« 2014年03月 | メイン

2014年04月16日

『ファン・ホーム―ある家族の悲喜劇』アリソン・ベクダル(小学館集英社プロダクション)

ファン・ホーム―ある家族の悲喜劇 →紀伊國屋ウェブストアで購入

マンガと文学のキメラ

 わたしは滅多にマンガを読まない。マンガの書評を書くのも初めてだ。犬も歩けばという具合に、出会った活字本をあれこれと書評空間で紹介してきて、7年目の浮気となる。
 アメリカで大ヒットし、数々の受賞のうえミュージカル化までされた(映画化だって画策されているかもしれない)という本書が、訳者の椎名ゆかりさんによって日本に上陸して3年。わたしが『ファン・ホーム』に当たるまでの歳月でもある。

 副題にある「ある家族」とは、ベクダル自身の家族で、したがって『ファン・ホーム』は自叙伝である。葬儀屋を営みながら高校の英語教師をする父親は、廃屋同然だったゴシック・リバイバル様式の家を完璧に復元し、外装・内装・庭園にいたるまで、金をかけずに手間をかけ、美への偏執的情熱に家族を翻弄させる隠れゲイだった。死体防腐処理をし、生徒に通じない文学を講じ、拾った骨董品を磨き、ハナミズキを山林から違法入植させ、未成年者をたぶらかす。これだけでもクラクラするが、挙句には、自殺と思しき交通事故によって急死する。娘(著者)が、レズビアンであることを告白した直後のことだった。

 『ファン・ホーム』は、父と娘の物語であり、心理的示唆に満ち溢れた回想録でもある。「子供のように家具を扱い、家具のように子供を扱う」唯美主義者、「熟練した技術を、物を作るためには使わず、実際の中身とは違う外見を作り上げるため」「非の打ちどころがないという見せかけを作り上げるために」使った父親との絆を模索する本書は、執筆そのものが追悼に匹敵する念力作である。

 本書には、二つの物語が大きなモチーフとして用いられている。ひとつは、オデッセウスを探すテーレマコスという父子。もうひとつは、ダイダロスが翼を与えるイカロスという父子だ。ただし、著者にとって、父子の配役は逆転もして、父がイカロスとなり、娘がダイダロスであったりする。いわく、「わたしたちは二人とも性的倒錯者〔invert〕というだけでなく、お互いがお互いの裏返し〔inversion〕だった」。「ある意味、父の終わりはわたしの始まりだった言うことができるかもしれない。もっと正確に言うと、父の嘘が終わるのと同時にわたしの真実が始まったのだ」。こうした一見難解な地文が、随所に現われるのだが、抵抗なく腑に落ちてくるのは、果たして、マンガ効果なのかもしれない。充分に悲劇的な家庭に喜劇性を加味しているのは、著者の見識のみならず、マンガという媒体の威力だろう。そして、本書が悲喜劇であることにこそ、回想録としての真実味があり、読者を惹きつける要因となっている。

 実人生を忠実になぞった本書には、文学を偏愛した両親とその影響下に育った著者のこと、文学書が頻繁に登場する。まずは、交通事故・不条理・死の脈絡で、カミュの交通事故と『シーシュポスの神話』が挿入される。これを皮切りに、フィッツジェラルド・ジェイムズ・プルースト・ジョイス・コレット・ヘミングウェイ・ワイルドなどなどが、続々と登場する。事実、「わたしにとっての両親は、小説の言葉で語るのが一番現実的だからだ」。同時に、「そして恐らく、距離を置いたわたしの冷静な観察眼のほうが、どんな文学的比較よりもわたしの家族に漂う寒々とした雰囲気をうまく伝えられるに違いない」とも書いている。まさに、文学に著者の眼(マンガ)を機織りしたところに、本作の妙がある。

 ただし、それだけが文学とマンガのキメラと称する所以ではない。事態はずっと痛々しいほどに根深い。「わたし自身、自伝への強迫神経症的性向がある」と述べる著者の現実への偏執は、本書の構造に抜き差しならない影響を与えている。たとえば、続々と登場する作家群の作品は、本物(フィクション)がそのまま引用文として現われる。これだけでも、マンガとしては結構に異例だと思う。さらには、作家たちの実生活(ノンフィクション)、つまりは評伝や自伝を元にした事実が、併走するように織り込まれる。そして、それら文学(者)の虚実を、家族の実生活(ノンフィクション)を描くために挿入することで、『ファン・ホーム』という作品(フィクション)は出来上がっている。本書は、虚実が周到かつ多重にあやとりされた巧みな技から成り立っているのだ。

