻覚を呈した挙句に、第一ホテルから老人病院へと寝食の場を移したと聞く。

　こうした三文記事的履歴を眺めただけでも、著者の凄みの一端が知れよう。けれども、何よりも説得力のあるのは、久世光彦の「証言」だ。野溝の生原稿（『眉輪』なるシナリオ）を手にした久世は、「それを埋め尽くす厖大な量の文字は、一文字一文字に意志の力が籠められ、憾(うら)みに似た思いが漲っているように、私には見えた」と書いている。さらに、「野溝七生子は、もしや三島由紀夫の生母なのではないだろうか」とまで書いているのだ。『山梔』がほぼ自伝として読めるだけに、こうした逸話は聞き捨てならず、迫力を倍増させる。

　阿字子の現実世界は狭い。家庭内暴力を憚らない元軍人の父親と、殊勝な母親、兄・姉・妹から成る家族を基本に、若干の登場人物が去来するに過ぎない。ところが、「魔法使」に入れ知恵されて以来、蔵のなかで盗み読む書籍こそは、母を喜ばそうとクチナシを求めて「空の彼方(かなた)にまで遠く腕を伸ばして何物かを摑(つか)もうとしているようにも純潔であった」阿字子の空想の糧となる。殊のほか、ギリシャ神話が阿字子の心を奪う。オリンポスの神々の欲望と力が、海辺の町に住む阿字子の意志と情動を発火させていく。

　小説の前半では、少女たちの残酷が生々しく綴られるが、その理知的解析と言動たるや、江國香織の少女たちとは比べ物にならないほど切れ味鋭く、硬派で、かつオドロオドロしい。阿字子は自分よりも該博でそれゆえに疎外されている早苗という学友を得る。たとえば、このような会話を小娘たちは交わす。

<blockquote>「…あなたは、私に、色んなことを教えて下さるでしょうね。」
　早苗は、阿字子の指を、捻(ねじ)ったり、引っ張ったりして、種々に弄び乍(なが)ら呟(つぶや)いた。
「私はそのあなたの中から、もうずいぶん沢山、無断で、食べてしまったわ。あなたの、心臓をたべて血を嚥(の)んで。」
「あなたは、よくそんな風なことを云うのね。私の小さい時姪(めい)のように私を可愛がって呉れた女の人に、あなたはよく似ているの。その人も、そんな風なことばかし云っていました。」
「その人も、あなたの心臓を喰(た)べたんですか。魔法使のお婆さんが若い命をとり戻そうとしては子供の心臓を喰(た)べていたように。」
「あなたも、魔法使だなんて、そんな言葉を知っているんですか。」
「あなたが、私に喰(た)べさした癖に。私はこの頃、お伽(とぎ)噺(ばなし)ばかり読んでいるんです。今だって読んでいます。あなたと話していることがそうなんです。私はこの頃つくづく自分の不純にあいそをつかしてしまいました。だから何かを取り戻そうとして、あなたを喰(た)べることに極めたの。」</blockquote>

　「草食系」なるキャッチフレーズに象徴されるように、現代の小説群はもとより実生活における欲動や欲望は肉薄となって久しい。それに比して、『山梔』では、肉食獣さながらに欲動が襲来してくる。そこに怖ろしさの一因がある。しかも、その欲動に高邁・高潔な意志が殺傷力を添える。ちなみに、欲動といっても、性的因子は悉く排除される。プラトニックな恋愛すらも周到に排斥され、「あなたは、私の兄さんだったらよかったのです」という身も蓋もない台詞がロマンスの緞帳(どんちょう)を下げる。勿論、結婚に至っては問題外である。

　阿字子を衝き動かすのは、端的に言えば、社会が要請する女性の役廻りからの解放と自由である。自由への途上には、無規格ゆえの多様性がある。その多様性と両性具有的な魅惑は、少女のみならず少年にも本来備わっているはずだが、少女の場合、その季節は儚(はかな)いほどに短いものと相場は決まっているようだ。その季節を永らえさせるためには、闘いが不可避となる。社会・他者と、家族、特に母親と、そして誰よりも自分自身との格闘である。阿字子の場合、その闘いの傷は、切創では済まされない深手を余儀なくされる。寸時に豹変しては対極に振れる思惟・感情は、ローラーコースターさながらである。自殺未遂をしたり、卒倒したり、昏睡状態を続けたり、阿字子には静穏な意識の持続というものがおよそない。

　クチナシが妖しくも切なく香った黄昏は、後半に至って、怒涛の海を抱く曙へと推移していく。兄嫁の登場が触媒となって、阿字子の攻撃は、一気呵成に打撃力を増していく。究極的には、阿字子の闘いは、母親への愛憎を台風の目とする。322頁から10頁余に及ぶ母娘の詰め寄った会話は圧巻で、息が止まりそうになる。母娘の葛藤に今も昔もないものの、ここまで徹底して「言語化」する親子は滅多にいない。

　久世光彦は、『山梔』を近代の女人文学の原点であり、到達点であると評価したうえで、「少女の貴族性」という表現をしている。「＜少女＞という特権階級にだけ神が許した賤民蔑視の思想である。あらゆる現実を見下し、その日常と戦うことを高慢に軽蔑しようとする、純粋に居丈高な思想なのである。思想というよりは、＜少女＞という存在それ自体である（『昭和幻燈館』より）」。その思想の曙である『山梔』の阿字子は、7年後の昭和5年に執筆された『女獣心理』において、沙(すな)子と征矢(そや)という二人の女性の合体へと変容していく。シャム双生児の分離手術を描いたような作品で、二人に翻弄される男性が語り手となる興味深い作品だ。題名こそ物々しいが、先入観なしで読んでもらいたい。

　『山梔』も『女獣心理』も、重量感のある作品で、台詞のドスは利いているものの、地の文体はむしろ楚々淡々としていて、粋(いき)ですらある。いずれも、少女であり続けるという不可能な思想をまっとうした女性作家への畏怖と羨望を惹起させる稀書である。
<br></p>
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   <title>『白川静―漢字の世界観』松岡正剛(平凡社新書)</title>
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   <published>2009-04-18T04:39:32Z</published>
   <updated>2009-07-09T08:50:17Z</updated>
   
   <summary>  →bookwebで購入 「巫の書」 　本書の仕立ては、博覧強記の鬼才松岡正剛...</summary>
   <author>
<name>勝田有子</name>
</author>
         <category term="言語/語学" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
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<p><span class="purple">「<strong>巫の書</strong>」</span></p>
　本書の仕立ては、博覧強記の鬼才松岡正剛にしては驚くほど抑制が利いている。舞台裏の編集者としての器量が存分に発揮された名著だ。碩学を一般読者へ紹介するために要する膨大な知識と情報は惜しみなく割愛され、白川学のツボと経絡が簡潔に描かれている。それにもかかわらず、慎ましく素描された経絡には気血が巡り、白川静という人間の鬼気迫る魅力が脈打っている。しかも、白川静というひとつの経絡図（ミクロコスモス）を呈示することで、松岡は世界（マクロコスモス）の航海図へと読者を誘っている。新書版という選択も優れているが、その紙幅の制約に伴う構成の工夫には職人芸を見る思いがする。

