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2009年05月10日

『山梔 (くちなし)』野溝七生子(講談社文芸文庫)

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肉食系少女の曙

 久しぶりに空恐ろしい小説を読んだ。怖ろしいのは冷血無比な殺人者でもなく、霊界・幽界の魑魅(ちみ)魍魎(もうりょう)でもない。芳香を放つクチナシを母の髪に添えようと、その繊細な小枝に届かぬ手を伸ばす少女こそが怖ろしい。

 『山梔(くちなし)』は、作者の心理的自伝と思しき作品で、阿字子という稀有な名を持つ少女の幼少期から女学校卒業頃までを記している。題名となるクチナシは、冒頭にしか現れないが、届かぬ花を手折るのは、閉居耽読を旨とし「魔法使」と綽名される美しい女性である。妖艶さを醸す「魔法使」は、夕暮れ時に予言する。

「私は世間の母親に云ってやるわ。あなた方の娘が、私みたいなものに、ならないように御用心なさいってね。でも大変大変お気のどくなけれど、阿字ちゃんは、どうも私みたいになりそうなのよ。あなたは、私の幼い時の鏡みたいだわ。どうも、どうもお気のどくね。」 

 果たして、予言は的中を越えて、阿字子はドスの利いた怖ろしいこどもへ成っていく。

 野溝七生子は、明治30年姫路に生まれ、昭和62年90歳で他界している。『山梔』は大正12年26歳で執筆された著者の処女作である。多作な作家ではなく、東洋大学で教鞭をとっていた野溝は、戦後30年近くを新橋第一ホテルに暮らし、鷗外とギリシャ語しか読まないという孤高・孤絶の晩年を送ったという。半生の婚籍外伴侶であった鎌田敬止の死から7年の後、野溝は亡くなって、今は同じ墓地に眠る。最晩年には、辻潤との往時の色恋沙汰(の真偽)を巡って、瀬戸内寂聴と熾烈な闘いがあったらしく、その事件との因果関係は知れないが、被害妄想・幻覚を呈した挙句に、第一ホテルから老人病院へと寝食の場を移したと聞く。

 こうした三文記事的履歴を眺めただけでも、著者の凄みの一端が知れよう。けれども、何よりも説得力のあるのは、久世光彦の「証言」だ。野溝の生原稿(『眉輪』なるシナリオ)を手にした久世は、「それを埋め尽くす厖大な量の文字は、一文字一文字に意志の力が籠められ、憾(うら)みに似た思いが漲っているように、私には見えた」と書いている。さらに、「野溝七生子は、もしや三島由紀夫の生母なのではないだろうか」とまで書いているのだ。『山梔』がほぼ自伝として読めるだけに、こうした逸話は聞き捨てならず、迫力を倍増させる。

 阿字子の現実世界は狭い。家庭内暴力を憚らない元軍人の父親と、殊勝な母親、兄・姉・妹から成る家族を基本に、若干の登場人物が去来するに過ぎない。ところが、「魔法使」に入れ知恵されて以来、蔵のなかで盗み読む書籍こそは、母を喜ばそうとクチナシを求めて「空の彼方(かなた)にまで遠く腕を伸ばして何物かを摑(つか)もうとしているようにも純潔であった」阿字子の空想の糧となる。殊のほか、ギリシャ神話が阿字子の心を奪う。オリンポスの神々の欲望と力が、海辺の町に住む阿字子の意志と情動を発火させていく。

 小説の前半では、少女たちの残酷が生々しく綴られるが、その理知的解析と言動たるや、江國香織の少女たちとは比べ物にならないほど切れ味鋭く、硬派で、かつオドロオドロしい。阿字子は自分よりも該博でそれゆえに疎外されている早苗という学友を得る。たとえば、このような会話を小娘たちは交わす。