 この事実と虚構のあやとりは、けっして計算だけによって成立したものではない。虚構(フィクション)を虚構として放置しないのではなく、放置できないところに著者の苦渋があるのだ。著者の強迫障害の既往については、実に説得力のある描写がされているが、虚構不可放置はなかなか切れない病いの尻尾のようなものだ。
 事実偏重の裏には、父親の虚飾の人生への反意が伏在していることは確かで、それ自体からして、コインの裏表(「お互いがお互いの裏返し」)を傍証すらしている。問題は、それが父親との絆の証明であるがゆえに、裏返しが続き、強迫性が止まないことにある。もっとも、その病いの尻尾ゆえに、『ファン・ホーム』という傑作が誕生したとも言える。

 いずれにしても、「現実のなかに虚構を混ぜるというのは、まったくもって父の得意とするところだった」と書く著者は、父親の得意技に更なる捻りを加えることに成功している。『ファン・ホーム』は、父から貰い受けた翼を太陽に溶かすことなく飛翔するイカロスとして、海に墜落したもう一人のイカロスたる父を許そうとする渾身の作品なのだと、わたしは理解している。

 『ファン・ホーム』を描いた6年後の2012年、ベクダルは“Are You My Mother?”で母親を描くことになる。こちらも自伝で、『ファン・ホーム』の出版によって父親の真相を暴露した著者と母親との関係が主題となるのだが、ベクダルの歴代精神分析家が続々登場するのみならず、分析家ウィニコットの実生活と著作が綿密に引用され、ヴァージニア・ウルフと交錯するという構造を作っている。ウィニコットの概念である「本当の自己」と「偽りの自己」を詳述(描)しているのも、いかにもベクダルらしい。失望させない一冊だ。

 されど、父を描き、母を描いたベクダルの現在の心境を想像しないではいられない。自伝に偏執するベクダルには、誰が残されているだろう。弟たちに主役の順番が廻ってくるとは考えにくい。母親は健在のようなので、続編を描くことも不可能ではないけれど、二番煎じは否めない。パートナーを引っ張り出してきても、二作ほどのインパクトは望めないだろう。余計なお世話かもしれないが、胸が痛くなる。事実への偏執が溶け、自伝でない作品を描けるようになることが、漫画家としてのベクダルの進化なのだろうか?それとも、虚実の入れ子細工に一層の技巧が加えられていくのだろうか?行方に息を呑む。

 追伸 さまざまな事情はあるにせよ、コミック一冊にしては値段が高すぎます。これでは、日本のコミック・ファンをおびき出せない。なんとかならないものでしょうか、小学館集英社プロダクション様。


→紀伊國屋ウェブストアで購入

2014年04月02日

『セラピスト』最相葉月(新潮社)

セラピスト →紀伊國屋ウェブストアで購入

弔いの邪推

 わたし自身の職業柄、無関心ではいられない一冊が登場した。精神医学と臨床心理学におけるそれぞれの巨匠、中井久夫と河合隼雄に触れているというのも、興味を惹く大きな要素だった。それにしても、表紙を占める白衣はなんだ?視覚人間であるわたしは、易々と表紙に惑わされる。人肌を感じさせないスーパー・クリーンな白衣が、無地の空間に吊るされている。吉田篤弘・浩美夫妻のデザイン。気のせいか女性的な佇まいだが、良く見れば合わせは左前で、男性用の白衣のようだ。眺めるほどに、それまで感じなかった人肌を感じるようになってくる。まさか、吉田夫妻が、投影法(心理テスト)を意識したはずはあるまい。邪推だろう。

 とは言うのもの、この白衣、読前と読後で印象が違ってくる。読後には、物哀しさが漂ってならない。それというのも、全編を通じて、どうにも喪失の気配がしてならないからだ。慟哭でこそないが、抑えられた哀しみを読み込んでしまうのは、わたしの色眼鏡なのか、それとも、著者の奏でる通奏低音なのか。このあたりは、読者に判断してもらうほかないのだが、わたしの眼鏡の言い分はこうなる。