　なによりも、本書の成功を支えているのは、松岡の白川静への篤い畏敬の念にほかならない。その心映えが過剰な感情・感傷に陥ることなく伝わってくるところが本書の真骨頂で、その地味な仕立てが松岡ではなく白川静を引き立てている。読者のなかには、2006年に鬼籍に入ったばかりの白川静との交霊・降霊といった禍々(まがまが)しさを期待する向きもあるだろうが、卓抜な編集能力に支えられた端正な距離感が、白川静入門書という目的には奏功している。実際、本書をきっかけに白川静の諸作品を求め始める読者は相当な数に昇ることだろう。

　白川静の業績は、門外漢のわたしには量る由もないけれど、著作リストを一瞥するだけでも明瞭なことがある。65歳の退職後に出版量が激増しているのだ。しかも、一般読者を対象とした著作が目立つ。漢字研究の第一人者として知られる白川静が三部作『字統』、『字訓』、『字通』のライフワークを出版したのは70・80歳代に至ってのことで、96歳で他界する直前まで絶えることがなかった研究の火は、神々しさを放っている。白川は甲骨文字や金文における民俗的・呪術的背景の探究を軸にしながらも、漢字や中国という範疇を越えて、『万葉集』などに伺える日本の呪術的背景を思索するという広大・深甚な器量を有している。極めて特化した専門学問を極めることによって拡がる豊穣な思索と世界観を、このコンパクトな一冊は、一般読者に拝観させてくれる。

　白川の学問と生活史を往来する構成は、読者の呼吸・息継ぎに即している。当然のこと、甲骨文字は随所に配置されているが、これまた読者の消化容量を超えない程度に取捨選択されているところが心憎い。
　白川静と白川学と世界観は、「漢字マザー」などの造語を加味されて、松岡流に要約・翻訳されるのだが、折々のキャッチフレーズも感興的だ。たとえば、「文字が世界を憶えている」と題された第一章には、「漢字には原初の祈念や欲望がある」との小見出しのもと、以下のような文章がある。

<blockquote>要約すれば、「漢字には文字が生まれる以前の悠遠なことばの記憶がある」というふうになります。
　漢字が言葉の意味をあらわしていると言っているのではなく、文字は言葉を記憶しているのだ。文字しか言葉を記憶しているものはない、漢字はそれを体現しているのだと、そう、白川さんは強調しているのです。
　この見方には、白川文字観の根本的見方があらわれています。漢字は甲骨文字にはじまったものであるけれど、それを含めてそこには、文字以前の言葉の動向のすべてがあらわれているはずだ。もっというのなら、人間が求めた構想や祈念や欲望や憎悪などすべての動向があらわれているはずだというのです。</blockquote>

　甲骨文字のひとつひとつが太古の人間の構想や祈念や欲望や憎悪の記憶を宿しているという発想は、我田引水するならば、精神分析の基本思想を彷彿させる。数千年の歴史のなかで刻まれた無数の人間の記憶と、ひとりの人間の記憶とでは、その規模においてかけ離れてはいる。けれども、何年もかけて繰り返しひとつの夢に立ち戻っては語り合っていく作業や、夢であれ症状であれ、表われの奥に拡がる無意識という堆積層、つまりは構想や祈念や欲望や憎悪を解読して理解していくという作業は、白川が黙々と古代文字をトレースしていく姿勢と重なるところがある。地道で、時間がかかり、いつも発見ばかりとは限らず、「治療」とは何かと煩悶したり、これは信仰なのかと疑って、時代遅れと思しき悠長な作業に、孤立のなかで慄然とすることがある。自分を引き合いに出すのはおこがましい限りなのだが、余りの落差なればこそ、白川静の生き方はわたしを敬虔で厳粛な思いにさせる。

　文字の力についても、紹介したい箇所がある。

<blockquote>このとき、白川さんは文字がもつ本来の「力」というものを想定しました。そして、それを「呪能」とよびました。文字には呪能があり、その呪能によって文字がつくられたのだと想定したのです。呪能は白川さんの著述のなかに頻繁に出てくる重要なキーワードのひとつです。
　呪能とは、人間が文字にこめた原初のはたらきのことです。
　たいそう類感性に富んだはたらきです。また、その文字が実際にもたらす意味の効能や作用のことです。文字呪能ともいいます。呪能とはいえ、呪うとはかぎらない。祝うこと、念じること、どこかへ行くこと、何かを探すこと、出来事がおこるだろうということ、それらを文字が文字の力において文字自身ではたそうとしているのが、文字呪能です。</blockquote>

　最後に、白川静自身の言葉を紹介しよう。70年代から80年代にかけて松岡が編集した伝説の雑誌『遊』に掲載された原稿からの抜粋である。

<blockquote>「遊ぶものは神である。神のみが遊ぶことができた。遊は絶対の自由と、ゆたかな創造の世界である。それは神の世界に外ならない。この神の世界にかかわるとき、人もともに遊ぶことができた」。そして、こうあった、「遊とは、この隠れたる神の出遊をいう」。</blockquote>

　白川静によれば、神を呼ぶ呪能をもった道具が‘工’であり、それに左右から手を組み合わせたのが‘巫’であるという。したがって、‘巫’とは踊るシャーマンを意味する。本書をもって松岡正剛は巫となり、鬼籍の人、白川静の影(よう)向(ごう)を掲げ、彼の遺した著作という文字の力とともに遊ぶ自由と創造を厳かに体現し、わたしたちをその祭祀へ導いている。
　『白川静　漢字の世界観』とは、知性の美と力を感じさせる巫の書である。 
<br></p>
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   <title>『いつか記憶からこぼれおちるとしても』江國香織(朝日出版社)</title>
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   <published>2009-03-29T06:18:43Z</published>
   <updated>2009-03-30T00:23:38Z</updated>
   
   <summary>  →bookwebで購入 「少女たちの残酷、そして不感症」 　江國香織の作品は...</summary>
   <author>
<name>勝田有子</name>
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         <category term="日本文学（小説/詩/戯曲/エッセイ等）" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
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<p><span class="purple">「<strong>少女たちの残酷、そして不感症</strong>」</span></p>
　江國香織の作品は読んだことがなかった。多作の作家への謂れのない不信感と、直感的姓名判断によるまったく謂れのない猜疑心が重なってのことだ。だから、或る友人が本書を懲りずに勧めてくれても、わたしはズルズルと一年以上ものあいだ嫌煙を通していた。

