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2010年07月10日

『辻』古井由吉(新潮社)

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イタコ健在

 本書の表題は、小さく胸を打つ。口にもしなければ耳にもしなくなって久しい言葉が、懐かしさと戸惑いを生む。これが「交差点」では興醒めで、そうなると途端に、車やら煌々とした信号機やら、挙句にはアスファルトに引かれた白線の横断歩道までの一切合財が連想に押し寄せてくる。人や風の往来は掻き消されて、色気のない人工物が占拠するだけの場所となる。

 古井由吉の「辻」では、人が人と出会い、過去が現在を待ち伏せし、夢が現(うつつ)を浚(さら)い、想起と交霊が分かち難く起きる。『辻』に収められた12の短編は、それぞれ独立しているが、「辻」を共通項とする連作短編である。しかも、それぞれの短編が微妙に連関しているところが、通常の短編集とは大いに異なる。どこにでもある(あった)変哲のない辻が、作品の臍として現れるものもあれば、さり気なく挿入されている作品もある。いずれにしても、古井の「辻」では、時空が次元を変え、ふわりとコックリさんが訪れる。

 古井由吉の小説は、殊のほか『仮往生伝試文』以降、読む側にある種の覚悟を要求してきた。ところが、近年の作品は難解さの角が丸くなってきて、まったりとした気韻を醸している。もっとも、「老年とは死に向かっての緩慢な物狂いではないか」と作中にもあるように、霊妙に綴られる物狂いは益々濃厚となり、不可解さは寂(さ)びを募らせている。

 他に類を見ない特異な文体と作風は、素面(しらふ)のまま酩酊するような、正気のまま狂惑するような境地へと読者を誘っていく。いつ何処で起こったことをいつ何処で誰が誰に語っているのか。そうした語りの基本的構造は、脱臼したかのように寄る辺ない。安心して読んでいると、いつの間にか幽体離脱やせん妄に遭遇する。実例を引用したいのはやまやまだが、一部を抜粋してみても甲斐がない。この酩酊と脱臼は、作品のなかにあってこそ感じることができる。語り部の意識の流れに身を任せているうちに、川床に触れると起きる超常現象のようなものだ。

 そうは言うものの、川床に近い感触を味わってもらうために、古井の随筆の断片を紹介しよう。たとえば、『招魂のささやき』に収載された「死者のごとく」で、古井由吉はこんなことを書いている。

ある人が、自分は死者を相手にするよりほかに文体の成り立たせようを知らぬと言った。 私はこんなことを考える。私は日常の暮らしを重ねてきて、何の変哲もないある日、何の予感もなしに家を出て、そのまま帰らない―死んだ、と想定して、そこから遡って日常を描くことはできぬものか、と。

 これはどうだろう。最新刊の『やすらい花』(新潮社、2010)のなかの一節だ。
 

…それにつけても、古人は今の人間と、精神構造からして、その空間も時間も、ひろがりが異なると思われた。われわれほどには個人でない。内に大勢の他者を、死者生者もひとつに、住まわせている。まして歌を咏む段になれば、内から誰が、何時何処の誰が、おもむろに声を発するか知れない。…

 こんなことを日頃考えている作家の書く文章ならば、あざとさが鼻につき、読んでいてクサクサするか眠くなっても不思議はないのに、老成した文章には晦渋さも退屈もない。老成とはいったものの、古井由吉といえばエロスを抜きにしては語れなくて、当然のこと、辻はエロティックな場所となる。交合はありきたりの男女の性の営みに限らない。これまた世代を越えて、時間を越えて、受胎・懐妊が回帰する。あるいは、辻が交合そのものなのだとすら思えてくる。
 
 酔いと脱臼の旅から帰還して、ガサツな日常に戻ってみると、哀しいかな、イワシ一尾買うにも「交差点」を渡る自分に気づく。わたしたちの生活のなかで、「辻」という言葉に見合った場所が駆逐されてしまったことに、改めて気づく。アウトドアのコックリさんの生息する辻は、絶滅に瀕している。最近流行りのパワースポットは、身近な界隈にもあったはずなのに、それらを失ったわたしたちは、迷子が流離(さすら)うようにして、遠方の神社仏閣を訪ねている。
 草食系の男たちと肉食系の女たちが、掛け違えた釦(ぼたん)のように雑居しては同衾(どうきん)を避ける現代にあって、濃厚なエロスが交霊する辻は、昔語りになってしまったのかも知れない。それでも、チャネラー古井由吉は、次々と新作を発表して、その健在ぶりを発揮している。頼もしく、懐かしく、そして何よりも、有り難い。


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