 哀しさは、逐語録に際立つ。9章立ての構成の間に挿入され、逐語録(上)・(中)・(下)と称される部分だが、そこでは中井久夫との描画テストの様子が記されている。テストをされる側とする側の双方になることで、著者自身が臨床に直接かかわる場面が描かれていて、自ずと他の章とは筆触が違う。折しも、東日本大震災の直後の会見である。寡言ながら自らの老いへの言及が目立つ中井の佇まいが、悲哀感情を増幅させている。老境の泰然とした気配と読解することも可能なのだろうし、実際、中井の深い懐に包まれているらしき記載もある。にもかかわらず、著者が体験しているはずの安心には、何かが失われていく予感、もしくは既に失われたもののフラッシュバックを感じてならない。ノスタルジーとは別種で、懐かしさだけではなく、失ったものを惜しむ、または失いきれていない著者の未練が行間をよぎるのだ。著者は何を弔っているのだろう。ここまで書くと、やはり、わたしの邪推なのかもしれない。

 しかしながら、3日分の訪問面接が、1・2・3ならぬ上・中・下と命名配置された逐語録は、本書の要所でもある。もとより、本書を執筆するにあたって、臨床心理を学び、大学院にまで通ったという背景は、ノンフィクション作家としての取材や投資の常識を超えている。著者は双極性障害と診断されて治療を受けているようだが、精神療法への興味・関心・疑惑・期待・不信が、切実であったろうことは想像できる。
 個人的な必要性と作家としての必要性を折衷させたものが本書であるとすると、その葛藤もしくは矛盾が凝縮かつ止揚されているのが、逐語録の静かな時間のように思える。通常であれば、精神療法の逐語録が抜粋されても、一般読者を対象とする作品には馴染まない。個人的すぎて露悪的な自己満足に終わりかねない。さりとて、守秘義務のもと密室で行われる精神療法の実録は、作家としては貴重な資料にもなる。その危うい綱渡りを可能にしたのが、この逐語録部分であり、インタビューと治療的面接がアマルガムになったような複雑な時間を、著者は上手く堪えている。勿論、融通無碍な自然体のようでいて、専門家的な抑制を効かせた中井の対応の妙が、その知名度とともに奏功している。

 『セラピスト』は、逐語録を抜きにしても、ノンフィクション作品として充分に成立する。カウンセリングの歴史、戦後の日本の心理臨床を席捲したロジャースをめぐる背景、河合隼雄が日本版箱庭療法を普及させていくにあたっての構想などが、丁寧に取材された資料をもとに展覧されていて、心理療法とは何かを追求してきた先人の懸命さと真摯さを辿ることができる。中井の風景構成法も河合の箱庭療法も、西洋から輸入される様々な方法を鵜呑みにするのではなく、和魂を注いで手作りされたものである。その息吹が蘇る記録である。
 けれども、それらの技法が受け継がれていくなかで、社会は変わり、心理療法の文化も変化を余儀なくされた。膨大な需要と経済効率、立証可能効果(エビデンス)などに追われ、心理精神療法は寡言から多弁へと推移しているように思う。箱庭セットは文化財よろしく仕舞い込まれ、風景構成法も中井自身ほどには著名でない。

 巷間に溢れる心理書と実際の臨床とのあいだには、大きな懸隔がある。『セラピスト』は、臨床心理一般の実態を知らしめる本でもないし、河合隼雄であれ中井久夫であれ、特定の個人の評伝でもない。勿論、著者自身の闘病記録でもない。白衣の表紙をよくよく見ると、憎いほどささやかな文字でSilence in Psychotherapyと副題がある。絶滅に瀕した静かな治療は、まだ存在する。その記録が、この清楚な表紙を持つ一冊に込められている。

 最後に一点。本書のなかには、精神医学的用語や概念の誤用が3、4箇所散見される。執筆に費やしたであろう膨大な労力を思えば、看過できる程度のものだ。むしろ、専門家が一瞥すれば気づくはずの誤用からは、他者に頼ることをせずに、この作業をひとり負った著者の背中が偲ばれるのである。


→紀伊國屋ウェブストアで購入