　重い腰を上げて本書を開いたのは、件(くだん)の友人が同伴する車中でのことだった。最初の一篇（本書は短編集の体裁をとっている）を読んで、その離人症的感覚に辟易の予感を抱いていると、それを察してか、友人は「お気に召しませんか？」と言葉を掛けてきた。言葉にしてしまうことで予感が現実化してしまうのを恐れたわたしが曖昧な返事をすると、「なんというか、切ないんですよ。その小説は」と友人は重ねた。「セツナイ」という言葉が自分の察知した離人感覚に符合するようで、わたしは秘かに気を重くした。

　気が変わったのはふたつめの短編「緑の猫」に入ってからだった。主人公である女子高生の友人に精神失調が生じるのだが、その細部描写には現実味があった。作者の空想ではなさそうな現実観察を感じ始めた途端、それまで皮膚感覚程度の関わりでしか読めなかった本書が、興味と実感を持って読めるようになったのだ。情けないことだが、これは職業病にほかならない。わたしが恐る恐る自分の感想を口にし始めると、友人は「少年はずっと少年でいられても、少女は少女でいられないでしょ。その切なさと残酷がよく描かれているんですよ」と、今度は長いコメントを述べた。「現実の残酷というべきか」とも言い足した。その時のことだ。パヴェーゼの『美しい夏』が蘇ってきたのは。

　一昨年前のこと、この書評空間で『美しい夏』を紹介したわたしは、「パヴェーゼはどうして、『美しい夏』において、女性を語り部としたのか？深い残酷を彼女たちに背負わせたのはなぜか？」と書いている。自害したパヴェーゼを念頭に、以下のようにも書いている。

<blockquote>「きみは夏になれないんだ。…ぼくはきみを愛さなければいけないのだろう。…しかし、そうすればぼくは、時を失うだろう」というグｲードの台詞は、時が夏で止まるべきこと、そして、愛が時を止めることを示唆している。コクトーの子供たちは、どれほど残酷であっても、パヴェーゼの子供たちが病む、愛の不能は感じさせない。
…（パヴェーゼにとっては）いつも夏の祭儀と残酷が拭えぬ烙印として焼きついて、生き続けるための循環する時間を凍結させていたのかもしれない。</blockquote>

　少女が生き続けていくために通過しなくてはならない夏の残酷が、『いつか記憶からこぼれおちるとしても』には淡々と描かれている。そこには夏の猛暑もなければ、冬の酷寒もなく、秋の冷ややかな風と乾いた落ち葉の感触がある。パヴェーゼが少女たちを供犠として季節を夏で凍結させたのに対比して、江國香織の少女たちは夏を越えて生き延びていく。

　男性が女性を愛することの困難が女性の通過した残酷の烙印にあるとしても、女性は男性を愛する以前に自らに刻まれた烙印を受け入れるという作業をしなくてはならない。同性愛者であったコクトーが免れた愛の不可能性の根源は、そうした女性の「穢れ」にあるのかも知れない。「現実」という穢れである。

　もっとも、幸いなことには、男も女も呑気に愛を語ることができるようにもなっているらしい。だからこそ、多くの男性が自害などせずに人生を全うすることができる。ある少女たちもまた然りで、残酷の烙印に無自覚または無関心のまま夏を通過して女になっていくらしい。しかも、そういう女性に耐えられない男性もいれば、安堵して使い分ける男性もいる。その一方で、そういう女性に耐えられない女性もいて、彼女たちは無自覚・無関心でもなければパヴェーゼ流でもない通過方法を用いていてサバイバルしているらしい。その方法を『いつか記憶からこぼれおちるとしても』、つまり江國香織は示している。しかも、彼女の作品が広く読まれているということは、彼女の方法がけっして少数派の方法ではないことを物語っている。結論を言うと、現実の残酷を通過する方法とは、離人症と不感症である、とわたしは思う。

　少女が体験する痛みの数々が、想起され、創造されて、この短編集という小箱には収められている。肝腎なのは、それらが「いつか記憶からこぼれおちる」ものとして予見（感）されていることだ。烙印されるのでもなく、封印されるのでもない、時折の開封もありえない、‘いつかこぼれていく（かもしれない）’運命を作者は提示している。こうした運命の受諾は、従来の日本的美意識である「はかなさ」や「もののあわれ」とは異質である。江國香織の描く少女たちの秋風と落ち葉にあるのは、移ろう動きを伴わない冷ややかさと乾燥なのだ。

　生贄を要する祭祀を描かずにはいられなかったパヴェーゼに比して、江國香織が描くのは日常のなかにある傷であり、それらは繰り返される浅いリストカットが残す縦列を連想させる。瘢痕を残さずにいつかは消えていくかも知れない無数の傷を彷彿させる。こうした連想は、彼女たちの日常の傷の浅さを意味しているのではなく、心的傷の深さを皮膚表面の浅い傷へと転換してしまうメカニズムを意味している。悲しい出来事も惨い顛末も、抱えず、腑に落とすことなく、皮膚に止めておく。

　けれども、そうした通過の方法には代価のあることに少女たちは気づいているようだ。第一篇「指」には、主人公の少女が電車で遭遇した「痴漢」女性に向かって、「フリジディティ（不感症）」ではないかと直面する場面がある。女性は自らの不感症を否定して、「不感症ってなんのことだか知ってるの？」と問い返すのだが、不感症の何たるかを知っているのは少女の方に違いない。少女たちは年上の女性たち（母親も含めて）の「不感症」を嗅ぎとり、それが自分たちへも受け継がれていることを知っている。勿論、ここで言う不感症とは性的快感を得られないという狭義の不感症ではない。懐妊することを喜びをもって引き受けることの不能を意味する。こどもの誕生のために自分を捧げることの不能である。つまりは、母親になる、母親であることの不能である。
　人類の誕生以来、連綿と繰り返されてきた懐妊と出産という現実、かつては現代以上に死（穢れ）の危険を伴った契機を引き受けることの不能は、人生という現実をリアルに体感していくことの不能をもたらしていく。離人症という現実感からの解離は、不感症の当然の帰結であり、ふたつは同義ですらある。

