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2011年04月18日

『明暗』夏目漱石(新潮文庫)

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猫を追悼する

 『吾輩は猫である』を処女作とした夏目漱石は、未完の『明暗』を絶筆として、1916年(大正5年)49歳で他界している。僅か10年の執筆人生で、漱石は不朽の名声を残したわけだが、『明暗』は立体的な心理小説として、それまでの作品とは異質の読み応えを持っている。
 『明暗』の醍醐味のひとつは、心理戦の実況中継にある。勿論、対戦はお馴染みの組み合わせ、夫婦である。けれども、従来の夫婦と違い、『明暗』の妻お延は詰め寄ってくる。夫に詰め寄るばかりではなく、読者に迫ってくるのだ。

 迫ってくるのは妻だけではない。それまでの作品群で置き物のように配置されていた女性陣は、これ見よがしに生々しく情念を蠢(うごめ)かせる。この迫真は、漱石が夫からの視点に加えて、彼女らの内面にも視点に移して対局を構成しているからで、それによって彼女らは主体的に行動し始める(かのごとく見える)。見栄に強情、妬(ねた)みに僻(ひが)み、女たちの気魄は蔭に日向(ひなた)に跋扈(ばっこ)して、それらが読者に迫ってくるのだ。しかも、心理戦が1対1だけでなく三つ巴ともなると壮観で、臨場感を増す。もはや『吾輩は猫である』に見られるような落語の態でこそないものの、文章のトントン拍子は変わらない。会話の妙もさることながら、腹の内の独白からト書きにいたるまで、拍子木の冴えが光る。ひと区切りごとの閉めも見事というほかなくて、これなら朝日新聞の朝刊がさぞ待ち遠しかったことだろう。

 漱石にとっては、余程の事情があったとみえて、金銭の貸借と三角関係は本書でも登場し、日常風景ならびに重要設定となる。登場人物はというと、夫婦それぞれの叔父・叔母を筆頭に入り乱れ、従来の構成よりも立体的な人の世の縮図を展開させる。ならば、人間関係も一層もつれ、傲慢・屈辱・企み・優越感・悔しさ・驕(おご)り・無関心・蔑(さげす)み等々、人情の実例に事欠かない。結果として、『明暗』は、意地と勘ぐりの饗宴となっている。この勘ぐりたるや、折に触れては被害妄想と紙一重になって、饗宴を濃厚にする。詰まるところ、この濃さは漱石自身の意地と勘ぐりの濃さに匹敵すると勘ぐるほかない。

 自分にしがみつき、つまりは意地と打算に突き動かされて、勘ぐりに余念なく、始終相手の下心を先どりしては次の一手を目論んでいるのが、主人公の津田夫婦というわけだ。余談ながら、似たように多忙な主人公として、いまや芥川賞作家となった西村賢太作品が彷彿される。ところが、西村の愛嬌に満ちた野生エゴに比して、津田が振り回すのは頭脳優位の文明エゴで、動物的エゴはすっぽりと置き去りにされている。
 そのせいか否か、津田(夫)ほど味も素っ気もない主人公も珍しくて、小賢しい知恵こそ巡らすものの、野心もなければ責任もない。なによりも愛がない。良きも悪しきも小林から野心や怨念を抜いた出し殻のような男だ。実際、津田は小林の影法師のように思えてもくる。嫌われ者の小林は、自分が何故わざわざ嫌われることをするのかと弁舌を振るう。小林こそは、登場人物のなかで唯一内省をする人物だが、その内省すらも理詰めで汲々としている。意地と勘ぐりと理屈をすし詰めに担わされた群像は、窮屈に生きるがゆえに救いのない漱石の分身百科目録のようなものだ。

 分身が織りなす喧(かまびす)しさなかで、果たして清子はどういう位置づけを配されていたのか。漱石の信奉者のなかには、清子を則天去私の体現と読む向きもあるようだが、わたしには到底できない読解だ。当面の登場場面からは、置き物としての女性の再来としか思えない。清子の登場が、津田夫妻をどう変えていくのか。果たして、この分身群像に救いはもたらされるのか。漱石が清子を温泉場に登場させるなり他界してしまったことは、未完の推理小説が放たれたようなもので、大いに悔やまれてならない。

 『明暗』という喧しくも迫力のある実況中継を改めて眺めると、『吾輩は猫である』から猫一匹を引き算した世界に見えてこないでもない。猫一匹が退場すると、登場人物は剥き出しになって、間三尺を設けること叶わず、絡み合うことを余儀なくされる。猫の視点という諧謔が失せると、陰惨な人の世が残る。吾輩の知識欲と怠惰には、小さき者への愛を呼び醒ます慈悲効果があった。吾輩がビールを飲まされて水瓶(みずがめ)に落とされてからというもの、漱石の小説は興味深くはあっても、どこか居たたまれない。猫に冥福。


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