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2013年04月20日

『皮膚感覚と人間のこころ』傅田光洋(新潮選書)

皮膚感覚と人間のこころ →紀伊國屋ウェブストアで購入

ハード・サイエンスの彼岸

 皮膚は気になる存在として、臨床の随(まにま)に立ち現れる。著者が強調するように、発生学上、皮膚は脳や感覚器同様、外胚葉由来の臓器である。脳と皮膚は同郷の好(よしみ)なのだ。しかも、自己意識は、触覚をはじめとする体性感覚を萌芽とするはずで、脳というシステムと記憶装置によって発達していく。あるいは、体性感覚が脳のシステム自体を発達させていくと言った方が適確ですらあるのかも知れない。してみると、二つの臓器の寿命の格差も意味深長だ。脳細胞も一途に死滅するばかりでなく再生されているようだが長寿と言うほかなく、皮膚は1ヵ月間ばかりの短い周期で死と再生を繰り返している。脳で築かれた自己意識という牙城は、皮膚からの絶えざる情報更新なくしては崩れ落ちる化城なのかも知れない。などなど、思いつきの連想は果てない。

 さて、この二つの臓器、原郷を共有しながらも、一方の脳は、毛髪や頭蓋骨に完全保護され、他方の皮膚は、ほぼ剥き出しで外界に晒されている。それだけではない。ニューロンのジャングルは、最先端の科学として世界中の関心を集め、膨大な研究費が費やされている一方で、個体の最前線で闘争と防衛に務める幼(いたい)気(け)な皮膚には、地味な予算しかあてがわれていないに違いないのだ。大衆の好奇心や野望を満たす美容/化粧産業は、皮膚研究の大きな推進力にほかならないとは言え、虚栄と俗臭の偏見を担わされてはいないだろうか。

 こうした文化にあって、昂然と旗揚げしたのが資生堂研究所の傳田光洋氏である。傳田氏は一般読者を対象とした著書を複数執筆しているが、専門文献とデータを添えて最前線の皮膚学を紹介・啓蒙する姿勢は一貫している。目にも見え、これといった華やかさもなく、何よりも既に馴染みであるという錯覚を抱かせている皮膚が、実はまだまだ未開のゾーンであり、新発見が続出されている臓器でもあることを、傳田氏の著書は知らせてくれる。

 四半世紀も前に覚えた皮膚科学の知識すらも朧気なわたしには、目からウロコが落ちる事ばかりだ。ケラチノサイト(表皮を構成する細胞)の機能として近年発見されたものの一端を羅列すると、1)空気中の酸素濃度を感知する。2)応じて、酵素を発動させ、エリスロポイエチンというホルモンを調節することによって赤血球を増減させる。3) 外圧に反応して一酸化窒素を合成し、血管やリンパ管を直接に拡張させる。4)ストレスホルモンと呼ばれるコルチゾールを合成・放出する。5)脳の神経細胞にある種々の受容体と同様の受容体が存在する。いずれも、驚きの発見なのだが、専門的すぎて感慨には結びつきにくいだろうと思うのは老婆心だろうか。

 傅田氏自身の研究も含めて、これら近年の発見を紹介していくことで、著者は脳と皮膚の類似点、少なくとも、接点を見出すことに舵取りをしている。皮膚が物理的に個体を覆い、結果として自他境界を形成しているというマクロの現象と、脳における自己意識形成というミクロの現象には深い関連があるはずだ、というのが著者の研究と思索の母胎である。皮膚が意識を作り出す重要な因子であることを突き止めようとする軌跡が、本書には刻まれていることになる。

 二つの臓器のあいだに横たわる途方もない未開地に怯(ひる)まず、局地戦ともいうべき実験の積み重ねへの忠実さを失わず、学際的視点を携えて開拓を続けていく著者の信念は、本書の随所に窺われる。しかしながら、皮膚と脳を繋げ、意識というパズルを完成させるためには、埋められないピースが余りにも多い。そこで、あたかも空白の切片を埋めるかのように、最新の科学論文の隙間を縫って、古今東西の哲学・文学書が引用される。リルケ、チェーホフ、レヴィナス、安部公房、萩原朔太郎、大森曹玄、トーマス・マン、荘子、ヴァレリー、三島由紀夫などを動員しつつ、著者は「こころ」に接近する。ハード・サイエンスのキャンプを超えた引用の多さには、著者の広い見識とともに科学が真理に追いつかないもどかしさを見る思いがする。

 欧米には、ダマシオ、ラマチャンドラン、ガザニカなど、最先端の研究者が一般向けに執筆し、しかもベストセラーになるという現象が珍しくない。わたしの興味の偏りが反映しているのかもしれないが、脳科学はここでも人気を浚(さら)っているようだ。同様の出版事情は日本にもあって、脳科学は、人生・ビジネス・恋愛などを大風呂敷で抱え込んで、一般読者を惹きつけうるマーケットになっている。
 けれども、ダマシオや茂木健一郎に続けと多くのランナーが勢揃いする脳科学のレースとは別のコースを、傳田氏は着実に歩んでいる。皮膚と意識を繋ぐ未知の糸を、脳神経学でも認知心理学でも認知考古学でも精神分析学でもなく、皮膚学の方向から手繰り寄せていく傳田氏の足跡には、ハード・サイエンスの彼岸を望む研究者の心意気を見る思いがする。


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