　江國香織の作品群が多くの読者を惹きつけるのは、現代という社会装置における離人症と不感症をありのままに描くことに成功し、それらが何たるかを殊更に言挙げしなくても共感を呼びさますことに成功しているからであろう。作者自身にとって、残酷の記憶はこぼれおちることなく、抱えられてきたに相違ない。さもなければ、38歳にして少女時代を見事に再現するような作品は書けないはずだ。第一篇「指」ではおとなの女性への共感と挑戦が、最後の短編「櫛とサインペン」では男性への復讐と同情がなされている、とわたしは読解する。江國香織にとって、執筆は少女のまま女性になる方法なのかも知れない。
<br></p>
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   <title>『朗読者』ベルンハルト・シュリンク(新潮文庫)</title>
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   <published>2009-02-11T03:27:56Z</published>
   <updated>2009-02-11T06:02:17Z</updated>
   
   <summary>  →bookwebで購入 「文字と声」 　多くのこどもたちは寝る前のお話を聴き...</summary>
   <author>
<name>勝田有子</name>
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         <category term="海外文学（小説/詩/戯曲/エッセイ等）" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
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<p><span class="purple">「<strong>文字と声</strong>」</span></p>
　多くのこどもたちは寝る前のお話を聴きたがる。ところが、そんなに焦がれた枕元の朗読を、こどもたちはいつしか打ち忘れて、ひとりで眠るようになる。多くのおとなは手間の省けたことに安堵し、自分たちの時間を取り戻す。そうして、朗読をせがんだり請われたりするという生涯に二度とないかもしれない特別な時間を、おとなもこどもも失うことになる。

　物語は声から始まる。

　ところが、やがて文字を読めるようになると、物語は声を失くして文字となる。書き文字を理解することとは、声に頼らなくても言葉を再生できることであり、文字を所有することである。そして、文字を所有するようになったわたしたちは、物語を選択する自由を獲得する。読みたい物語を読み、書きたい物語を書き、好き嫌いで物語を選ぶようになる。文字とは、眼前にある現実世界を越えた世界を体験する道具であり、世界の広さと形を創造する自由を意味する。枕元の朗読をわたしたちが惜しみなく後にできるのは、自由という報償があるからなのかもしれない。

　けれども、声を惜しみなく後にできない人もいる。その時、文字は過去の声を封印する隔壁となり、現在は閉ざされる。自由はない。

　『朗読者』は、文字を所有する男と所有しない女の物語である。文字の限りを尽くして文盲の女を理解しようとした男の回想録である。回想は15歳の主人公ミヒャエルの嘔吐から始まり、21歳年上の女性ハンナとの官能的関係が綴られ、40代と思しき彼の涙も声も出ない嗚咽をクライマックスとして、後年『朗読者』を執筆し終わったことを記して終結する。

　文盲であることの恥辱は、ハンナの生き生きとした感情を圧殺する。秩序と規律への過剰な潔癖は、恥辱を覆う歪（いびつ）な鎧となる。文学（と官能）はその鎧を外し、徹底的に隠蔽された豊かな感情に息吹を与える命綱となり、そうして朗読者は求められる。

　朗読者の声は、ハンナに世界を拡げる自由を夢見させる。

　ナチズムはこの作品の主題と思われる自由と贖罪を浮き彫りにさせる重要な要素で、世界的ベストセラーとなった大きな要因でもある。ホロコーストの生存者に見られる感情の抑圧・否認または解離が、この作品にも全編を通じて感じられる。けれども、ミヒャエルもハンナもユダヤ人ではない。なによりも、ミヒャエルの感情を麻痺させるのは、ナチズムという社会現象よりも、ハンナとの個人的体験にほかならない。彼は自分の離人感を次のように語っている。

<blockquote>誰がぼくに注射を打ったのだろうか？感覚を麻痺させないことには耐えられなかったので、自分で自分に注射を打ったのだろうか？…ぼくは、まるで彼女を愛し求めたのは自分ではなく、ぼくのよく知っている誰かだった、という気持ちでハンナを見ていることができたが、麻酔の作用はそれだけにとどまらなかった。ほかのあらゆることに関しても、ぼくは自分の傍らに立って、もう一人の自分を眺めていた。…そして、ぼくの心は、その場で起こっていることに参加していないのだった。</blockquote>

　ミヒャエルの感覚麻痺はハンナとの離別によって生じる。ミヒャエルはハンナの声を失うことで、自分の声を失い、文字という砦にこもる。
　彼が疎隔したのは自らの感情だけではない。否応にも感情を惹起させる現実そのものから身を引き続ける。ミヒャエルは弁護士にも裁判官にもならず、「誰も必要とせず、誰を邪魔することもない」法史学を居場所として「逃避」を続ける。結婚しても、いかなる女性関係を持っても、彼はハンナを居場所として過去へと引き戻されていく。　　　　　　　　

　朗読者の声はもう一度、ハンナに希望を灯す。文字を所有する勇気を与える。

　けれども、文字を所有するようになった時、ハンナが必要としたものは、最早、文学や朗読という媒体の声ではなく、ミヒャエルの手紙（文字）であり、彼自身の声だった。ハンナの希望を、ミヒャエルは媒体にすがり続けることで黙認していく。朗読という行為によってハンナを、また自分をも疎隔したまま、ミヒャエルはハンナと繋がりつづける。それが逃避であり、方便であり、罪悪感を宥める手立てであることを知りながらも、ミヒャエルは朗読者という身柄を捨てられない。文字を所有し、感情の疎隔という壁が落ちた時にハンナが覚えたに違いない痛みを修復する場所に、ミヒャエルはいない。

　ミヒャエルにとっての朗読という行為は、かつてはハンナに息を吹き込み、やがてはハンナの生命を剥奪していく。ミヒャエルはハンナの現在の肉声から逃避し、過去の肉声を回想することで文字にすがる。ミヒャエルが「彼女の声は、まったく若いときのままだったのだ」と気づく時は遅く、ハンナの声は永久に失われる。永久に失われた声の重さと文字の罪を、『朗読者』は抱えきれず、読者を当惑させる。

　この回想録は過去から自由になることを希求して書かれた、とミヒャエルは記す。彼はハンナを「理解する」ために回想し、贖罪と自由を求める。赦しとはハンナを赦すことであると同時に誰よりも彼自身を赦すことを意味する。けれども、その不可能を痛感することで、ミヒャエルは筆を置いている。
　男と女のあいだの罪と傷、そして慙愧（ざんき）が、遣りどころのないままにミヒャエルを疎隔し、その遣りどころのなさ、不充足感が読者をも疎隔していく。作品理解を妨げるもどかしい壁は、ミヒャエルがハンナの声に耳を閉ざし続けたことに依る。聞こえるのは、ひと夏の声、過去の声だけなのだ。ハンナの人物像は、ミヒャエルにも読者にも不可解なまま、宙吊りにされる。シュリンクは読者にハンナの声を聞かせないことによって、ミヒャエルの贖罪と自由の不能を追体験させているかのようだ。

