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2009年11月17日

『蛇を踏む』川上弘美(文春文庫)

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平成版『死者の書』―

 先頃、新聞で川上未央子の作品についての書評を読んだ。彼女の著作は読まず嫌いであったけれど、興味をそそられたので読んでみることにした。一冊読んで感心したので、次々に読み進めてみた。そうして、やがて気づいたことには、わたしの読んでいたのは川上弘美であって、未央子ではなかった!名前を覚えきれないどころか、歌手やタレントの顔が誰も彼も同じに見えるようになって久しいが、こうした老化現象が作家にまで及んだのかと思うと、切なくなる。そうは言うものの、瓢箪から駒とはこのことで、未知の作家に出逢えた上に、心動かされたことはもっけの幸いであった。

 わたしがこうした勘違いをしていた頃、滅多に観ないテレビで、偶然、バカリズムなるお笑いタレントを見かけた。「サルカニ合戦」の動物などを人間に置き換えての紙芝居であったが、これが滅法おもしろい。サルを吉田さんとか、ウスを菊池さんとかに置き換えただけなのに、痛快になることこの上ない。テレビを観て高笑いする底の抜け方をするのも悪くない。とはいえ、底の抜けた後であれこれ空想するのはいつものことで、当時は川上未央子とばかり思っていた川上弘美の諸作品を積み上げた脇で、昔話について考えていた。

 洋の東西を問わず、お伽噺の多くには、動物が登場する。動物だけの場合もあるし、動物と人間のやり取りになることもある。わたしたちは、動物が人間同様の言動をしていることに、何ら疑問や滑稽を感じずに受け入れているわけだ。幼い頃には、動物と人間の境が曖昧なのだろうか。動物が人間になったり、人間が動物になったりすることに、訝(いぶか)ることもなければ、眉をひそめることもない。ここまで来れば、アンパンマン、ウルトラマン、ハリーポッターへのハードルはないも同然となる。後は、勧善懲悪や美醜の問題が、それらの世界への熱狂を左右していくような気もする。

 川上弘美作品に馴染みの方々ならば、このあたりで合点されることだろうが、彼女の作品には、昔話並みに動物が続々と登場する。1996年の芥川賞受賞作でもあり、本書の表題ともなっている「蛇を踏む」では、公園で蛇を踏んで以来、母親になりすました蛇が自宅に居着くこととなる。この蛇が、50がらみの母親姿で、「ヒワ子ちゃん蛇はいいわよ、蛇の世界は暖かいわよ」と蛇の世界へネトネトと誘い込む。「お母さんは蛇なんだからヒワ子ちゃんが蛇なのは道理なのよ」とか何とか口説いて止まない。この蛇パワーを、グレートマザーだとか「呑み込む母親」だとか精神分析的に解釈する無粋をしても始まらない。ここはひとつ、幼心(おさなごころ)に返って物語を鵜呑みにしよう。

 続々と登場するのは動物に限らない。無生物すら蠢(うごめ)き、正体を変え、人間の世界へと越境してくる。「クナニラ、クナニラ」と囁く先祖代々の霊の宿るゴシキという名の壺、女の姿をした鳥に浚(さら)われて蒸発した曾祖父、家の石や柱の間に混じって住んでいる「ねこま」なる生き物等々が湧いてくるのだから堪らない。思わず、一切衆生悉有仏性と唱えたくなる。つまり、川上弘美作品はモノノケ図鑑なのだ。じっとしていないモノノケが、人間世界を跋扈(ばっこ)して、ややもすると占拠し始める。

 人間はというと、これらのモノノケに肝を潰すでもなく、訪れと存在をひたすらに受諾する。踏まれた蛇は、「踏まれたらおしまいですね」と大仰な台詞を吐くが、踏んだヒナ子の方は、母親に化けた蛇の用意するつくね団子に箸をすすめ、酌されるままにビールを飲み干していく。モノノケの躍如たる世界にあっては、時に人間の影さえ薄くなる。字義通り、薄くなる。蛇との同居歴20年を越えるコスガさんは、「影が薄くなっていた」。「目や鼻や口は色が抜けて、少しのっぺらぼうに近くなっていた」。挙句に、本書収載二作目の「消える」では、家族が消えていく。しかも、こうしたフェイドアウトや蒸発に遭遇しても、人間たちは慌てふためかない。

 この自若の態は、達観とか諦観といった抹香臭いものではないのだが、シラけた現代人の距離感とも違って、登場人物はむしろ昔気質(かたぎ)ですらある。「蛇を踏む」では、闘うヒワ子ちゃんが見られるものの、物語の登場人物は概して受け身で、自分に執着しない。我執がないことでは徹底している。ほとんどの名前がカタカナ表記されていることによっても、無我の特徴は増幅されている。サナダさんも、ニシ子さんも、ヒロ子さんも、カナカナ堂も、漢字を剥奪されてカナ文字にされると、途端に‘主体’を稀薄にする。
 もっとも、モノノケにしたところで、確固たるアイデンティティを持っているわけではない。そこには、「ゲゲゲの鬼太郎」のモノノケ百科にある個性やバイタリティがない。邪(よこしま)な横暴もない代わりに、正義や善意があるわけでもない。意図がないのだ。モノノケは‘いる’だけで、これまた‘いる’だけの人間と馴染みとなって、「教訓のない寓話」は進行する。

 『蛇を踏む』は、かつて、わたしたちが何ら違和感を覚えずに心躍らせていた昔話の荒唐無稽への通気口となる。バカリズムのパラドックスに底を抜かすのは、わたし(たち)が換気不良の人間世界に蟄(ちっ)居している証拠かもしれなくて、幼児がバカリズムに高笑いすることは想像し難い。けれども、川上弘美の通気口は、さらに向こう側に繋がっていて、その先には、混沌とした生暖かい世界が底もなく拡がっている。それは、ひょっとして彼岸と呼ばれる世界かも知れなくて、川上弘美作品のモノノケは、あの世とこの世を往来するチャネラーだとしたら腑に落ちる。実際、彼女の作品には死者がしばしば現われる。『蛇を踏む』は、実のところ、日本人の死生観を描いた平成版『死者の書』なのかも知れない。


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