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2009年07月08日

『内田百閒( (ちくま日本文学 1) (文庫) 』内田百閒(ちくま文庫)

内田百閒( (ちくま日本文学 1) (文庫) →bookwebで購入

深入りしない物(もの)の怪(け)」

 内田百閒の作品では、始終、男が歩いている。大概は、土手を歩いている。歩いているうちに、しばしば、物の怪が現れる。両者はしばらく同行し、いかにも物の怪らしい挙動があったりなかったりして、終いには、往々にして、男は涙を流す。歩いて、憑かれて、涙する。
 物の怪は女だったり、狐だったり、父親だったりするけれど、中には最後まで正体の知れないこともある。「山高帽子」がその例で、幻の声が頓着される。主人公は自分の顔が無闇に大きくなったように感じ、閉居気味となり、出掛けても奇行が目立つようになる。そうこうするうちに、聞こえるはずのない声を聞き、出奔したりする。友人は彼が自殺でもしかねないと案じるが、当の本人は「疲れたらしい」と言って、どこか他人事のような悠長さで構えている。

 鈴木清順(監督)と田中陽造(脚本)が『ツィゴイネルワイゼン』で内田百閒作品を映像化したのは、かれこれ30年近くも前のことになる。原作は「サラサーテの盤」とされているが、「山高帽子」の幻聴場面もそっくり挿入されている。そもそも、藤田敏八も原田芳雄もよく歩いていた(食べてもいた)。大谷直子も切り通しやら橋やらを頻(しき)りに歩いていた。大楠道代にいたっては、のべつ幕なしに食べていた。健脚と美食の映画だった。
 『ツィゴイネルワイゼン』は内田百閒「怪奇譚」のオムニバスのような映画で、諸作品があざといほどにパッチワークされているのに、食傷するどころか蠱惑的で、とにかく衝撃的だった。鈴木清順の美意識は、内田百閒の淡泊な物の怪と健康な食欲を、濃厚な色彩と露骨なエロスへと換骨奪胎していて、その乖離は写真のネガポジのようでもあった。

 鈴木清順が、殊のほか「山高帽子」や「サラサーテの盤」に触発されたのも無理はない。それらでは、物の怪の配役に捻(ひね)りがある。物の怪の登場には、故人や狐といった憑くモノと遺族や偶々の遭遇者といった憑かれる者の配役が必須となるのだが、二作品の憑依関係はより錯綜していて、遺恨や怨念の翳りがある。その翳りこそを、人間模様の心理的解釈によってではなく、視覚的・感覚的官能によって拡大連想していったのが、『ツィゴイネルワイゼン』だった。ところが、原作はというと、翳りは翳りのままで、深追いされない。勿論、心理的解析などとは無縁のまま、物の怪の消息は絶える。

 「山高帽子」では、憑かれたように疲れるのは主人公で、睡眠薬自殺するのは友人である。この友人を芥川龍之介に想定した『眠り姫』なる映画(原作は山本直樹の漫画『眠り姫』)もあるらしいが、わたしは観ていない。ともあれ、幻聴に襲われる主人公はあたかも友人の狂気を代理する媒介であるかのように登場する。自分の幻覚にも仄かに呑気だった主人公は、友人の自殺をも他人事とする。

 その知らせを受けた時、私はいきなり自分の部屋に這入って、後ろの襖を締め切った。 「野口は自殺した」と私ははっきり考えようとした。  しかしそれは私には出来なかった。  どうして自殺したのだろうとも思わなかった。  ただ私の長い悪夢に、一層の恐ろしい陰の加わった事を他人事(ひとごと)のように感じただけだった。

 何日か過ぎたある夜明けに、突然私は自分の声にびっくりして目がさめた。何を云ったのだか解らなかったけれど、恐ろしく大きな声だった。咽喉一ぱいに叫んだらしかった。しかし別に悲鳴をあげるような夢を見ていたのでもなかった。寧ろ、ぼんやり頭のどこかに残っている後の気持ちから云えば、何かに腹をたてて怒ったのかも知れなかった。…

 内田百閒は、何に腹を立てていたのかを追及するでもなく、そのまま布団を被る。曖昧模糊としたものに輪郭を与えようとはせずに、放置する。涙して、悪夢に目覚めても、悲嘆や悔恨に暮れるでもなく、さりとて非人情というわけでもなく、あっさりとしている、と言うほかはない。

 「山高帽子」から19年を経て昭和23年に執筆された「サラサーテの盤」ともなると、筋立ても文章も緻密になっている。冴え冴えとした聴覚が、文頭から描かれる。宵の口の風雨が雨戸を鳴らし、それがいつの間にか止んだ静謐のなか、

 坐っている頭の上の屋根の棟の天辺で小さな固い音がした。瓦の上を小石が転がっていると思った。ころころと云う音が次第に速くなって廂に近づいた瞬間、はっとして身ぶるいがした。廂を辷(すべ)って庭の土に落ちたと思ったら、落ちた音を聞くか聞かないかに総身の毛が一本立ちになる様な気がした。

 幽(かす)かな音連(おとづ)れは、物の怪の訪れの予兆となる。

 「サラサーテの盤」は、他界した友人が主人公に貸したままとなった本やレコードを、妻を介して取り戻しにやってくるという筋立てだが、この作品では、誰もが何かに耳を澄ませている。そもそも、サラサーテの囁きが混入するツィゴイネルワイゼンのレコードに耳を傾けるという設定からして、頗る妖(あや)かしに満ちている。亡友は娘の夢に訪れるのだが、イタコのごとくうなされる幼女も媒介なら、物の怪のごとく決まった時刻に訪れる遺妻もまた、夢と現の境を往来させられる媒介である。

 その妻は、取り置かれていた亡夫の飲みかけのビールを主人公に注ぐのだから、もっと怖い。女が先妻への妬みを零し、物を取り返し尽くし、妄言の果て泣き崩れても、主人公は物の怪に接するように接している。つまりは、気配の訪れに感応しても、感情の内奥には触れない。内田百閒は、台詞や姿態を写すことには忠実だが、心理的奥行きには筆を伸ばさない。だから、遺妻も主人公も影の薄い物の怪であるかのように描かれていく。
 高等遊民なのか性格破綻者なのか、あるいは双方なのか、いずれにしても破天荒のままに他界した友人の人生にしたところで、内田百閒は事実だけを簡略に連ねて、感傷に傾くことは露もない。

 内田百閒の物の怪は、深入りしてこないし、作者もそれを深追いしない。その距離感は、精神的脆さを覆う防衛ではなくて、物の怪にも損なわれない内田百閒の素直な健やかさのように、わたしには思える。あちらの世界から物の怪が訪れても、あちらに浚(さら)われることはない。
 そういえば、「特別阿房列車」は、用もなければお金もないのに、大阪へのとんぼ返りをする話だ(これは怪奇譚ではない)。借金の方法から列車や相棒の塩梅まで、策略を練った挙句にようやく東京を出発したかと思うと、計画通りさっさと大阪を後にする。浚われてしまうことのない電車の旅を常とした内田百閒が書くと、怪奇譚もこうなるのかも知れない。
 
 内田百閒の36篇を収めた『内田百閒』は、ちくま文庫ならではの有難い一冊だ。夏の夜に怪談をどうぞ。


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