　読了後の第一印象は、「この作品は映画の方がいい」という、わたしにしても珍しいものだった。案の定、出版後14年経って、ドイツ小説『朗読者』はアメリカ映画『The Reader』（スティーブン・ダンドリー監督）となった。シュリンクは脚本家デヴィッド・ヘアに、如何なる作家が如何ように書こうともホロコーストについての贖罪はありえない、そして、ハンナは自分のなしたことへの確かな理解がなかった、という二点は揺るがさないで欲しいと伝えたという。不可解な人物像をケイト・ウィンスラーは見事に演じている。映画ではミヒャエルにそれなりの赦しが与えられていて、脚本家と監督の苦肉の策と思えるが、鑑賞者の救済にはなる。原作は映画という媒体によって、生きている。役者たちの声を得て、原作の持つ不充実感を補っている。

　文字を要塞として自らを封鎖し、声に依存しながらも声を拒絶し続け、声を喪失した男がいる。文字に怯えながらも声を頼りに文字を希求し、文字の所有と同時にすべてを喪失した女がいる。文字は禁断の果実であり、ふたりは罪（の自覚）を背負うこととなる。文字と声の矛盾と拮抗は、小説と映画というふたつの媒体によって、抱えられる物語になる。

　小説『朗読者』は、映画『愛を読むひと』（原作にも映画にも不釣り合いな邦題にはゲンナリする）という名のもと、6月に日本公開される。是非、揃えて体験してもらいたい。文字と声の双方が要求される作品なのだから。
<br></p>
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   <title>『どうで死ぬ身のひと踊り』西村賢太(講談社)</title>
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   <published>2008-12-19T14:16:47Z</published>
   <updated>2009-02-11T06:04:23Z</updated>
   
   <summary>  →bookwebで購入 ―空虚を許さないエゴ・ゲロ私小説― 　或る友人によれ...</summary>
   <author>
<name>勝田有子</name>
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<p><span class="purple"><strong>―</strong><strong>空虚を許さないエゴ・ゲロ私小説</strong><strong>―</strong></span></p>
　或る友人によれば、わたしはエロ・グロ趣向なのだという。わたしにはこの評価を受け入れる気は毛頭なくて、エロ・グロにナンセンスを加えれば同意しなくもないという保留で応酬してきた。勿論、友人はフンと鼻でかわすだけで、わたしの抵抗は徒となり仇ともなって今日に至る。それでも、悪あがきを言わせてもらえば、ナンセンスの付加には意味がある。センスをチャラにすることは、物事を斜に構えて見るという捻（ひね）りを生じさせる。そうすることで、エロ・グロの生臭さから無難で気取った距離を設けることができるという寸法なのだ。この捻りこそが、強いて言えば、わたし好みであると豪語したいのだが、こうした屁理屈が通用しない事例が出没した。西村賢太である。

　西村賢太は、この書評空間でも阿部公彦・津田正の両氏によって紹介されていて、なんとも心強い。<a href="http://booklog.kinokuniya.co.jp/tsuda/archives/2008/10/post_23.html">西村作品群を水戸黄門やスターウォーズに譬えた津田氏の慧眼には脱帽する。</a><a href="http://booklog.kinokuniya.co.jp/abe/archives/2007/11/">阿部氏の「分裂した声」と「私小説－ひとりカラオケ」説も絶妙な論評である。</a>いずれにしても、是非、両氏の書評を合わせて一読して頂きたい。

　さて、その西村賢太であるが、単刀直入に言って、下品この上ない。暴力も性行為も金勘定も露骨なまでに赤裸々で、品のかけらもない。しかも、『どうで死ぬ身の一踊り』に限らず、彼のすべての作品は一貫して、この下品の反復をしている。そして、この反復が滅法心地よい。どうして、こんな下品な作品群を選りによって好まなくてはならないのか。わたしにとっての砦であるはずのナンセンスというオチを与えてくれない西村作品への傾倒は、詰まるところ、己れの品性を疑う契機でもある。

　それでも、敢えて下品以外の要素を拾うとすると、これまた彼の作品に一貫している事象なのだが、藤澤清造という遡ること昭和7年に芝公園で野垂れ死んだ作家への妄執のごときこだわりがある。藤澤の著作集を出版するという気概を貫くというのはまだわかる。ところが、藤澤の菩提寺に自分の墓標まで作り、挙句に同じ台座に藤澤と自分の墓標を並べてしまうという挙行に至っては、共感の一線を越える。
　この辺りの事情を『どうで死ぬ身の一踊り』は詳細に明かしてくれる。「墓前生活」なる一篇は、寺の軒下から探し当てた藤澤の朽ちかけた墓標を自分のアパートの一室に掲げて、自室を墓地にすることで安逸を得るという偏執を記している。ちなみに、『どうで死ぬ身の一踊り』の装丁も藤澤の著書からの流用なら、装丁題字にいたるまで藤澤の直筆を寄せ集めての集字から成っている。「どうで死ぬ身の一踊り」という言葉すら藤澤の言葉から引いているのだ。

　崇める対象に自分を同一化するというありきたりの専門用語では済まされない鬼気迫る執念が、女を殴打し、酒と風俗に明け暮れてゲロを吐き、女の実家から金を搾取するという節操のない日常の軸にある。これは同一化を凌ぐ一体化であり、意識的かつ積極的憑依現象とすら言える。
　そうして見ると、暴力もコントロールを外れた性欲も、対象との距離のなさという点において、藤澤清造への心酔となんら変わるところがない。西村の欲望のあり方は、いつも計算高いくせに、つんのめっている。距離感のない対人関係は、主人公（つまりは私小説であるらしいので、西村自身ということだが）の対自関係にも敷衍される。この男は、絶えず細々（こまごま）と考えては慌ただしく動いている。藤澤への偏執か性的欲望のいずれかによって突き動かされながら、忙（せわ）しなく次なる一手を企んでいる。些事を見逃さず、相手の一挙手一投足に一喜一憂し、セコイ損得勘定をしている。相手の言動を微細に観察して、機に乗じることを怠らず、彼らの心情をまったく度外視するエゴもここまで徹底すると、道徳の彼岸を感じさせる。

　これほどにも欲望にまみれた思考と行動が、隙間なくぎっしりと詰め込まれ、しかもカタカナのエロ・グロでは済まされないような生々しい体臭を放っているとなると、通常であれば辟易するはずである。少なくとも、わたしなら本を閉じる。ところが、事態は逆で、すっかり取り憑かれ、己の品性をうち忘れて、深夜の高笑い（これは昨今のわたしの習慣と化している）をあげている。
　このマタタビのごとき秘薬は独特の文体にある、とわたしは信じたい。たとえば、本書でこそ多発されないが、造語と思しき「はな」なる間投詞もどきは、病みつきになる。西村の文体は、短兵急なのに柔らかい関節を持っている。固有のリズムが、つんのめっても標的（女と藤澤）は外さない男の執着に一層の粘りを与え、こんな男から逃げ切らぬピントの外れた女には、まったりとした愛嬌を添えている。