「…あなたは、私に、色んなことを教えて下さるでしょうね。」  早苗は、阿字子の指を、捻(ねじ)ったり、引っ張ったりして、種々に弄び乍(なが)ら呟(つぶや)いた。 「私はそのあなたの中から、もうずいぶん沢山、無断で、食べてしまったわ。あなたの、心臓をたべて血を嚥(の)んで。」 「あなたは、よくそんな風なことを云うのね。私の小さい時姪(めい)のように私を可愛がって呉れた女の人に、あなたはよく似ているの。その人も、そんな風なことばかし云っていました。」 「その人も、あなたの心臓を喰(た)べたんですか。魔法使のお婆さんが若い命をとり戻そうとしては子供の心臓を喰(た)べていたように。」 「あなたも、魔法使だなんて、そんな言葉を知っているんですか。」 「あなたが、私に喰(た)べさした癖に。私はこの頃、お伽(とぎ)噺(ばなし)ばかり読んでいるんです。今だって読んでいます。あなたと話していることがそうなんです。私はこの頃つくづく自分の不純にあいそをつかしてしまいました。だから何かを取り戻そうとして、あなたを喰(た)べることに極めたの。」

 「草食系」なるキャッチフレーズに象徴されるように、現代の小説群はもとより実生活における欲動や欲望は肉薄となって久しい。それに比して、『山梔』では、肉食獣さながらに欲動が襲来してくる。そこに怖ろしさの一因がある。しかも、その欲動に高邁・高潔な意志が殺傷力を添える。ちなみに、欲動といっても、性的因子は悉く排除される。プラトニックな恋愛すらも周到に排斥され、「あなたは、私の兄さんだったらよかったのです」という身も蓋もない台詞がロマンスの緞帳(どんちょう)を下げる。勿論、結婚に至っては問題外である。

 阿字子を衝き動かすのは、端的に言えば、社会が要請する女性の役廻りからの解放と自由である。自由への途上には、無規格ゆえの多様性がある。その多様性と両性具有的な魅惑は、少女のみならず少年にも本来備わっているはずだが、少女の場合、その季節は儚(はかな)いほどに短いものと相場は決まっているようだ。その季節を永らえさせるためには、闘いが不可避となる。社会・他者と、家族、特に母親と、そして誰よりも自分自身との格闘である。阿字子の場合、その闘いの傷は、切創では済まされない深手を余儀なくされる。寸時に豹変しては対極に振れる思惟・感情は、ローラーコースターさながらである。自殺未遂をしたり、卒倒したり、昏睡状態を続けたり、阿字子には静穏な意識の持続というものがおよそない。

 クチナシが妖しくも切なく香った黄昏は、後半に至って、怒涛の海を抱く曙へと推移していく。兄嫁の登場が触媒となって、阿字子の攻撃は、一気呵成に打撃力を増していく。究極的には、阿字子の闘いは、母親への愛憎を台風の目とする。322頁から10頁余に及ぶ母娘の詰め寄った会話は圧巻で、息が止まりそうになる。母娘の葛藤に今も昔もないものの、ここまで徹底して「言語化」する親子は滅多にいない。

 久世光彦は、『山梔』を近代の女人文学の原点であり、到達点であると評価したうえで、「少女の貴族性」という表現をしている。「<少女>という特権階級にだけ神が許した賤民蔑視の思想である。あらゆる現実を見下し、その日常と戦うことを高慢に軽蔑しようとする、純粋に居丈高な思想なのである。思想というよりは、<少女>という存在それ自体である(『昭和幻燈館』より)」。その思想の曙である『山梔』の阿字子は、7年後の昭和5年に執筆された『女獣心理』において、沙(すな)子と征矢(そや)という二人の女性の合体へと変容していく。シャム双生児の分離手術を描いたような作品で、二人に翻弄される男性が語り手となる興味深い作品だ。題名こそ物々しいが、先入観なしで読んでもらいたい。

 『山梔』も『女獣心理』も、重量感のある作品で、台詞のドスは利いているものの、地の文体はむしろ楚々淡々としていて、粋(いき)ですらある。いずれも、少女であり続けるという不可能な思想をまっとうした女性作家への畏怖と羨望を惹起させる稀書である。


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