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2012年06月16日

『私が、生きる肌』ティエリー・ジョンケ(ハヤカワ・ミステリ文庫)

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―『蜘蛛の微笑』の形成手術―

 2004年に翻訳出版された本書は、ついこのあいだまで『蜘蛛の微笑』というタイトルだった。原題『Mygale』(毒グモ)を文意に沿って意訳したものだ。ちなみに、イギリスでのタイトルは『Tarantula(タランチュラ)』だったらしい。『蜘蛛の微笑』には、蜘蛛の巣のデザインが付されていて、ちょっと洒落た雰囲気を醸していた。フレンチ・ミステリーを意識したのかもしれない。

 ところが、アルモドバルの映画が上映されるや否やタイトルも装丁も一新された。映画のタイトルそのままに改題された『私が、生きる肌』では、アントニオ・バンデラスの危な気に色っぽい上目使いとマスクに覆われたエレナ・アナヤが表紙を占めている。定型的美男とは言えないバンデラスの灰汁の強い視線と、定型的美女とはいえ禿頭に顔面パック?したかのごときアナヤの無機的視線を、わたしたちは真っ向から受けることになった。映画化による変動には、著者のジョンケも草葉の陰でさぞや仰天していることだろう。なにしろ、30年近くも前に発表した自作が、アルモドバルの手によって驚異の形成手術を施されたのだから。

 表紙にこだわるようだが、映画の登場で装丁を一新したのは、当然のこと日本ばかりではない。好奇心から各国の映画以前の装丁を覗いてみて驚いたことには、鎖に繋がれて裸身を晒した表紙が少なくない。しかも写真というのだからエゲツナイ。蜘蛛の巣は描いても蜘蛛は描かない日本の意匠は、比類ない慎ましさを放っている。当時の『蜘蛛の微笑』背表紙には「淫靡なミステリ」と説明されているのだが、淫靡を隠微にしてしまうのが日本文化の底力なのだろうか。

 小説『私が、生きる肌』は、毒グモに喩えられる形成外科医の復讐譚である。巧みな職業的技術を駆使した冷酷無比な計画が、蜘蛛・毒・獲物という三部構成で、三人の登場人物の視点から語られる。視点の移動にともなって、同じ人物が二人称で語られたり、姓や名で呼称されたりする。この呼称の綾にはあざとさを感じないではないが、小説全体を蜘蛛の巣に模した作者の意図なのかもしれない。
 復讐の全貌は、監禁・支配・隷属という形式で、あっさり殺したりしないのは勿論のこと、蜘蛛は獲物をジワジワといたぶっていく。「裸身に鉄鎖」もあながちハッタリではなくて、比喩でも象徴でもなく始終登場する。蜘蛛の報復はSMなのだ。詳細はネタ明かしとなるので控えるが、淫靡たる所以がそこにある。
 ところが、本書が淫靡だけに終わらず、アルモドバルにインスピレーションを与えるに至ったのには訳がある。ジョンケはサスペンスに富んだ物語の底に、蜘蛛と獲物の反転、つまりはサドとマゾが皮膜の関係へと変貌していく在り様を据えていた。この人間関係の隠微な動きこそが、アルモドバルの創造性を刺激したのに違いない。

 復讐とは、痛みの報復であり、奪回できない剥奪されたもの、あるいは損なわれたものへの執着が憎悪へと姿を変えたものである。小説『私が、生きる肌』には憎悪があり、支配欲があり、性欲があっても、愛はない。愛の不在ゆえに、外科医リシャール・ラファルグの復讐は、新たな蜘蛛の巣への囚われという顛末を迎えることになる。また、そこにこそ、ミステリーとしての面白さがある。

 術前・術後の変化を比較してみたくなるのが人情だろうから、本書は是非とも映画と合わせて鑑賞されることをお勧めする。しかも、この作品にかぎっては、「読んでから観るか、観てから読むか」と悩む必要はいっさいない。新旧の文庫本が別物の装いであるように、原作と映画は大きく異なり、登場人物も変成され、結末すら違う。顔というアイデンティティ、さらには皮膚や粘膜という自我境界を剥奪されるという事態を、アルモドバルは自己喪失の究極的危機と見立てたようだ。そのテーマを映画ならではの視覚的技法で強調させている。小説と映画は、それぞれ逆方向のベクトルへ向かう人間の逞しさを描いていて、そこに双方を鑑賞する醍醐味がある。

 さて、わたしはまだ表紙にこだわっている。惨たらしさを情緒的に懐柔するのは日本文化のひとつの側面で、その良し悪しはあるにしても、本書が内包する複層的心理を「鉄鎖と裸身」で済ませてしまうのはどうかと思う。そうした露骨な煽情に宣伝効果があるとしたら、嘆かわしいかぎりで、ジョンケに代わって憤りたくもなる。もっとも、洒落た蜘蛛の巣を見たら、それはそれで著者は苦笑したかもしれない。今の表紙はというと、亡き作家の満悦が予想されなくもない。いずれにせよ、本の顔がどうなろうとも、小説『私が、生きる肌』の中身に変わりはない。


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