　空虚が占拠する現代において、西村賢太の暴力的恣意と欲望は、読む側に空虚を許さない。あたかもマンガ化された心理小説であるかのように、主人公の思考・感情・言動の逐一が畳み込まれた作品は、読者に想像の余地を残さない。充満するエゴとゲロが、師走に嗜癖を招く。嗚呼、わたしを「エロ・グロ趣向」と評した友人の勝ち誇った顔が目に浮かぶ。
<br></p>
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   <title>『三四郎』夏目漱石(岩波文庫)</title>
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   <published>2008-11-12T14:52:37Z</published>
   <updated>2008-11-13T02:58:57Z</updated>
   
   <summary>  →bookwebで購入 ―未罪への遡及― 　診察室で出会う人たちが読書家と知...</summary>
   <author>
<name>勝田有子</name>
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<p><span class="purple">―<strong>未罪への遡及</strong>―</span></p>
　診察室で出会う人たちが読書家と知ると、「今、何を読んでいるの？」と尋ねないではいられない。先日、ある青年に恒例の質問をしたら、「『国富論』と『論語』を読んでいます」という返事が返ってきた。彼は、古今東西の名作とされる思想・哲学書を片端から読んでいくのを習慣とする。「話題になった時、知らなかったら格好悪いじゃないですか。『ああ、あれね』って言っておきたいわけですよ」と正直な青年は上目遣いに語る。

　この対話に遡ること半年余、彼は夏目漱石の『文学論』を読んでいる。青年は、「僕は夏目漱石の小説は読んでいませんし、どんな人生を送ったのかも知りませんが、あの文学論を読む限り、あれじゃあ病気になります。精神が持ちません」と言う。そこまで言われたら、職業的意地が働いて、わたしも読まずにはいられない。

　思い起こせば、それが漱石の水脈への第一歩だった。しばらくして、知人との会話のなかで「現代日本の開化」が引き合いに出された。これも早速に読んでみた。グールドが『草枕』（英訳では“Detachment”となるらしい）を座右の書としていたとのネタまで耳に届いて、そぞろになって読み返したりもした。そのような具合で、漱石はわたしの公私の生活を通じて、無闇に出没するようになった。

　駄目押しの漱石は、先月のことだ。同僚の医者が忽然と『三四郎』を語りだした。「上京する電車のなかで、三四郎が男に出会いますでしょ。そこでの或る台詞をわたしはずっと三四郎の台詞と思っていたのですが、司馬遼太郎がそうでないようなことを書いているんですよ」。いきなりの重箱の隅であった。入念というか、執念というか、彼は後日『三四郎』の掲載された明治41年の東京朝日新聞のコピーまで持参してきた。「夏目漱石は『三四郎』が頂点で、あとは読む価値がありません」と意見する同僚の一念に気圧されて、わたしはついに「頂点」たる『三四郎』の品定めに取りかかった。

　深い厭世観と生への意志との相克は、『三四郎』以降の漱石の作品で重たさを増していく。江藤淳によれば、「漱石は我執と言うか、エゴイズム、あるいはそれに由来する罪の問題を一貫したテーマに掲げて『それから』以後『こころ』までの作品を書いてきた」が、『三四郎』では、我執や罪の問題が顕在化することはない。我執の培養土たる自我も未だ熟成に遠く、罪にいたっては犯行以前の青年が三四郎である。

　上京した三四郎は三つの世界に住むようになる。母親に集約される懐かしいが寝呆けた世界、火宅を逃れ象牙の塔で太平を生きる学者の世界、そして開化の電燈のもと歓声をあげる美しい女性の世界である。三四郎はこれらを出入りしながら安住の世界を求めて逡巡するが、漱石はその彷徨を鳥瞰し、三つの世界を体現する登場人物をそれぞれに配するという距離をとっている。三分類はほとんど戯画的ですらあるが、それがこの小説に講談的テンポを与えて、読みやすさを添えている。しかも、視点はあくまで若い三四郎の眼に置かれ、配役は三四郎の眼から描かれるため、漱石特有の高踏的俯瞰色は薄まり、結果として、読者に適度の感情移入を許すような具合になっている。

　それにしても、第三の世界、つまりは美禰子に体現される世界については、舌足らずの感を否めない。「謎の女性」と形容されるようだが、この存在は腹立たしくもある。その極みは感情問題を借金問題にすり替えてしまう美禰子の手口で、それに左程の立腹を示さない三四郎も煮え切らない。借金は漱石の常套で、多くの作品に顔を出すが、『三四郎』の場合、与次郎に貸して戻らぬ三四郎の20円を、美禰子から三四郎への30円の贈与に変換してしまうというのが彼女の手口である。
　カラクリの詳細は本書で確認していただくとして、「この女は卑怯だ」というのがわたしの素朴な感想である。眺めるには美しく、近寄ると碌でもない。そもそも、冒頭に現われる車中の女性との一泊逸話にしても、「度胸のない方ですね」と嫌味を言われる始末で、三四郎は、結局のところ、女性に（限らないが）近寄らない。挙句に、「ストレイシープ」などとぼやいている。

　広田先生との会話（それこそがわたしの同僚の執念なのだが）の件で、三四郎は「熊本に居た時の自分は非常に卑怯であったと悟った」と言う。これこそは謎の台詞で、この文脈でどこがどうして卑怯なのかと入試問題などに出されたら、わたしは落第確実だ。ともあれ、卑怯なのは女たちだろうとわたしなどは短絡してしまう。そして、他方の三四郎は、仕掛けてくる女性陣を袖にするという卑怯をあたかも無自覚であるかのように繰り返す。

　与次郎の借金踏み倒しは粗忽さと図々しさの権化だが、美禰子の手口は隠微な策略である。その策略に対して、三四郎はただ金の始末（貸し借りの帳消し）をしたに過ぎない。隠微さは宙に浮いたままだ。そして、「ストレイシープ」なるぼやきが落ちときている。つまり、女性は曖昧なまま放置される。
　そうして見ると、漱石の描く女性は『三四郎』以前も以後も、雲を掴むようであり、実態が紗幕に掛かっている。「間三尺置いて」も輪郭がぼやけている。三浦雅士が『漱石―母に愛されなかった子―』（岩波新書）によって、女性問題（？）に焦点を当てたのも無理からぬことだ。ちなみに、三浦氏の視点から考えると、罪とは生い立ちに遡ることになる。とっても精神分析的だ。

