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2013年05月29日

『Mastermind : How to Think Like Sherlock Holmes』Maria Konnikova(Viking Press)

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シャーロック・ホームズを副読本とした脳科学書

 テレビを観ないはずだった私にも、毎週楽しみにする番組ができた。『ドクター・ハウス(House M.D.)』も、そのひとつで、かつて観た『ER』よりも遥かに面白い。医療ドラマにありがちな人情噺ではなく、ハウス医師の思考回路(と人格破綻)が売りで、謎解きの醍醐味が味わえる。難病・奇病の診断を下していくプロセスが真骨頂なのだが、今更に気づいてみると、『ハウス』はシャーロック・ホームズシリーズをかなり意識して作られている。『ウォーリーをさがせ!』さながら、『ハウス』には、随所にホームズが隠されている。

 デイビッド・ショア(原作・制作)が、人気番組となる『ハウス』を世に送り出したのは、2004年。そして、1887年以来、1世紀以上の人気を誇るホームズは、2013年、コニコバという気鋭のライターによる『マスターマインド』に、再び登場することになった。『ハウス』同様、彼女の処女作は、すでにベストセラーとなっている。

 コニコバの成功は、脳の解剖図や羅列される実験データの代わりに、ホームズという名探偵を仕掛けたことにある。ホームズのBrain Attic(脳の屋根裏部屋)に何が起きているのか、ワトソンにそれが起きないのは何故か、どうしたらホームズのようなハンターになれるのかを、コニコバは明快なテンポと論理で綴っていく。ホームズというメタファーが、脳科学の説明に存分に生かされて、巧みな舞台回しを担い、幾多の脳科学書とは一線を画する異彩を放っているのだ。ホームズを抜擢したコニコバの卓見である。

 どれだけ読み易く書かれていても、脳科学の啓蒙書が、実験データの紹介に終始せざるを得なかったり、どの本を開いても登場するような有名な症例が繰り返されたりするのとは対照的に、コニコバは、ホームズやワトソンの言動を引用することによって、解読される知見に臨場感を与えている。しかも、ホームズシリーズの名作を抜粋しながらも、推理小説の要である種明かしは巧妙に避け、ホームズ未読の読者へのエチケットも忘れていない。それどころか、ホームズに立ち戻ってみたくすらさせる。

 同じ現場に遭遇しても、ホームズとワトソンはまったく違った推理に到達する。脳は、その習性(ワトソン・システム)として、ホームズ・システムを煙たがる。ワトソン・システムは、怠け者ゆえに慣性・惰性を好み、新奇を回避し、いとも簡単に洗脳され、感情に騙され、結論に飛びつきやすい。観察、想像、仮説、検証を司って現実を論理的に推理しようとする認知の働き(ホームズ・システム)は、省エネ好みのワトソン・システムには荷が重い。しかし、小説においてホームズとワトソンが同居するように、ワトソン・システムとホームズ・システムは同居しうる。御し難い習性を知ったうえで牽制し、リードしていくためには、ホームズ・システムの習熟と訓練が必要なのだ。

 ホームズの明晰な頭脳は、格好いい。けれども、ホームズのようになるのは不可能と決めつけることこそが、我らの脳をワトソン・システムに占拠させることになる。ホームズになるためには、コカインもヴァイオリンも要らない。そうなりたいと願う意気と向上心が肝要だ。そして、行動する前に考え、内省し、壁にぶつかったら散歩や編み物でもする。メモを活用するといった工夫も助けとなる。また、ホームズがそうであったように、ワトソン(つまりは他者)に話しかけるという行為は大きな意味を持つ。あとは、弛まぬ訓練によってホームズ・システムを習慣化することだ。もっとも、習慣化は惰性を産み、自惚れの温床となりやすい。そんな時、今更のチェックシートは馬鹿にならない効果を発揮するのだそうだ。

 結局のところ、ホームズの洞察は生活のあらゆる面に適用できる。殺人事件の解決だけが使い道ではない。ホームズ的態度・心構え・認知思考は、日常の様々な問題打開に活用できる。つまり、生きていく知恵の礎となる。

 コニコバは、コロンビア大学S.ピンカーの下で心理学の博士号を得ている。エンターテイメント性に富んだ一冊には違いないが、巻末には濃厚な参考専門文献が紹介されている。ホームジアンとサイエンス通のいずれをも裏切らない力作の誕生である。


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