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2012年05月14日

『Depression in Japan: Psychiatric Cures for a Society in Distress』Junko Kitanaka(Princeton University Press)

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歴史は繰り返される 「神経衰弱」の木霊

 出先の本屋で探し物をしていたところ、ふと振り向いた棚に本書が横たわっていた。背負ったタイトルが職業的関心を惹いたものだから、パラパラと初対面の儀式を交わした後、家に連れて帰ることにした。日本人と思しき著者の名は、ローマ字のままでは収まりが悪い。早速グーグルして、「北中淳子」と漢字変換し、ようやく人心地がついた。“日本のうつ病”・北中淳子・医療人類学と日本語のキーワードを名札にした頃には、我が家の客人らしくなっていた。

 本というのは、訪問客のようなもので、出逢った作家から縁が続き、客層が拡がっていく。つまり、芋づる式である。本書と遭遇した日も、A.ヤングの『The Harmony of Illusion』(『PTSDと医療人類学』みすず書房)を探していたところだった。1995年にアメリカで出版されたヤングの著作は、PTSDという精神医学史上の難物を扱った名著である。しかるに、ヤング氏の予期せぬ連れ客は、なんと現代日本のうつ病というヌエに果敢に取り組んだ力作であった。

 鬱々としているということが「病気」なのか「性格」なのか、「致し方ない過労の結果」なのか「打たれ弱い結果」なのか。そうした疑問は、臨床家の脳裏を頻々と去来する。素人でも抱く疑問だと愚弄されるかもしれない。けれども、これが実情である。それどころか、こうした問いを逡巡し喧々諤々としてきたのが精神医学史でもある。

 そもそも、巷間にも知られているように、うつ病には罹りやすい性格があるとされている。几帳面・真面目・強い責任感や正義感といった特徴がそれにあたる。一目瞭然ながら、このうつ病プロトタイプには、道徳・倫理的ニュアンスがべっとりと沁み込んでいる。ちなみに、(精神)医学的基準に社会的基準がかくも紛れ込んでいるのは日本に限ったことではない。ところが、やがてプロトタイプを凌ぐ勢いで非プロトタイプが増え始めることになる。「逃避型うつ病」や「未熟型うつ病」の命名が日本の精神医学会で俎上に上ったのは、70年代に遡る。そして、自殺者数の増加を背景に、過去10年間、うつ病は専門家の枠を越えて話題に上るようになった。「現代型うつ病」や「双極性うつ病」、果ては「自称うつ病」に至る新たなラベルが、メディアを飛び交う時代の到来である。

 治療はというと、雨後のタケノコのごとくデビューする新しい抗うつ薬が片端から試されては一喜一憂しかねない。処方が膨れ上がれば、副作用のせいで、素の病態が隠されてしまう。精神科医への失望と嘲笑を煽るのは本意でないが、他医で処方された薬を専ら整理する精神科医すら出現するようになった。他方、非薬物療法としての認知行動療法も余念なく喧伝されて久しい。昨今のNHK特集は、どういうカラクリなのか反薬物療法の傾向にある。

 推奨される療法に特効が見出せないと、「遷延性うつ病」となって、休職・休学のための診断書は延長せざるをえず、「こころのカゼ」はいつまでも治らない。自殺という最悪の事態になれば、雇用企業を相手とする賠償問題へと発展する場合もある。この期に及ぶと、上記の疑問は法廷で繰り返される。自殺はうつ病のせい?企業のせい?医者のせい?性格のせい?それとも、尊重すべき個人判断? いかなる判決であれ、それがまたマスコミ報道を騒がせることになる。

 これらの現実が物語っているのは、精神科診断学の宿命的不確実さ、厚労省をはじめとするマスコミのプロパガンダに翻弄される世評、製薬会社の戦略、戦々恐々として防衛策に追われる雇用企業など、ひとつの疾患が担う社会的背景の裾野の広さである。私的事象であるはずの“鬱”は「医療化(medicalization)」され、仕事や生産性、規定や訴訟といった公的事象へと変換されていく。私的苦の意味は、社会のなかで拡散していくことを余儀なくされる。

 こうした「うつ病」という事態を、『Depression in Japan』は人類学的手法で紐解いている。江戸時代から現代にいたる豊富な文献資料も参考になるが、「関与しながら観察」するフィールド・ワークがそれらに血肉を与え、緊迫感を添えている。1998年から2009年におよぶ臨床現場でのリサーチ、学派を越えた数多くの精神科医をはじめとする専門家へのインタビューには、病者と医療者のどちらにも肩入れしない視点が保たれ、同時に両者の立場ながらの困難を浮き彫りにしている。

 本書の白眉は、現代のうつ病を巡るこうした展開が、ちょうど1世紀前の「神経衰弱」の変遷に類似しているという指摘にある。19世紀末に欧米で蔓延した神経衰弱は、日本にも飛び火し、エリート層が罹りやすい近代化の副産物とまで唱えられた。過労と自殺が関連づけられる一方で、遺伝する「脳病」の烙印を押され、社会的・心理的・医学的判定が足並みを揃えることはなかった。華厳の滝へ投身した藤村操の自殺が話題を呼んだのは日露戦争直前の1903年のことだ。藤村の死は、社会への警鐘と見立てる論陣と、人格の病として糾弾する側へと、時の知識人を二分する現象を産んだ。「神経衰弱」は1910年代には新聞・雑誌などのマスメディアを介して一般用語と化し、当時の精神科医は専門用語の乱用に苦言を呈したほどだった。神経衰弱に効能があるとされる商品の広告が新聞紙上を埋め、1917年には「国民的疾病」と報道されるに至る。そして、時代が戦局への胎動を見せ始める1930年代には、性格の脆弱性に起因するとの説が横行し始めるのだ。戦中には報道からも一掃された「神経衰弱」は、戦後、神経症(ノイローゼ)に置換され、歴史の表舞台から退場していくことになる。

 端折った説明だけでも「うつ病」と「神経衰弱」の近似を感じて頂けただろうか。精神科医を生業としていながら、本書を読むまで気づかなかった繰り返される歴史には、意表を突かれる思いである。さすがに「うつ病」が歴史から退場することはないだろうが、1世紀前には心許なかった脳科学的知見とインターネットという情報網の出現は、強大な編集力となって、繰り返されるシナリオを助長しつつ変奏を加えている。
 医療化の時代にあっては、個人が抱える鬱という生気のうねりに「うつ病」というタグが貼られ、果てには精神の高揚すらも躁と見做されかねない。或る者は病気であるがゆえのスティグマを負い、また或る者は病気ではないとされるスティグマを負う。脳内神経伝達物質の失調が原因とされている(つまりは「脳病」)一方で、「こころのカゼ」などという耳触りの良いキャッチフレーズを得ている「うつ病」の矛盾は、医療を越えた事情を物語る一端にほかならない。

 『Depression in Japan』は、タイムリーな話題を扱った誠実な作品である。「うつ病」を理解するのりしろを拡げてくれる一冊が、本国でも早急に出版されることを期待する。待てない方は、原著を読まれたし。


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