　『吾輩は猫である』から『明暗』にいたる漱石の全作品は、わずか11年の間に書かれている。低徊趣味なる造語まで用意して、高踏的姿勢（detachment）を示した漱石であったが、ある人々にとっては、何尺であろうと離れるほどに夏目漱石なる人物とその思索の軌跡が気になってくる。執筆の総体をひと連なりの作品として読まなくては気が済まなくなる。評論や随筆、講演など資料は少なくない。妻や孫娘の「実話本」までが巷にはある。
　論より証拠で、漱石は精神病理学・病跡学の研究対象の定番となってきた。漱石がうつ病だったのか、統合失調症気質だったのか、境界性人格障害だったのかという分類に終始するのでは詰らないが、多くの専門家の興味をそそってきたのは無理もない。

　『三四郎』は、罪以前の奔放さを未だ宿した青年を描いた最後の小説であって、41歳の漱石には『草枕』や『虞美人草』といった「重たい」作品の後、『門』・『行人』・『こころ』の系譜へと向かう前に、未罪に立ち戻る必然があったのだろう。したがって、漱石のテーマであると言われる我執と罪に関わりたい読者も関わりたくない読者も無難に読書できる。
　哲学・思想書を読み漁る青年も、三四郎の言葉尻に半世紀近くこだわる同僚も、卑怯な女に頓着するわたしも、それぞれの取っ掛かりを胸に漱石を読む。漱石作品というパズルのどのピースを贔屓にするにしても、『三四郎』が独立したピースとして堪能できるのは言うまでもない。わたしもこれでようやく同僚に「ああ、あれね」と言うことができる。
<br></p>
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   <title>『閉鎖病棟』箒木蓬生(新潮文庫)</title>
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   <published>2008-10-01T13:33:29Z</published>
   <updated>2008-10-03T01:08:00Z</updated>
   
   <summary>  →bookwebで購入 &quot;&gt;―浪花節版『ショーシャンクの空の下に』― 　もと...</summary>
   <author>
<name>勝田有子</name>
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<p><span class="purple<strong>">―<strong>浪花節版『ショーシャンクの空の下に』―</</strong></strong></p>
　もとより辛気臭いわたしが曲がりなりにも生活していくためには、必要な条件というものがいくつかある。ある種の感動もそのひとつだ。たとえば、『ショーシャンクの空の下に』を観た（原作は読んでいない）時の感動がそれで、そんな時には「人間というのも捨てたものじゃない」といった素直な楽観に浸ることができる。（屁）理屈も深層心理もさっぱり抜けて、順朴に胸がいっぱいになるようなタイプの感動は、生きていくのに効果がある。

　『ショーシャンクの空の下に』 には神や宗教こそ顕在しないが、原題の“The Shawshank Redemption”にあるRedemption は、宗教的含蓄に満ちた言葉で、取り戻し、償還、約束履行、贖い、救済等々、実に多様な意味に訳されうる。何を奪回し、何が約束・履行され、自由とは何か、救済とは何か、意志と希望を支えるのは何か、といったテーマが原題には凝縮されている。刑務所という極端な状況下は、そのようなテーマを浮き彫りにするのに格好の舞台であるわけだ。

　この映画を始めて観た時、わたしは精神病院を彷彿しないではいられなかった。実際、刑務所と精神病院は歴史的には密接な関係にある。犯罪者と精神病者が区別なく監禁されていた時代は遠い過去のこととしても、閉鎖空間での隔絶を余儀なくされる点において、両者は自由の剥奪という大きな共通項を担っている（勿論、精神病院がすべて閉鎖空間であるわけではなく、自由意思で入院する場合も多いことをお断りしておく）。

　臨床家として精神病院に勤務し、長期入院（半世紀以上という方々も珍しくない）している人々と接していると、治療や療養という大義名分はあっても、実のところ「社会的入院」という大きな壁、つまりは家族もなく彼らを受け入れる住居（援護寮なりグループ・ホームと呼ばれる支援施設）の不足のために退院をできずにいる人々の多さには溜め息がでる。さすがに、冤罪によって入所させられた『ショーシャンク』のアンディに匹敵するような方、つまり病気でもないのに入院している方にはお目にかかったことはないが、長期の入院によるホスピタリズム（安易な言葉で好みではない）によって、退院をはじめとする「社会復帰」への道標を失くしてしまった方々の数は枚挙に暇がない。　　

　『閉鎖病棟』には、そうした長期入院によって病院を生活の場とせざるをえない人々が登場する。どの登場人物をとってみても、いかにもありえそうな過酷な過去を背負い、どこの精神病院でも見聞される裏社会（職員の蔭で展開する患者さん同志の闇取り引き）があり、ありがちな職員の顔ぶれが描かれている。著者の箒木が現役の精神科医なのだから当然でもあって、作家のリサーチと想像力によって継ぎはぎされているのではない臨場感が、この作品に人工的・作為的でない自然な流れを与えている。

　わたしにとって虚構を感じさせないもうひとつの要素は、『閉鎖病棟』が醸し出す懐かしい精神病院の文化にある。「精神衛生法」は「精神保健法」に、ついには「精神保健及び精神障害者福祉に関する法律」へと精神障害者のための法規は改正されてきた。そこまで転々と呼称を変えることにどれほど意味があるのかは知れないが、法規改正に則って彼らの環境が改善されていくことは喜ばしい。けれども、『閉鎖病棟』に描かれているような日常の作業やレクレーションは、「治療的」でなく「使役」や「こども扱い」であるとして、多くの精神病院から消滅していっている。確かに、病院は治療の場であって、生活の場ではない。入院治療の緊急性がなくなった時点で通院治療に切り替えるのが、通常の医療というものには違いない。問題は、現実の精神科医療は、そのような理想からは遠く、変革の過渡期にあって、すでに長期入院をしてきた方々にとっては病院が生活の場以外の何ものでもないということだ。

　『閉鎖病棟』は、そうした過渡期への門口に立つ地方の病院が舞台となっている。したがって、旧態依然とした精神科医が去って、颯爽とした若い女医が現れたところで、主人公の退院と新しい人生が始まることとなる。新しい人生の始まりとは、古いそれからの離脱であり、喪失でもある。箒木自身がどこまで古い精神病院文化へのノスタルジアを込めたのかは不明だが、この作品には新しい潮流と古きものへの郷愁がほど良い具合に織り込められている。方言がその郷愁に広がりとまろやかさを添えているのは言うまでもない。しみじみと情緒に満ちた文体には棘がなく、無駄もない。つまり、無理なく読める。読者の度量に挑戦してくるような気負いもなければ、独りよがりの尊大さもない。

