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2009年10月22日

『ハロルド・ピンター〈1〉温室/背信/家族の声』ハロルド・ピンター 貴志哲雄(ハヤカワ演劇文庫)

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「現実」をめぐる劇作家の支配

 戯曲を読むことは小説を読むのとは違った体験となる。当然のことながら、戯曲では、台詞が物語の構成要素のすべてといっても過言ではない。それに比べれば、小説はトガキで埋め尽くされているようなものだ。ところが、自分たちの日常生活を振り返って見ればわかるように、声になって現れる言葉などは人間関係の氷山の一角に過ぎない。それどころか、その一角は往々にして嘘や欺瞞に満ちている。しかも、それら偽りの巧みさ、稚拙さ、露骨さ、隠微さ、無邪気さから悪意にいたるグラデーション、つまりは罪の深浅には、計り知れない幅がある。だからこそ、ドラマは鑑賞するには面白く、生きるのは肩が凝る。
 そういう具合であるから、戯曲を読むと、活字化された声(言葉)に込められた意味や意図、そこに炙(あぶ)りだされる人間関係の綾を想像することになる。声の音調はもとより、見えない表情や物腰、間合いまでもが必然的に想像されることになる。

 ところが、読者に想像を要求するまでもなく、すべてが御膳立てされている戯曲もあれば、生半可の想像では歯が立たない戯曲もあって、ピンターの作品は歴然と後者に属する。ベケットやイヨネスコなどを嚆矢(こうし)とするいわゆる「不条理」演劇の系譜に連なるとされるピンターのこと、「わからない」台詞に遭遇することは確実で、「家族の声」にいたっては、台詞の掛け合いの蝶番が外れている。それに加えて、時空間にも飛躍がある。そもそも、どこまでが現実でどこからが空想・夢想・譫言なのかという境界すら鮮明ではない。台詞だけが剥き出しのまま突きつけられる。だから、「いったい何が起きているのか。何が起こったのか」という「現実」が見えない。

 「背信」は、収められた三作品のなかでは最も「わかりやすい」戯曲だが、物語が始まりから終わりまで経時的に流れて行くといった従来の戯曲展開の安心と受動の恩恵は期待できない。不倫を題材としたこの作品では、時間軸の移動(過去と現在が往来する)によって、誰が何をどこまで知っていたのかという「現実」の心許なさが浮き彫りとなっていく。「実は知っていた」ということは、「知っている」という事実を一方が他方に隠蔽していたというもう一つの背信を意味している。背信・裏切り(原題は“Betrayal”)は、単なる男女間の不倫だけを意味しない。登場人物は、だまし絵のように織り込まれた「現実」の傀儡(かいらい)となる。

 結果として、わたしたちは「現実」の不条理を突きつけられるわけだが、それだけならば、観客を煙に巻く気紛れなナンセンス劇と変わらない。ところが、ピンターの作品には不条理を不条理で終わらせないものがある。かくもバラバラで滅裂に近い会話の総体が示すものは、現実というものの脆さ・頼りなさ・虚構性であるにもかかわらず、ピンターの作品はその現実を見据える確固たる視線、それに対処する姿勢を感じさせる。描写される現実はたとえナンセンスであっても、生きることをナンセンスにはしない意志がある。そして、作品の見かけとは対照的なリアリズムを提示している。たとえば、上記の「背信」のだまし絵は、ピンターという傀儡師が緻密に構築した「現実」である。

 台詞だけで構成された戯曲には、読者が想像を自在に駆使できる自由があるように見えて、実は戯曲ほど作者の意図に支配された文芸もない。戯曲はそもそも声として発語され、生身の人間によって演じられるという肉体性を前提として書かれる。読者の感受性や思考という原野に放たれるものとしてではなく、役者の身体という現実の枠のなかに投げ入れざるをえない運命のもとに書かれている。演劇とは、その肉体性を通じてこそ表現され伝えられる芸術の形である。
 もとより自閉的な文芸の世界にあって、演劇は現実に開かれているのみならず、映画とは違って、一回性という現実を重視した芸術でもある。そこでは、役者の身体や開演時間といった現実の制約を受容せざるをえない。しかも、舞台は観客という生身の人間に曝(さら)されている。演出家・役者・観客をはじめとする多重の現実フィルターが、巻き戻しを許さない環境のなかで対峙する。戯曲とは、元来、現実に支配され、現実に挑む芸術なのだ。劇作家の表現した現実は、数多(あまた)の人間による現実の多様性に耐えられる支配力を持たなければ拡散してしまう。さりとて、支配的すぎる現実は、観客をはじめ他者の現実を度外視した圧制になりかねない。ピンターがもっとも忌避し、告発してきた圧制の複製となりかねない。
 「わかりやすい」戯曲にこそ支配はあって、ただわたしたちはその支配に鈍感になっているだけだ。わかったつもりの作者とわかったつもりの観客の思惑が一致すれば、舞台はわかりやすいものとなる。けれども、ピンターはわかったつもりの現実を分解していく。台詞だけという不自由さのなかに組み込まれた見えざる意図の構造が、「わからない」という不自由な現実にわたしたちを曝し、現実理解を変容させる化学反応へと誘っていく。

 昨年末に食道癌で他界したピンターは、後半生において政治色を前面に出し、個人の欺瞞のみならず、社会・国家の欺瞞を告発し続けた。ピンターのリアリズムは政治的言動と不可分となる。そのあたりの事情については、訳者である喜志哲雄が編集・翻訳した『何も起こりはしなかった』(集英社新書)を参考にされたい。書評空間でも西堂行人氏が書評している

 昭和3年に岸田國士を編集者として出発した演劇雑誌「悲劇喜劇」を刊行し続けている早川書房といえども、今のご時世に戯曲集を文庫で発刊するというのは天晴れというほかはない。ハヤカワ演劇文庫からは、ピンター作品に限らず、国内外の戯曲の数々が続々出版されている。戯曲に臨むのも、読書の秋には一興かと思う。


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