　そんなわけで、わたしは自分勝手の合点とノスタルジアに浸って、浪花節版『ショーシャンク』を満喫して読了した。ところが、人生の楽観から覚めてみると、この作品で展開される出来事や登場人物の背景など、よくよく考えるとけっして「ありがち」ではない。当たり前のことと一蹴されそうだが、精神科医に「ありがち」との催眠をかける巧みさは感服に値する。そもそも、『閉鎖病棟』といいながら、舞台は「開放病棟」にほかならないのだ。けれど、そうした気づきは興醒めではなくて、大衆小説を書ける作家としての箒木蓬生の力量を確証したことになる。だいいち、小説を読む時くらい、易々と騙されてしまうのも悪くないではないか。
<br></p>
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   <title>『百』色川武大(新潮文庫)</title>
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   <published>2008-09-03T06:11:42Z</published>
   <updated>2008-09-04T00:18:36Z</updated>
   
   <summary>  →bookwebで購入 「孤独の共犯」 　本書は、「連笑」「ぼくの猿　ぼくの...</summary>
   <author>
<name>勝田有子</name>
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<p><span class="purple">「<strong>孤独の共犯</strong>」</span></p>
　本書は、「連笑」「ぼくの猿　ぼくの猫」「百」「永日」の四つの作品を収めた作品集である。川端康成文学賞を受賞した「百」を銘打っての一冊で、この意表を突いた題名は、父親の届かんとする年齢を意味している。

　色川武大といえば、執拗なほどに父親を作品に登場させ、脚色を加えない（と思える）私小説さながらの筆致で、父親との桎梏を描き続けてきた作家である。充分に興味深い生き方をしている母親は、肉厚の父親像に覆われて、脇役に甘んじざるをえない。実際、元軍人でありながら昭和の初期からハウスハズバンドを通した父親の存在感は異彩を放っている。けれども、この父子関係には、わたしの関心を妨げる何かがある。もしくは、そこには何かがない。そして、それが何なのかについて省察する器量の持ち合わせが、今のわたしにはない。むしろ、わたしを惹きつけて止まないのは、色川と弟の関係だ。
　
　「連笑」は弟との絆を描いた逸品として、他の三作とは異なる余韻を持っている。交通事故で入院した弟を見舞う日々を綴ったもので、別段大きなドラマがあるわけでもない。家族との日常を記したという点では、色川の一連の短編小説の類を漏れない。どうして「連笑」が別格なのかと自問してみて、思い出したのは『狂人日記』だった。

　『狂人日記』は、色川の唯一の（阿佐田哲也名義でない）長編小説（読売文学賞受賞）である。長編という性質のみならず、虚構の登場人物が配されている点でも、実家族が常連となる短編群とは一線を画している。ところが、弟だけは例外のようで、主人公の弟への愛情は、直裁に「連笑」のなかの実弟へと連なっている。
　現実と幻覚の混淆とその顛末を描いた『狂人日記』の主人公は、弟を夢にみては涙する。現実にも幻覚にも属さないがゆえに両者の混沌から免れた純粋な時間である夢こそが、弟のいるべき場所であるかのように、彼は弟を夢見続ける。

　『狂人日記』の主人公は、弟の眼を想起する。

<blockquote>あの頃、弟は匂いたつように清純で、ういういしいよい顔をしていた。特に眼がすばらしかった。ふりむいてこちらを見るだけで、彼のためになんでもしてやりたい衝動にかられる。…彼の淋しさや不充足が自分にはよくわかり、ほとんど一瞬に変わるような場合の彼の眼の色も、ちゃんと視線にいれているつもりだった。…弟のあのまなざしを得たというだけで、自分は幸せだったと思う。</blockquote>

　「弟のまなざし」は、「連笑」で再現する。

<blockquote>…戦争が終わって疎開先から生家に戻ってきたとき、弟は、私から見ると、寒々しく弱い眼をした、ただの少年の顔つきになっていた。ただの、というのは、ごくわかりやすい、というほどの意味だか、もちろんそういうわかりやすい不幸を侮っていたわけではない。
　もっとも弟の表情は、生家におちつくとともに、まもなく微妙に変化し、寒々しく弱い眼ではあるが、もっと個人的な、特殊なものになっていた。そうして弟は、後にはそれを自分の顔だと思い定めたようであった。　</blockquote>

　孤立を一人で抱えるのが辛すぎた少年期の色川は、弟を様々な放蕩の道連れにする。放蕩の行き先は、浅草のレビューや賭場や刑務所や便所や天井裏で、「社会人たちが一時的にしか関心を抱かない変則の場所」だったが、弟は従順に、変則の共犯となる。ちなみに、『狂人日記』においては、主人公は独自のカードゲームを案出し、弟をその耽溺と中毒の巻き添えにする。
　共犯の成立した時代、ふたりにはふたりにしか通じない暗号のようなセリフがあって、それは「連笑」のなかの追想で、何度も繰り返し現れる。
<blockquote>　弟は、折り折りに、私の不格好な頭の形を嗤（わら）った。
　他の話をしている最中に、ふっ、と嗤う。
　「―でも、その頭じゃね」
　「そうなんだ―」と私も、何の話であろうと、どうしても笑みを浮かべる、「これじゃァな」
　「どうにも、しょうがないね」
　「しょうがないんだ」
　そうして私たちはまた、ふっ、と嗤う。
　それは私たちだけの会話だった。弟が嗤っているのは、私の頭の形だけではなくて、私たちが持ち合わせているさまざまの、秀（すぐ）れていない大部分の持ち物に対してだった。それからまた、私たちの眼に触れるかぎりの他者が持っている秀れていない大部分に対してもだった。</blockquote>

　孤独を緩ませたであろう「しょうがない」というセリフには、仄かな共感を湛えたストイシズムが凝集されている。その禁欲は、無頼とも放埓とも形容される色川の生き方の根にあるもので、無気力な諦観とは感触を異にする。

　『狂人日記』で描かれた狂おしいほどに切ない愛情は、「連笑」において、共犯への感傷と罪悪感を織り交ぜながら、終始、現実のなかで描かれる。幻覚も夢もない、ふたりの現実である。変則の場所を定着しうる場所とし続ける無頼の兄と、鉄道とケレンのない山景色を好む会社勤めの弟の現実が、交通事故を契機に交差する。
　　
　追憶のなかの「しょうがない」が、束の間、再訪する。

<blockquote>　「どうにも、しょうがないね」

　「しょうがないんだ」

　そうして私たちはまた、ふっ、と嗤う。</blockquote>

　奈良までの小さな旅に出たふたりは、かつて浅草からの忙（せわ）しない帰宅でそうしたように、汽車に乗り遅れまいと走る。けれども、京都へと足を延ばすかもしれなかった旅は頓挫する。かつての共犯者たちは、それぞれの孤独の処方箋を手に、弟は自らの住む岐阜へ、色川は東京へと分かれていく。
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